キリスト・イエスのしもべ

キリスト・イエスのしもべ  イザヤ4916、ロマ117 2022.5.15

(順序)

前奏、招詞:詩編119167、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:11、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:87a、説教、祈り、讃美歌:181、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

今日から主日礼拝において、「ローマの信徒への手紙」もプログラムに取り上げて、読んでゆきたいと思っています。

「ローマの信徒への手紙」、略してロマ書と言います。これは66巻ある旧新約聖書の中でもたいへん重要な手紙で、世界に大きな影響を及ぼしてきた文書と言えます。「世界最大の書物」と言った人もいたそうで、16世紀の宗教改革も、20世紀に入ってからのキリスト教信仰の刷新もロマ書がなければ起こらなかったのです。そうした歴史的出来事は、今後、折につれてお話してゆくつもりです。

ただ、ロマ書は難解なことでも有名な文書です。私の友人がカトリックの洗礼を受ける前に一念発起、新約聖書を全部読もうとしてマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒言行録と進んでいったのですが、ロマ書でついに挫折したと言っていました。…「いくら難しくてもそれがどうしたと言うんだ。ロマ書を読んでこそ信仰者だ」という人がいるかもしれませんが、難しい文章に慣れていない人にとってとっつきにくいということを無視するわけにはいきません。こうしたことは初代教会の時代にもあったのです。「ペトロの手紙二」の3章16節で、使徒ペトロはパウロが書いたものについて、「その手紙には難しく理解しにくい箇所があ」ると書いています。つまりペトロ先生にとってもパウロの文章は難しかった、もしかしたらロマ書の朗読を聞きながら、ああわからないなあ、ということだったのかもしれず、まして私たちは、ということなのです。よほど優秀な人でない限り、この書がすらすら頭に入ることはないでしょう。 だからこの礼拝説教では、一度にたくさんの文章を読むことはせず、少しずつ読み進めたいと考えております。

私にとってもロマ書で礼拝説教を作ることは大きな挑戦となります。ロマ書はその全体がいわばそびえたつ山脈(やまなみ)で、これを語るということは雪山を尾根づたいに次々に踏破してゆくようなものですから、私が途中で遭難したりしないよう、皆さんのお祈りによるお支えをお願いいたします。

 

この手紙は口述筆記という方法で書かれました。パウロが思いを込めて語ったことをテルティオという人が筆記して出来あがったものです(1622)。

手紙というのは近頃はあまり流行らなくなってしまったようです。ひと昔前は誰もがということではないのですが、心を込めて手紙を書くことが多かったのですが、今は電話一本だったり、メールで簡単な文章を送信したり、ラインで連絡を取り合うことが一般的になって、そうしたことは人間関係にも何らかの影響を及ぼしているはずです。…昔はたくさんもらったものだという人がいるかもしれません、ラブレターもなくなってしまうかもしれませんね。それはともかくとして、手紙を、プリントアウトという形ではなく、毛筆は無理だとしても人の手で書いていく、そこには今の私たちが忘れかけていたものを発見する喜びがあるように思います。

パウロはこの手紙に渾身の思いを込めています。しかし、彼はそれまでローマに行ったことはありません。別の地で会った人がその時ローマにいたので、手紙の文末でよろしくと言っていますが、そうした人たちを除くと、これはまだ見ぬ相手に向かって書いた手紙ということになるのです。パウロがこの手紙を書いた時の状況について、出だしのところには何も書いてないのですが、皆さんの理解の助けになることを願って、まずそこからお話しします。

 

パウロはもとの名をサウロと言いました。小アジア、今のトルコですね、キリキア州の首都タルソスで生まれました。ユダヤ人であり、またローマ帝国の市民権を持っていました。エルサレムに上り、ファリサイ派のガマリエルという著名な学者のもとで、律法について厳しい教育を受けました。

パウロはユダヤ教ファリサイ派のエリートとして、神がイスラエルの民に与えて下さった律法を守りぬくことによって、人は神のみ前に救いを得る、という信仰に堅く立っていました。その彼にとって、十字架につけられて無残な死をとげたイエスを救い主と信じるキリスト教徒は許しがたい異端者であったわけです。そこで人々の先頭に立ってキリスト教徒を迫害していたのですが、そこに復活した主イエスとの奇跡的な出会いが起こりました。イエス様から「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけられたことで、それまでの人生を百八十度転換し、イエスこそキリスト、救い主であるということを世界に伝える人になったのです。

