主は墓の中にはおられない

主は墓の中にはおられない ヨブ記192526、ヨハネ201118 2022.4.24

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119164、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:28、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:286、説教、祈り、讃美歌:485、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:540、祝福と派遣、後奏

                              

 私たちは今、この礼拝を召天者記念礼拝として神様に捧げています。ここで記念されている人たちは、覚えている人も少なくなった昔の人から、比較的最近亡くなられた人まで、すべて広島長束教会に関係のある方々です。

召天者の方々は私たちにとって大切な家族であり、友人であり、信仰の友でありました。この方たちが私たちをこの世に残して、去ってゆかれた、これはまことに悲しいことです。死という出来事の前に、きのうまで元気に笑っていた人も呼吸を止め、冷たい死骸となって横たわっているのです。私たちはうろたえ、泣きながらこの方たちを葬ってきました。

いったい愛する人はどこに行ったのか、と残された者は思います。古来、そういう人たちの中には、死んだ人に会いたい一心で、霊媒や口寄せに頼んでその魂を呼びだそうとする人さえいました。それほどまでに思いつめてしまう人がいるのですが、そこで果たして死んだ人に会えるのでしょうか。

 いったい、死んだ人たちはどこに行ったのでしょう。どうしたら先に世を去った愛する人と再び会うことが出来るのでしょう。死んだ人と残された者たちの間には断絶があって遮断されているのですが、こうした問題について聖書は何を教えているのかということを、マグダラのマリアと復活したイエス・キリストを通して考えてみましょう。

 

 マグダラのマリアは謎の多い女性です。マグダラというのは地名で、ガリラヤ湖近辺の村のようです。彼女が主イエスに従うようになったきっかけが何だったかということが、ルカ福音書8章1節以降に書いてあります。

 「すぐそののち、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」

 マグダラのマリアについて、七つの悪霊を追い出していただいたと書いてあります、これは何のことでしょうか。…この話のすぐ前に、罪深い女が主イエスのもとに来て、泣きながら香油を塗った話があります。この罪深い女こそマグダラのマリアだと考えた人がいて、そこから彼女が娼婦だったという話が出て来ました。しかし、これには無理があります。主イエスが娼婦を救って弟子としたとしてもおかしくはないのですが、マグダラのマリアがそうだったという証拠はありません。

 そうしますと、マリアはたいへんに重い精神的な病気から解放されたということなのかもしれません。その前半生には私たちの想像もつかないようなことがあったのでしょう。マリアにとって、主イエスに出会う前の悲惨な状態と、救われたあとの恵まれた生活は、天と地ほど、いや天と地獄ほどに違っていたのです。

 マリアはイエス様によって与えられた新しい人生を、イエス様のために用いようという決意をもって、イエス様に従って行きました。主イエスの一行は、主イエスを先頭に男の弟子たちと婦人たちとで構成されており、婦人たちは自分の持ち物を出し合って一行に奉仕しました。その奉仕の中身については料理や洗濯をしていたと見なされることが多いのですが、それだけに限ってしまって良いのかどうか、実際には伝道の仕事をしていたかもしれません。いずれにしても婦人たちの先頭にマグダラのマリアの名前が載っているということは、彼女が婦人たちの間でリーダーだったからだと思われます。

 

 主イエスに従っていた婦人たちは、ゴルゴタの丘に引かれて行くイエス様のあとに泣きながらついてきて、十字架上のご最期を見届け、ご遺体が墓におさめられるところまで立ち会いました。

 主イエスが亡くなられたのが金曜日、土曜日は安息日で動くことが出来ないため、3日目の日曜日、マグダラのマリアなどの女性たちは夜明けを待ちかねたようにお墓に出かけて行きました。当時の墓は、竪穴に大きな石で封をしたようなものでしたが、驚いたことに墓石は取りのけられ、ご遺体がなくなっているのです。マリアは急いで弟子たちのところに戻ってそのことを告げると、ペトロとヨハネが走って行きましたが、やはりご遺体はありません。

