み国を来たらせたまえ

み国を来たらせたまえ   詩編222832、マタイ610   2022.5.8

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119166、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:228、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 今日、私たちが新しい思いで学ぶようにと与えられています主の祈りの言葉は「御国が来ますように」という祈りです。「み国を来たらせたまえ」の祈りのもとになったものです。

 

いったい主の祈りというのは、主イエスが祈られた祈りというより、主イエスが私たち人間に対して、このように祈りなさいと教えて下さった祈りです。なかなか祈ることが出来ない、それこそ困った時の神頼みで、窮地に追いつめられないと祈りの言葉が出てこない人間たちに対し、主が祈るべきことを教えて下さった時に出て来た祈りなのです。

その中の2番目の祈祷文は「み国が来ますように」、これを私たちは「み国を来たらせたまえ」と言っています。「み国が来ますように」は文語訳聖書では「御国の来らんことを」。各教派で唱えている主の祈りの中には「み国が来ますように」とそのまま唱えているものもあります。日本キリスト教会で「み国を来たらせたまえ」と唱えるようになった事情を私は知りません。ただ、「み国が来ますように」より「み国を来たらせたまえ」の方が、言葉の意味がはっきりしていると言えるでしょう。み国というのは自然に出来上がるものではなく、また人間の力で打ち立てるものでもありません。神からいただくものです。だから、そのことを意識して、み国を来たらせたまえとなったのではないかと思います。

話が前後しましたが、それでは神様に向かって「来たらせたまえ」と熱烈に願っている「み国」とは何でしょうか。これは原文からの直訳では「あなたの王国」という言葉になります。あなたの王国とは神様の王国、これが来ることを祈っているのです。   

 「み国」という言葉は、聖書の他の箇所で「天の国」とか「神の国」という言葉で表わされています。これも原文は「天の王国」、「神の王国」です。「天の国」と「神の国」、これはほぼ同じことなんですね。それは主イエスが伝道を始めたときの第一声を見ればわかります。マタイ福音書4章17節にある主イエスの伝道第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」、それが同じ場面を書いたマルコ福音書114節では「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」となっています。ほぼ同じことが、「天の国」、「神の国」、そして「み国」となり、そこで表されているものが何かということになるのです。

そこで、まず思いつくのは天国です。それは、どこか遠いところにあって、人が死んだあとで行くことが出来る世界です。しかし、み国が死後の世界だとしたら、主イエスはどうして、その世界が近づいたと言われるのでしょう。また、どうして死後の世界が来るように祈らなければならないのかということになりますね。まさか、悩み多いこの人生を早く終わらせて下さい、と祈るよう命じられたわけではないでしょう。そこで、み国を死後の世界に限定するのは間違いだということになります。

天は神がおられるところです。それは、遠く離れた世界のように思われています。では、遠く離れたところにおられる神はこの地上にはおられないのか、そんなことはありません。

生きている間、神と共に歩んだ人は、死んだのち神様のみもとに帰りますが、神様のご支配のもとにあるということでは、生きている間も死んだのちも変わりありません。……ですから、み国、天の国、神の国というのは、神様のご支配のもとにある世界で、この地上にあって良いのです。

 

 しかしながら、主イエスが「神の国は近づいた」とおっしゃっているように、この世界が完全に神のご支配に服しているということではありません。争いや戦争があり、自然環境が破壊され、悲惨な出来事にあふれている世界が神の国になっているはずはありません。「み国が来ますように」、それはこの世界に神のご支配がゆきわたるようにということ、この世界がまだ完全な意味で神の国になっていないから、そう祈るよう命じられているのです。

 世界の救い主として世に現われたイエス・キリストが「神の国は近づいた」と宣言なさいました。イエス様が来られたことによって、そのことが起こるのです。そうすると、み国は今、この世界に対してどのような位置にあるのでしょうか。それはすでに来たのか、いま来ているのか、それともこれから来るのでしょうか。

「天の国は近づいた」、「神の国は近づいた」、ここで「近づいた」というのは、聖書の原文を日本語に翻訳する時、そうとう考えた末に採用された表現でありましょう。原文ではこれは「近づく」という動詞の現在完了直説法3人称単数ということです。

ここである宣教師の話を紹介しましょう。この人は明治時代に日本に来られた方で、「神の国は近づいた」ということをどうやって日本人にわかってもらえるか、一生けんめい考えたそうです。「神の国はイエス様と共にすでに来たのだ。しかし、この世界はまだ神の国とはなっていない。神の国はやがてこの世界の上に実現する。この、『すでに』と『まだ』と『やがて』が一緒になっていることをどうやって日本人にわかってもらえるだろう」。こんなことを考えていた時、この人はたまたま鉄道のホームに立っていました。遠くの方から汽車が近づいて来るのが見えました。すると、そこにいた人たちがいっせいに「汽車が来た、汽車が来た」と叫んだのです。宣教師はすっかり驚いてしまいました。「汽車がホームにまだ到着していないのに、みんな、もう到着したように『汽車が来た、汽車が来た』と言っている。日本人は何と福音的な国民なのだろう」。

ここでお笑いになった人は、主イエスがおっしゃった「神の国が近づいた」の意味がおわかりになった人です。「神の国は近づいた」、それは、神の国はまだ実現していない、しかしキリストにおいてすでに始まり、やがてこの世界に実現されるということです。それは遠くに見えた汽車がホームに入ってくるほどに確実なことなのです。

 

み国、すなわち天の国、神の国がこのように世界に近づいた……。しかし、そうは言っても、それがいったいどうした、自分の人生となんの関係があるのだろうと思っている人もいるに違いありません。信者でも、神様が見えなくなってしまうことはよくあるからです。