 パウロはその生涯で何度も伝道のための旅行を行っています。聖書のうしろにある「パウロの宣教旅行2、3」をご覧下さい。点線で示されているのが第3次旅行です。アンティオキアから出発し、小アジアを抜け、エーゲ海に面したエフェソにいた時のことが使徒言行録1921節に書いてあります。「このようなことがあった後(のち)、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後(あと)、ローマも見なくてはならない』と言った。」…この時すでにローマ行きが頭にあったのです。エフェソからマケドニアとアカイア、エルサレムに帰ったら、またローマへという旅は、現代でも簡単なことではありません。

 パウロはエフェソから船と陸路でマケドニアとアカイアに向かい、コリントに3か月滞在します(使徒203)。ロマ書はそこで執筆されたものとする説が有力です(ロマ15192229)。ロマ書1522節以下にこう書いてあります。「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でもあなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。」

パウロはこのあと貧しいエルサレムの信徒たちのための援助金をたずさえてエルサレムに向かいます。やがてカイサリアで2年ほど監禁され、そのあと皇帝に上訴するため船に乗り、嵐の海とたたかいながらやっとのことでローマに到着することになります。

ローマはこの時代、ローマ帝国の首都であり世界の都ですから、そこに福音を携えて行くことの意義ははかりしれません。しかしそれもイスパニアに行くための前段階でした。イスパニアとはスペインのことで、パウロは結局その志を果たすことは出来ませんでしたが、彼は当時の世界にとって地の果てのようなところにまで出かけて福音を伝えようとしていたのです。

 

パウロはローマの信徒への手紙の中で、自分のことをあまり語っていません。自分のことより、福音そのものを力強く押し出しています。

冒頭の1節、「キリスト・イエス の僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウ ロから」。翻訳ではパウロの名前がいちばん最後に来ていますが、原文では最初にあります。直訳しますと「パウロ、僕、キリスト・イエスの、召されて使徒となった、選び出された、神の福音のために」となっています。

2節以下はそれを受けて「この福音は」、と福音の内容を語り、それが6節まで続いてゆき、そうして7節になってようやく「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」と、手紙の宛先が出て来るのです。

この時代の手紙の書き方は今の日本とは違って、冒頭に時候の挨拶が来ることはないようです。最初に差出人の名前を出し、次にすぐ宛先を記すのが一般的な書き方です。新約聖書の他の手紙もおおむねそのようになっています。だから、この手紙も「パウロからローマの信徒たち一同へ」だけでも良かったのかもしれませんが、差出人と宛先の間に福音についてのかなり長い説明が入るという構造になっています。そこには「福音を語ることこそ自分を語ることだ」というパウロの熱い思いが現れているように思います。私たちはそのことを「キリスト・イエスの僕(しもべ)」という言葉からも見出すことが出来るでしょう。

 

パウロは冒頭で、自分をキリスト・イエスの僕であると紹介します。ここで僕と訳された言葉ですが「下僕」と訳しているのもありました。これは奴隷と訳しても良い言葉です。

新約聖書には「しもべ」も「奴隷」も両方出てきますが、原文はすべて同じ言葉です。そのことを私は、恥ずかしながら、今回説教を作ってみて初めてわかりました。…たとえば主人が旅行に行く時、5タラントン、2タラントン、1タラントンのお金を預けたという話がありますね。そこを日本語訳では、僕に預けたと書いてあります(マタイ25章)、奴隷に預けたとは書いてありません。…また「罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)という言葉があります。これも日本語訳では「罪を犯す者は罪の僕である」とは言いませんね。しかしギリシャ語では「しもべ」と「奴隷」の区別はなく、同じ言葉を使っているのです。それでは同じ言葉をどういう基準で「しもべ」と「奴隷」に、分けて訳してあるのかということになりますが、英語の聖書でも訳を分けてあり、日本語訳はそれを踏襲したもののようです。

