神の降臨

神の降臨   出エジプト19:1~25、ヘブライ121824  2022.5.22

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119169、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:28、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:74、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ—59、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

私たちが服を着るとき、気をつけなければならないのは最初のボタンを正しくつけることです。これを間違ってしまうと、ボタンが全部ずれてしまいます。ボタンがずれたのに気がつけば、面倒でもまた初めからやり直さなければなりませんが、もしかしたらボタンがずれたのに気がつかないままの人がいるかもしれません。……人間の生き方もこれと似たところがあって、若く健康で、お金がいくらたくさんあったとしても、もしも人生の第一ボタンの位置を間違えてしまうと、どこかずれたままの人生を歩むことになります。途中で気がついて間違いを直せると良いのですが、それをしないまま一生を終えてしまう人もいます。この人生の第一ボタンというのは、自分はいったい何のために生まれてきたのか、といった人生の根本についての問題をしっかり判断するということです。私たちが自分の一生をむなしく終わらせたくないならば、この点をしっかりしていなければなりませんが、そのために与えられているのが聖書です。

 

聖書が大切な本だということは知っていても、とっつきにくいという人がたくさんいます。実際、とっつきやすい本とは言えません。しかし、ここには何でも書いてあります。聖書を読めば世界の歴史がわかってきます。一人ひとりの私たちが、神様から見るとまるで蟻のように小さいのに、しかしかけがえのない存在なのだということを教えてくれるのも聖書です。

聖書は、神がこの世界と人間を創造されたこと、人は神を信じ、神に従って生きるべきであることを教えています。でも神とは何でしょう。こう言うと、よく、神様は本当におられるのかという問題が出てきます。…神様なんて人間が考えだしたものではないかという人がいます。しかし、そんな人でもお正月に初詣に行ったりしますから、その態度が首尾一貫しているとは言えないでしょう。

人間が考え出した神様というのは、この国ではいたるところにあります。いつだったか私がスキーツアーに参加したとき、雪で何やら作っている人がいました。何を作るのかと思って見ていたら神様なのだそうで、その人は自分で作った雪像を、笑いながら拝んでいました。これがどんなに変なことかおわかりでしょう。ただ、それに似たことはたいへん多いのです。

雪だけではありません。石や金属、生きた人間、また一つの山が神様にされることがあります。私たちはむしろ、そうしたものを創ったのは誰なのか、大自然を産みだし、どんなコンピューターよりも複雑で精巧な人体を創った方が誰なのかを考えるべきです。へブル書3章4節は教えています、「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。」

神とはどんなお方であるかということを教会ではいつもお話ししています。しかし、神様のことをどんなに考えたところで、わかることはほんの少しでしかありません。人間が自分の手で神を作ったり、目に映ったものを神にしてしまうことはばかげていて、そんなことで神様を見つけることは出来ませんが、また神様のことをいくら考えても神様に到達することは出来ないのです。…神が現れ、人間に語りかけて下さらなければ、人間は神とはどんなお方なのかわかりませんが、そのことが起こったのが今日のお話です。

 

神はイスラエルの人々の前に現われました。

皆さんご存じのように、神様とイスラエル民族はたいへんに深い結びつきがあります。イスラエル民族、すなわちユダヤ人は悠久の歴史を持ち、人口は少ないとしても忘れてはならない人たちです。いまイスラエルの国はパレスチナ問題をめぐって、世界で賛成反対の激しい議論を呼びおこしていますが、今のイスラエルをどう判断しようと、この民族が世界の歴史に決定的な影響を与えてきたことは認めるほかありません。アブラハム、ダビデ、イエス・キリストばかりではなく、マルクスもフロイトもアインシュタインも、メンデルスゾーンもボブ・ディランも、映画監督のスティーブン・スピルバーグもフェイスブックのマーク・ザッカーバーグもみんなユダヤ人なのです。