ペトロたちは帰ってしまい、マリアは墓の外に立って泣いていました。白い衣を着た二人の天使がいてマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いかけた時、彼女は「わたしの主が取り去られました」と答えています。主イエスが死なれたという悲しみにさらに追い打ちをかけたのが、ご遺体が取り去られたということだったのです。

この時代のユダヤ教の慣習によれば、死刑を執行された人間が個人的な墓を持つことは許されません。しかしイエス様のご遺体は、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人によって新しい墓に納められました。このことはイエス様に反対する人たちにとっては許しがたいことだったでしょう。そのため、この人たちが夜の間にご遺体を盗んで、犯罪者にふさわしい墓に放り込もうとするのは十分にありうることで、マリアはそういう可能性を考えていたのではないかと思われます。

 マリアにとってみると、自分を闇の中から光の世界に連れ出して下さったイエス様がすべてであったのです。イエス様に仕えることこそ生きがいだったのです。それが十字架の死によって奪い取られてしまい、その衝撃ははかりしれません。しかし、こうなってしまった以上、マリアとしてはせめて、ご遺体に丁寧に油を塗って正式に墓に納め、イエス様に対する誠意を示したいと願っていたのです。マリアは思いました、イエス様が死なれたことで自分の一生は終わってしまった。この先、自分には何の喜びも希望もない。そこで、これからどうやって人生を過ごそうかということになるのですが、…マリアは、仏教用語にたとえるなら、イエス様の菩提を弔いたいと願ったのです。ところが、そのご遺体さえなくなってしまい、途方に暮れてしまったのです。

 マリアは身をかがめて墓の中をのぞきこみます。墓は死と滅びが支配している世界です。マリアはそこにご遺体があると思って、探し求めました。彼女自身、死の世界に魅入られているかのようです。しかし、そこに二人の天使がいて「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うのです。これは、泣くようなことではないですよということでしょう。天使はこう言いたいのだと思います。あなたはイエス様を見失っています。それも、ただ見失っただけではありません。あなたはイエス様がだれであるか、どういう方であるか、なんにも気づいていないではありませんか……

 その時、イエス様ご自身が彼女のうしろに立っていました。マリアは振り返ってみたのですが、それが誰だかわかりません。

 マリアは墓穴の中に死んだイエス様を探そうとしますが、そこにはおられません。そして、目の前の人を見ても、それがイエス様であるとは気がつかず、園丁だと思っていたのです。マリアはなぜ、目の前にいる人がイエス様だと気づかなかったのでしょう。…それは、彼女が死の世界ばかりのぞきこんで、いのちの領域を見ていなかったからなのです。

 主イエスは、先ほどの天使と同じ言葉をかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか」。この言葉によって、マリアが立っている位置、見ている方向が本当に正しいのかと問うておられます。そうして「マリア」と呼びかけられたことで、マリアははじめて目の前に立っているお方が誰なのかを悟りました。心の目が開かれたのです。

 聖書には、墓穴を見ていたマリアが後ろを振り向くとイエス様が見えたがイエス様とは気がつかなかった、「マリア」と呼びかけられると彼女は振り向いて「ラボニ」と言ったと、2度振り向いたと書いてあります。これでは180度と180度で360度、また元に戻ったようで変なのですが、これはもののたとえだと思います。すなわち、マリアが墓穴の奥にイエス様を探し求めてもイエス様は見つかりません。イエス様はこれとは正反対のいのちの領域におられたからです。従って、マリアが死の世界から振り向いて命の世界に目を向けた時、イエス様をイエス様として見ることが出来たということなのです。

 

 復活の出来事はまず主イエスご自身の中に起こりました。父なる神は人間の罪に対する怒りを御子イエス様に負わせられました。父なる神はイエス様の十字架の死をもって、神の愛と神の正義が成し遂げられたことに満足なさいました。従ってイエス様の死は、そのまま墓の中で朽ち果てる敗北の死ではなく、神はそのことを、イエス様を復活させることによって世界に示されたのです。