日本語では僕というと穏やかに聞こえ、奴隷というと悲惨な状況を想像してしまうのですが、パウロもその当時の人々もそんな区別を考えなかったのかもしれません。…いずれにしても主人に服従し、主人の意のままに行動するのが僕であり、また奴隷ですから、パウロはそのように自分を規定していたことになります。自分の人生は、自分のすべては、もはや自分自身のも のではない、自分を所有している主人のものだということです。 その主人こそキリスト・イエスにほかなりません。…なお、キリスト・イエスもイエス・キリストもほぼ同じですが、キリスト・イエスの方が神であるイエス様ということをより強調しているようです。

パウロがこれに続いて語っているのは原文の順序から言うと「召されて使徒となった」ということです。使徒というのは直訳では「遣わされた者」パウロは神に召され、ここでは「神の福音のために」という使命を与えられて遣わされているのです。…次の「選び出された」も同じことで、パウロが自分の意志で使徒となったのでないことを示しています。

私たちはパウロは主イエスの13番目の使徒であると教えられていますが、彼はイエス様が地上におられた時の弟子ではありません。そのため、パウロが自分は使徒であると主張しても、何を偉そうに、お前は12弟子ではないでないかとか、われわれを迫害した人間がどうして、と彼の使徒職を疑う声がけっこうあったのです。これに対しパウロは、自分が復活した主イエスに召され、選ばれて使徒となったのだと主張していったのですが、その時、これは自分の意思ではなく、イエス様の意思でそうなったのだと説明したわけです。そして「何を偉そうに」という人に対しては、使徒であるとは自分が他の人に比べて偉くなったのではないと、自分はイエス様のまさに僕であり、奴隷であると言っているのです。

パウロは神の福音、つまり神様からの良き知らせを伝えるために、主イエスから召され、選ばれた僕であり奴隷なのです。このことはパウロにとって、つらい、屈辱的なことでしょうか。そうではありません。人はふつう、奴隷であるより自由人である方が良いに決まっていると考えます。でも皆さんは、罪の奴隷となることと神の奴隷となることろ、どちらが良いと考えますか。…教会の外では、信仰生活には束縛が多く、信仰がない人の方が自由だと考える人いますが本当にそうでしょうか。いくら自由気ままに生きていても、自分の人生に本当の拠り所がない人はいったいどこに行くのかということを、考えてみて下さい。

「ハイデルベルク信仰問答」という大切な信仰の文書があります。これはロマ書の構造に基づいて書かれていると言われていますが、その第一問は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」、その 答えは「生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの信実な救い主イエス・キリストのものであるということです。」

「わたしは体も魂もわたしのものではなく、イエス・キリストのものである」、

それはパウロが自分のことを、キリスト・イエスの僕であり、奴隷であると言ったこととみごとに重なっていると思いませんか。

ここにこそ私たちの本当の生き方があります。それはいっけん不自由に見えても実はそうではありません。…もっともここから、じゃあ人間は神様の操り人形なのか、自由意思は認められないのかという議論も出てくるのですが、今後さらに議論を深めていくことといたします。私たちは使徒ではなく、パウロと肩を並べる者たちではありません。しかし自分はキリスト・イエスの僕であり奴隷であるというパウロの信仰が私たちを励まし、人生のいかなる時においても、また肉体の死ののちも、喜びの根源でありますようにと願っています。

 

(祈り)

天の父なる神様。今日からロマ書の講解説教が始まりました。これは牧師と信徒たちが一緒に高い山に登っていくようなことでありまして、途中で挫折する危険もありますが、どうかその道を最後まで守って下さるようにとお願いいたします。

パウロは自分のことをキリスト・イエスの僕だと書きましたが、私たちはイエス様に対してどのような者だと言うことが出来るでしょう。私たち一人ひとりが、自分がどこから来て、今どこにおり、これからどこに行くのかということを洞察することが出来ますように。そして、かりに自分が間違った道を歩んでいることを悟ったら、勇気をもってこれを正してゆくことが出来ますように。

イエス様のみこころに聞き従いたいと思いながら、サタンの誘惑にあうとすぐ神様から逃げてゆこうとしがちな私たちをどうか憐れんで下さい。ご一緒に重荷を背負って下さい。私たちを強めて下さい。

 

キリスト・イエスの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。