奴隷として虐待されていたイスラエルの民が自由を求めてエジプトから脱出し、祖国に向かったのは紀元前13世紀と考えられています。イスラエルの民がモーセに率いられて進んでいったシナイ半島は今も砂漠と岩山がえんえんと広がっている荒涼とした世界です。エジプトを出て三ヶ月目に人々はシナイの荒れ野に到着し、標高2293メートルのシナイ山の前で宿営しました。シナイ山はかつてモーセが神様に会った山です。一人山に登っていくモーセに対して、神様が語りかけられました。この時の言葉を見ましょう。

まず4節です。「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを」。

神はイスラエル人を虐待したエジプト人に厳しい裁きをなさいましたが、しかしイスラエルの人々をこの場所まで率いて来られたのです。鷲の翼に乗せてと書いてありますが、神様に翼があるということではありません。神様が、まるで鷲の翼のように力強い愛情をもって、人々を奴隷の境遇から救い、ここまで連れて来たのです。

しかしイスラエルの人々は、神の愛を受けるにふさわしい素晴らしい人たちだったとはとても言えません。世界に散らばっている数え切れないほどたくさんの民族の中で、神様がただ一つ弱小民族であるイスラエルの民を選んで、神の愛を注がれたのです。

 

神がイスラエルの人々をここシナイ山まで導いて来られた、その目的は、ここで彼らと契約を結ぶためでした。それが5節の言葉です。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」。

契約と言いますと面倒だと思う人が多いかもしれませんが、これがなければ社会生活は成り立ちません。契約とは約束です。ただ口約束では心もとないので、署名し、捺印したりして正式の契約となるのです。ここでは神と人間の間の契約で、これは親と子の約束に似ているかもしれません。神様は親として、子である人間に言います。「もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」、…そのときイスラエルの民は3つの特権にあずかることが出来ます。

第一の特権は、「あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる」。世界はすべて神様のもので、世界のすべての民族、いくつあるかわかりませんがみんな神様が造られたのです。けれども神と契約を結ぶ民は、神様の宝物になるのです。

このことは大昔にただ一度起こったことではありません。この人たちの信仰の子孫が私たちなのです。神様を信じ、神様と約束を結んだ一人ひとりが、…たとえ私なんかだめだと自信喪失している人であっても、神様にとって特別な価値をもつ宝ものになっているのです。

6節を見ましょう。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」。第二の特権は、祭司の王国とされることです。祭司は礼拝をつかさどり、またこの世の人々のために祈る務めがあります。祭司の王国とは耳慣れない言い方ですが、王国というからには王がいなければなりません。王はすなわち主なる神、だから祭司の王国とはイスラエルの民すべてが王である神に仕える者となるということです。……このことは私たちに対しても、牧師など神に仕えることを職業としている人ばかりでなく、神を信じる人すべてが自分の生きる場所で神に仕える役割を与えられていることを教えています。神様に仕えることは私たちにとって重荷ではありません、光栄なのです。

イスラエルの民が受け取る第三の特権が聖なる国民となることです。……これは罪を全く犯さない、聖い国民になるということではありません。そんなことは不可能です。むしろ罪深い人間であるにもかかわらず、神様に罪を赦していただいて聖い国民になる、そういう意味で、神様を知らないし、知ろうともしない人々とは違う国民になるということです。……現代の私たちも聖なる国民になっています。それは自分が日本人とか中国人とかいうこととは別のことです。今ここにいる誰もが神の国の国民、聖なる国民になっているのです。

 

モーセは山から戻って、神様から頂いた言葉を人々に伝えました。人々は皆、一斉に「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います」と言って、神様の呼びかけに応えました。

こうして、神様とイスラエルの人々が契約を結ぶという出来事が起こります。人々は神の声に聞き従い、それによって神様が愛する特別な民になろうとするのです。これはおおよそ次のような手順で行われました。まず、1910節から15節までに書いてあることで、契約を結ぶ前の準備があります。神様と出会うため、人々は身を清め、心を清めなければなりません。…そして16節から19節までが、神の降臨、…そのあと神はモーセひとりを呼び寄せ、十戒を与えます。…24章になって契約の締結が、署名捺印ではない方式で行われることになるのです。

