神のみ名のために

神のみ名のために  詩編13818、マタイ6915    2022.5.1

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119165、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:3、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:78、説教、祈り、讃美歌:290、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、讃美歌206)、(献金)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 私たちは教会で、いつも「主の祈り」を唱えていますが、そのことにどんな意味があるのでしょうか。…この祈りがいったいどこから来たのか、それぞれの語句が何を言っているのかということを何回かに分けて、学んでいくことにします。主の祈りは、意味もわからないまま唱えていればいいというものではないからです。主の祈りを唱えることが、私たちにとって、呪文を唱えることと同じになってはならないからです。

 

 主の祈りはマタイ福音書によると、イエス・キリストが山上の説教の中で教えて下さった祈りです。それは、祈りについての教えの中で与えられたものでした。

イエス様は6章8節で「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言って、主の祈りを教えて下さったことになっています。…ただ、山上の説教は5章から7章まで続く、たいへんに長い説教で、イエス様は実際にこれを一回の説教としてお語りになったのかという疑問が起きます。それもありうるかもしれませんが、もしそうだとしたら、聞いている人々は頭に入りきれないのではないかと思うわけです。そこでこの福音書の作者マタイが、山上の説教という大きな枠の中に、イエス様がほかの場所でした教えも一緒に持って来て編集したという可能性が考えられるようになっています。

一方、ルカ福音書11章には別の話が書いてあります。そこでは、弟子たちがイエス様に「わたしたちにも祈りを教えてください」と頼んでいて、イエス様がそれに応えて教えて下さったのが主の祈りということになっています。そこでは、祈れない者に対して教えて下さった祈りなのです。…ただこちらの方も、祈りに関する教えをまとめた中にこの話が入っているので、やはり編集者の手が入っている可能性があります。

ということで、学者でも、マタイとルカのどちらの話が本当なのかと尋ねられた場合、マタイです、ルカです、と断定することは出来ません。イエス様が最初に、どういう状況でこれを教えて下さったかということは、今もって突きとめられないままになっています。ただ事実がどうであったとしても、信仰的には、マタイもルカも、どちらも正しいということで問題ありません。

 

今日は6章9節の「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように」を学びます。私たちの祈り、「天にましますわれらの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ」の根拠となっているところです。

 この祈りは「天におられるわたしたちの父」に対して、呼びかけています。天におられる神様を私たちの父とすることは、私たちは当然のように思っているかもしれませんが、初めて聞いた人たちはびっくりしたのではないでしょうか。…というのは旧約聖書を調べてみたら、神様を主と呼びかけており、父として呼びかけた祈りはなかったからです。

 主イエスが登場するまで、ユダヤの人々にとって、天におられる神は恐るべきお方、聖なるお方でした。神様を見ることは出来ないし、見たら死んでしまうと考えられていました。つまり人間たちとはまったく隔絶したところにおられたのです。ですから神聖なる神様を自分の父と呼ぶことが出来るというのは、全く思いもよらないこと、驚くべきことだったのです。

 では、主イエスはなぜ、私たちが神を「父よ」と呼ぶことを許して下さったのでしょうか。それはイエス様が十字架にかかることによって、すべての人の罪を代わりに背負い、ご自分を信じる者の罪を赦して下さったからです。イエス様のこの罪の贖いがあるから人は神の子となることが出来ます。だから父と呼ぶことが許されるのです。

 もっとも近年、世界には父なる神という言い方が正しいのかという人が出て来ました。神様は男だと決まっているのか、「母なる神」ではだめなのかということなんです。…たしかに神様を男性だと決めつけることはできません。イザヤ書4915節、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」。こういう言葉を見ると、神様が女性であっても良いのではと思えてくるかもしれません。…天の神様は男女という性別を超越したお方でありましょう。ただイエス様は「父よ」と呼ぶように教えておられます。また「母なる神」という言い方は、父なる神以外に母なる神がいるような誤解を招く危険があるので、急ぎすぎてはなりません。神様が男性か女性かまったく言及せずに使用できるのは「主なる神」という言い方です。

 

 今日は「父なる神」という言い方で通します。天の父なる神を誰も見ることが出来ませんが、私たちはイエス・キリストを通して、父なる神に出会うことが出来ます。「御名が崇められますように」という祈りは、父なる神に捧げられます。 

 名前というのはものごとの本質または存在そのものを意味するしるしです。日本でも、昔から「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」と言われてきたように、人の名前はその人の人格・名誉・品性を表わすものとして尊ばれてきました。「名をよごされる」ことは、その人の全体がはずかしめられるだけでなく、末代までの恥辱として死にまさる苦しみでもありました。名前が存在そのものを表わすからです。

 天と地のすべてを創造された神、私たちを滅びの淵から救い上げて天にまで導いて下さる神、このお方は名前を持っておられます。持っておられないはずはありません。では、その名前は誰がつけたのでしょうか。人間がつけたのでしょうか。そんなことはありません。…子供が親に名前をつけることは出来ません。神に創造された人間が神に名前をつけることは出来ません。子供は親が自己紹介してくれない限り親の名前を知ることはないでしょう。それと同じことで、神がご自分の名前を人間に示されない限り、人間の側から神に名前をつけることは出来ないのです。

 神の御名は神の本質を表わすものです。旧約聖書を見ると、創世記に神様の名前は全く出て来ません。それが初めて出て来るのが出エジプト記です。神はモーセを召し出して、イスラエルの民を奴隷の地から救い出すみこころを伝えた時に、ご自分の名前を示されました。