 イエス様がおいでになる前、死んでよみがえった人など誰ひとりいませんでした。生き残った人は死者がどこに行ったのか、そこから帰って来る人がいないので全くわかりませんから、何かおそろしいところに行ったのだと想像することが多かったのだと思います。

日本の神話でイザナギノミコトが訪ねて行った死者の世界は暗いどろどろしたところでした。死者の世界は忌み嫌われ、その世界に向かう入り口がお墓ですから、お墓は一般に死と滅びを現わしていると思われています。皆さんもお墓まいりをした時にむなしい気持ちにとらわれたことがきっとあっただろうと思います。

聖書の中でも、神から災いを受けたヨブは耐えがたい苦しみの中で、自分はどうして母親の胎内にいた時に死んでしまわなかったのかと嘆き、死者の世界に思いを寄せていますが、そこは決して明るいところではありません(ヨブ3:1619)。…死を願うばかりになっていたヨブの心に変化が見えるのが19章の言葉です。「わたしは知っている。わたしを贖う方が生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう」。

これは、ヨブが将来現れるイエス・キリストを仰ぎ見た言葉として有名なところです。この方が塵の上に立たれる、これは、その方がやがて地上に来られるということと、もう一つ、陰府の世界に来られるという二つの読み方がありますが、両方正しいのではないかと思います。イエス様は死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活なさいました。それはこの方が、生きている者と死んだ者すべての主になって下さったということにほかなりません。

本当の神を知らず、イエス様にまだ出会ってない人は、死んだ人はどこに行くと考えているのでしょう。死後の世界など全く存在しないと割り切って考える人もいますが、日本では少数派でしょう。大多数の人は、死後の世界はあると信じてはいても、そこから戻ってきた人がいたとは思っていないので、その世界を考える時、何かしら心に恐怖があるはずです。死者の行く世界といま自分がいる世界とは絶対的な断絶があります。

しかし、イエス・キリストを信じる人にとっては、イエス様が死んで、陰府にくだり、そしてよみがえったことほど心強いことはないのです。主イエスのご支配が及んでいない、いかなる領域もないということですから。

 

 イエス様が復活されたことの最初の証人となったのがマグダラのマリアです。マリアはこの空前絶後の出来事の目撃者として、喜びのしらせをたずさえて弟子たちのところに向かい、「わたしは主を見ました」と告げました。

キリスト教会は2000年の歴史を通し、イエス様が確かに復活されたということに、最後の敵である死を乗り越えるたしかな希望を見出してきました。

いま私たちが記念している召天者は、みなこの信仰に生きて人生を全うされた方々です。この人たちは、その生と死を通して、イエス様に導かれ、信仰の尊さをあとに残された者たちに伝えてくれたのですから、私たちは、この方々が暗い未知の領域に行ってしまったのではなく、いま神様のみもとで生きていることを喜びあおうではありませんか。私たちは滅びと死ではなく、いのちの世界の中でこの方々と生死を超えた絆を確認するのです。

 

(祈り)

 イエス・キリストを信じる者たちを心に留め、永遠の命に至る門を開いて下さった神様。今み言葉を受け取って、これまで、まるでイエス様の復活などなかったかのようにあきらめの内に過ごしていた心が私たちの中にあったことを思い、み前にざんげいたします。

私たちは、先に天に召された愛する人々のこと思う時、人は誰もが死という定めから逃れることの出来ないことで無力感にさいなまれることがあります。しかし、そんな時でも、私たちが召天者と同様、死と滅びに向かう道ではなく、命に通じる道を歩いていることを心に刻ませて下さい。

 

神様、私たちにもマグダラのマリアに与えられたものと同じ喜びを与えて下さい。イエス様の復活を心から信じる信仰を与えて下さい。神様、どうか私たちのひからびた信仰を命の水をもってうるおし、死を超える命への希望に生きる者として下さい。とうとき主イエスのみ名によって、この祈りをおささげします。アーメン。