聖書には神の降臨のありさまが次のように書かれています。

モーセが山から下りて三日目の朝、山の上には雷鳴と稲妻と厚い雲がありました。角笛の音が鋭く鳴り響きました。神様がそこに来ておられるのです。人々は恐怖のためにふるえました。しかしモーセは人々をあえてテントから連れ出し、山のふもとに立たせました。ついに神が現われました。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである」と書いてあるとおりです。みんな、これを見てどれほど驚き、おそれたことでしょうか。まことに、人間にとって、神以上におそるべき存在はありません。

 

ヘブル書の1218節から24節まで、この出来事が今を生きる私たちにとってどういうことなのかが書かれています。

「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、『たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければばらない』という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、『わたしはおびえ、震えている』と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」

荒れ野の旅を続けていたイスラエルの民にとって、神の降臨はシナイ山の全体が激しく震えるほど恐ろしいものでした。誰も山に上って、神に近づこうなどとはしませんでした。そんなことをしようものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまう危険があったからです。モーセすらおびえました。主なる神はあまりにも聖なる方なので、誰もその聖さに耐えられなかったのです。

けれども、いま私たちが近づいているのはシオンの山、生ける神の都、天のエルサレムなど、これとは違う道です。神様は今も現れますが、私たちはその時、昔の人のようにおびえ、震える必要はありません。…むろん、だからと言って、そのことで神様を軽く見ることは出来ません。

かつてモーセとイスラエルの民は、神が降臨されるおそるべきありさまをその目で見て、恐れ、震えました。しかし、私たちの前にはイエス・キリストがおられます。主イエスが十字架において神の怒りを引き受けて下さったことで、私たちはイエス様の陰に隠れ、恐れることも震えることもなく、神に近づいていくことが出来ます。だから礼拝があり、祈りの時があるのです。

私たちの進んでいる道がまるでお花畑のようにきれいで、その先にばら色の未来が待っていると約束することは出来ません。それは曲がりくねった道かもしれませんし、かりにその道を踏み外したとしたら、どこに落ちてゆくのかわかりません。しかしながら、目の前に、人間の犯す罪に対し滅びと死でもって報いる恐ろしい神様がおられるのではありません。イエス・キリストの血が私たちを聖め、困難が立ちはだかっていてもその道のりを守って下さるので、神の怒りが自分を直撃することを恐れることなく、そのみ前に立つことが出来るのです。私たちはだから、大胆に神様に近づくことができるのです。

モーセとイスラエルの人々が恐怖にふるえながら、かろうじて救いにあずかったことをしのびつつ、私たちが今イエス・キリストを通して与えられている恵みを思い、未来に希望を望み見て感謝と賛美の日々を送ることが出来ますように。

(祈り)

天の父なる神様。今あなたが人間たちに許して下さった礼拝の場に出席出来ていることを、神様の恵みとして心より感謝申し上げます。

出エジプト記からみことばをいただきました。大昔の話ですが、まるで現代のことのように私たちに迫ってまいります。神様の導きがなければ、私たちも人生の荒れ野の中で道に迷ってしまうことでしょう。昔のイスラエルの人々は恐れ、ふるえつつ神様との契約を結びましたが、今の私たちは神様の愛を感謝しつつ、イエス様を信じることで契約を結んでいます。まだこれをしていない人もやがてそのように導かれることを願います。また、すでに契約を結んだ者もそのことをいつも思い起こし、イエス様のとりなしの下、神様に祈りを通してみこころを問い、それに応える信仰者の生き方が出来るようお導き下さい。

いま世界も日本も、そして私たち自身も、神様を怒らせ、悲しませる、解決しがたい多くの困難をかかえています。幸せを絵で描いたような人は本当にまれです。しかし神様、私たちの進む道がそれでも希望に向かっていることを思い、感謝いたします。どうか私たちが人生のボタンをつけ間違えることがなく、地上に生きる日の限り、みこころを問いつづけ、みこころに生かされる者でありますように。

 

主の御名によって祈ります。アーメン。