出エジプト記3章13節をご覧下さい。モーセが神に名前を尋ねています。

 

「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 

 「わたしはある」、これが父なる神様のお名前です。なんだか妙な名前で、狐につままれたような感じのお方がおいでかもしれません。「わたしはある」という言葉はへブル語の4文字で表わされます、それを何と読むか、昔の人たちは神聖な神の御名を口に出すことを恐れてはばかっているうちに何百年も経って、気がついて見ると、それを何と発音するのかわからなくなってしまったということです。この4文字をアルファベットに直すとYHWHとなります。YHWH。それにしてもこれを何と発音するのでしょう、以前、これはエホバと発音すると考えられていました。だから、今でも多くの人がキリスト教の神はエホバだと思っています。しかし、さらに研究が進んだ結果、これはヤーウェと呼んだのだと考えられるようになりました。だから神の名はヤーウェです。

 実はヤーウェを「わたしはある」と訳すのも現段階では最も穏当な訳と言うのに過ぎません。口語訳聖書では「わたしは、有って有る者」、4年前に出た聖書協会共同訳では「わたしはいる」となっています。…原文は難解で非常に翻訳しにくい言葉です。一説に、神の名の意味は「わたしはかく有ろうとする者になる」というのがあります。「わたしはかく有ろうとする者になる」とは、神はご自身が成ろうとする者に成りうる方であることを示しています。神は全宇宙を支配されているお方ですから、人間との関わりでその意味を探ると、神はその全能の力を人間の内に働かせ、歴史の中でみこころを実現させてゆく方であるということになるでしょう。神の御名の本当の意味を解き明かすことは、神の本質に迫ることになります。

 

 この永遠にしてきわめがたい神の御名は、地上でそれにふさわしく賛美されているでしょうか。主イエスが主の祈りで、「御名が崇められますように」と教えられたのは、現実には、神がすべてのものの上にいます神として崇められていないからです。

 「御名が崇められますように」は、聖書協会共同訳ではより原文に近く翻訳された結果、「御名が聖とされますように」となりました。聖とは、聖なるものの聖です。聖という言葉は、もともと「区別する」とか「神のものとして他のものから取り分ける」という意味があります。だから「御名が聖とされる」というのは、神が他のものと混同されず、他の一切のものから区別されることを言うのです。これは一見、当然のことのようでありながら、実はないがしろにされていることが多いのです。

しかしながら、神をそんな特別な存在とは考えない人がいます。日本には特にそんな人が多いようで、「もし、この世に本当に神様がいるのなら、一緒にお酒を飲んでみたい」と言った人がいましたが、この人は自分の言っていることがわかっていないのでしょう。神は、私たちが父と呼べるほど近くなって下さいましたが、

だからといって日本の八百万の神や中国などで伝えられている土地神などと一緒にされてはたまりません。

私たちはただ一つの神だけを崇めているでしょうか。神を信じ、神を尊んでいると言いながら、神よりおそれているものはないでしょうか。何かのときにちょいと神様のことが出てくるだけで、ふだんは神様のことをすっかり忘れているということはないでしょうか。

私たちの間ではもちろん、世界の人々の間でも神の御名が崇められなければなりません。この世界に生きる何十億という人々の不信仰と罪、そこから起こってくる悲惨な状態、それらが日々、神の御名を傷つけています。だから、世界中の人が神を崇めるようになるまで、キリスト教徒は「御名が崇められますように」という祈りを続けてゆかなければなりません。さらに、この祈りは、口先だけでは決して出来ないものです。そう祈るからには、そのように生きなければならないでしょう。神の御名のための祈りは、こうして深い意味で、人間が生きるための祈りとなるのです。

神は私たちが崇めると否とにかかわりなく聖であられます。神の御名はもともと聖なるものであって、私たちが聖なるものにするのではありません。ただ、神の御名が私たちにおいて、また世界において、まだまだ聖なるものとなっていないから、それが改められて、神が本当に神として受け入れられるようになることを祈り続けるのです。

神は「わたしはある」というお方、昔いまし、今いまし、やがて来たるべきお方です。神はイエス・キリストを地上に送りこみ、決定的な形で人間の救いの計画に着手されました。この神につながれている私たちに、神はキリストの使者としての役割をお与えになりました(Ⅱコリ5:20)。

私たちはみんなキリストの使者です。メッセンジャーです。もしも私たちが社会の中で、だめな人間だと言われてたとえ我慢出来たとしても、「だからキリストさんはだめなんだ」と言われて耐えることが出来るでしょうか。逆に、人からほめられるようなことがあっても自分の手柄とせず、キリストの名がほめたたえられるようにするのがキリスト者の道です。この私たちを通しても、神は聖なる御名を現わそうとしています。まさに神の御名にふさわしい、私たちの生きる道がありますように。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。あなたは昔モーセを通して、尊い御名を人間に告げ、さらに主イエス・キリストを通して御名の意味を決定的に明らかにして下さいました。それがどれほど素晴らしいことなのか、まだまだわかっていない私たちですが、どうかいまみ前に捧げる感謝の思いを受け取って下さい。私たちが毎日の生活の中で、御名を呼び、御名によりたのむとき、そこから目をそむけないで下さい。心の一番深いところで、どうか私たちと出会い、みことばを下さって支え、励まして下さいますようお願いいたします。

 

み名を崇めさせたまえ。父、子、聖霊なる神の御名を賛美しつつ、この祈りをみ前にお捧げします。アーメン。