この世界は、戦争ひとつとってみても神様のみこころとは遠い悲惨な出来事に満ちています。私たちの人生をみても毎日、生きるためにつらい仕事をしなければなりませんし、いやな人とも顔を合わせなければなりません。家庭の中でお金のやりくりに困ったり、病気になったり、子どものことでさんざん悩まされることがあるでしょう。…もちろんすべての人がそうではなく、毎日が幸せで充実しきっているという人もいるとは思いますが、そういう人生を夢見ながらそれが得られないことも多いわけで、自分が置かれた境遇が苦しければ苦しいほど不機嫌になったり、他人につらく当たったり、またつかの間の楽しみに溺れて現実から逃避しようとするものです。何がみ国だ、何が神の国だと思うのです。しかし、そんな気持ちのままで一生を終えても良いのですか。神の国が近づいたとはどういうことなのか、もう一つのたとえで考えてみましょう。

 

ここに一つの大きな家があります。この家はすでに朝の光に包まれています。しかし、この家の窓には厚いカーテンが下りていて、その中は暗闇のままです。そのため、その家に住んでいる人は、家の外も同じように暗闇のままだと思っているのです。

暗闇の中で生きなくてならないのは、そこに住んでいる人たちすべてにとって共通の現実です。…しかし少数の人だけは、朝がもうすでに来たことを知っています。それは、家の外が光につつまれていることを教えられているからです。今は暗闇の中で生きてゆかなければならないとしても、この家はすでに朝の光につつまれている。このようなことを信じることが出来るのが信仰者です。

キリストを信じる者にとって、朝がすでに来ているという告知は、決して気休めでも、手の届かない夢でもありません。それは絶対に確かなことなのです。…目の前にいくら残酷な現実があったとしても、世界を全体としてみれば神のご支配のもとにあります。…しかし、同時に、自分がまだ闇の世界にいることも忘れてはならないわけです。どういう理由があるにせよ、多くの人たちはこの家だけでなくその外も闇の世界だと思っていて、闇の世界の流儀に従っていかなければ生きていけないと思っています。キリスト者もこの現実を無視するわけにはいきません。だから蛇のように賢く、鳩のように素直に生きることが求められるわけです。キリスト者は、この二つの矛盾する現実のはざまに身を置いているのです。

キリスト者は、やがてこの家の厚いカーテンが神様によって取り払われ、朝の光が満ち溢れる日が来ることを知っています。しかし今は、暗闇の世界の中で歯を食いしばって生きなければなりません。…ただし、それは、前途に希望の光を見ながら進む歩みです。

窓の外が朝の光に包まれていることを信じられない人は、前途に夢も希望も見出すことなく人生を送るほかないのではないでしょうか。しかし私たちは、厳しい現実の中にあっても目を上げて光の世界を仰ぐことが出来ます。死んで復活されたイエス・キリストがそのところから私たちを導いておられることを知って喜びとするのです。

 

イエス・キリストは神の国がご自分を通して始まったからその心がまえをせよ、と説かれたのです。しかし、この時代の多くの人々が心に描いていた神の国の姿とは、強力な指導者が出現することでイスラエルがローマ帝国からの独立を成し遂げることでした。こうした人々の期待を担うかと思われた主イエスは、しかしそのような指導者となることを拒否され、その結果、失望した人々によって十字架にかけられてしまいました。

主イエスの指し示している神の国とは、英雄が出現して強大な国家が建設されることでないのはもちろん、人間が、人間の力を結集して、理想の社会を作り上げるということでもありません。この世界が進歩して理想の社会ができあがることを唱えるどんなイデオロギーもイエス様が教えて下さったものではありません。み国は神のご支配が人間にとって変わることから始まってゆく、だからそれはイエス様がその命をかけて作り上げたキリストの体、教会から始まってゆくのです。

ルカ福音書1720節以下に、主イエスがみ国について質問された時のことが書いてあります。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『「神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」

神の国はあなたがたの間にあるということは、神の国はそれを信じる者たちの間にあるということです。言い換えると、神の国はあなたがたの間にいるイエス・キリスト、十字架にかけられたけれども死に打ち勝って復活された救い主によって存在するといことです。

地上の世界は、み国とは似ても似つかぬ状況の中にあります。しかしこの現実のただ中、この場所にも教会が建っているということは決して偶然ではありません。父なる神と子なる神から発出した聖霊が教会を起こして下さいました。現実の教会には、高齢化や若い人々への信仰の継承などいくつも難しい問題が立ちはだかっていますが、それこそ厚いカーテンに仕切られた家の中が世界で暗闇がすべてだと思っている限り活路を開くことは出来ません。目を上げた時、光の世界が見える、そのところから新しい一歩が始まるのです。

「み国を来たらせたまえ」それはイエス・キリストを信じる者の心の中に始まった神の国が、各地につくられた教会を通し、誰もが予想できないほどに大きく広がり、やがて全世界をおおうようになることを信じて祈る祈りです。

 

(祈り)

恵み深い神様。今日、私たちに神様のもとから光と希望が与えられたことを感謝いたします。

自分の信仰に確信を持てず、この世の魅力に心奪われ、流されそうになっている心弱い私たちをあわれんで下さい。この私たちがいつでも「み国を来たらせたまえ」という祈りに立ち返り、そこから望みを回復してゆくことが出来ますようにと願います。今、愛する信仰の友と、一緒に祈り礼拝するこの時、どうか主イエスがいますことを覚えさせて下さい。

 

み国を来たらせたまえ、この祈りは私たちの疲れた心を再び元気にしてくれる祈りです。その祈りの中に、今日から始まる私たちの一週間があり、みこころにかなった歩みが喜びと感謝の中でなされますように。世界各地の教会を強め、そこにみ国が現臨していることをお示し下さい。み名をたたえます。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン。