あなたがたに平和があるように

あなたがたに平和があるように 詩編682022、ヨハネ201923 2022.4.17

 

(順序)

前奏、招詞:詩編181011a、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:7、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:151、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ—197、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式、讃美歌Ⅱ—179)(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 今日は復活節、イースター、教会にとって、一年のうちで最も喜ばしい日です。教会はクリスマスを盛大にお祝いしますが、実はイースターはもっと大切な日なのです。イエス様のご降誕のことで神様を賛美するのは当然ですが、死んで、そのままになっていたかもしれないイエス様が復活されたことが持つ意味ははかりしれません。…ただ今年、皆さんはイースターを心から喜び祝うことができるでしょうか。そういう気持ちになれない人も多いのではないかと思います。人間関係で悩んでいたり、病気で苦しんでいたりして、イースターだから何、という人がいるかもしれません。私の友人の中には、ロシアによるウクライナ侵攻が起きて以来、ショックで何をやろうとする気持ちも起きないという人がいます。最近は特に、目をおおうばかりのことばかり報道されているので、余計まいっているようです。そんな人もいます。…ただ、イースターはいつも明るい気持ちで迎えなければならないということでもないのです。

 コロナ禍が始まる前、広島長束教会ではイースター礼拝のあと、祝会をしていました。日曜学校の生徒だった人は卵隠しをしたことを覚えているでしょう。みんなあまり何も考えないで、喜び祝ったということがあったかもしれません。…しかし、聖書に書いてあるいちばん初めのイースターは喜びの内に訪れたということではありません。ふつうに暮らしていた人たちの間に突然、とびあがるほど嬉しい出来事が舞い降りてきたということではないのです。そこにいるのは、その日、すべての望みを失い、ぶるぶるふるえていた人たちでした。その人たちの上に起こったのです、あまりのことに誰も信じられない出来事が。そのことをみてゆきましょう。

 

 イエス・キリストが生前、おそばに置いていた男の弟子は元漁師だったペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、徴税人のマタイといった人たちで、誰もがそれまでの仕事を捨て、人生をかけてイエス様に従っていったのです。ふつう十二弟子と言いますが、もともとはもっと多く、このほか72人の弟子がいたことも聖書に書いてあります(ルカ10章)が、そのほとんどはイエス様を信じられなくなって脱落してしまいました。この他に女の弟子もいて、その筆頭がマグダラのマリアです。

 では十二弟子を中心とする人たちは最後までイエス様についていったでしょうか。女の人たちにはそれが言えるのですが、男の弟子たちはそうではありません。最後の晩餐の最中、イスカリオテのユダはその場を出て行きました。そのあとイエス様は11人の弟子と一緒にゲツセマネの園に行きますが、ユダが引き連れて来た人たちによって逮捕されてしまい、その時、11人の弟子たちは逃げてしまったのです。次の日、イエス様は十字架につけられてしまいました。マグダラのマリアを初めとする女の人たちはイエス様の死を見届けましたが、男の弟子たちはどこに行ったのでしょう。ただイエス様の死がたいへんな衝撃であったのは間違いありません。

 こうして3日目になりました。19節、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、これは日曜日の夕方です。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。自分たちもユダヤ人なのですが、ユダヤ人を恐れていたのです。自分たちもイエスの仲間だということでつかまるのではないか。もしかしたら殺されるかもしれない、と恐れていたのです。

 それにしても、その日は不思議な一日でした。変なことばかり起こるのです。朝早く、マグダラのマリアが息せき切ってかけこんできました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」

 皆さんは、いきなりこんなことを言われてわかると思いますか。イエス様は死んで、ご遺体はお墓に葬られたのです。しかし女の人たちが行ってみると、お墓はもぬけの空になっている…。そんなばかなことがと思って、ペトロとヨハネが走って行ってみると、やはりお墓は空でご遺体を覆っていたものだけが残っていました。二人はキツネにつままれたような思いで帰ってきたのです。

 そして、それから何時間あとのことかわかりませんが、マグダラのマリアがもう一度来て、弟子たちに告げたことは「わたしは主を見ました」。いったい何が起こったのでしょう。この時、男の弟子たちは、誰もイエス様が復活されて、生きていることを信じていなかったのです。

 夕方、男の弟子たちは、家の戸に鍵をかけ、誰も入って来れないようにして閉じこもっていました。その心にあったものは何だったのか、それを聖書では恐れと言います。みんなユダヤ人を恐れていました。イエス様がユダヤ人によって捕えられ、ついに十字架につけられてしまった、自分たちにもひどいことが起るのではないかと恐れていたのです。黙示録(218)に臆病な者に対する裁きが予告されています。恐れというのは本当に厄介な感情で、恐れのためにすべてが台無しになってしまうことがあるのです。イエス様が逮捕された時に恐怖のあまり逃げ出し、イエス様を守ろうともしなかった弟子たちは、その思いをこの時も引きずっていたのです。

 なおこの時の弟子たちに、ユダヤ人への恐れとは違った思いも、聖書に書いてありませんが、あったことは確実です。弟子たちはイエス様を救い主と信じ、この方こそはと信じ、他のすべてを投げうってついてきました。しかし、そのイエス様が十字架というむごい刑罰を受けて死んでしまわれた。だとするとイエス様は救い主ではなかったのか、という思いがあったとしても不思議ではありません。

さらに、自分たち自身に腹を立てたということがあったのです。弟子のひとりで、志を同じくする者であったイスカリオテのユダはイエス様を裏切って、敵に売り渡し、あげくの果ては自分のしたことに後悔して、首をくくってしまいました。しかしユダだけが悪いのではありません。「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われたペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と答えたのですが、イエス様のお言葉通り、イエス様を三度も知らないと言って、裏切ってしまいました。他の弟子たちも五十歩百歩です。つまり、男の弟子たちはみんな裏切り者になってしまったのです。…もしもそんな自分を何とも思わなかったとしたら、恥しらずとしか言いようがありません。誰もが自分が情けない、穴があったら入りたい、もう消えてしまいたいと思っていたのです。

 

 その時です。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。続けて読んでいくと20節に「弟子たちは、主を見て喜んだ」と書いてありますが、一足飛びにそうなったのではありません。この時のことをルカ福音書2437節に「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と書いてあるからです。…そりゃ恐れおののくのも当然だと思いませんか。鍵をかけ誰も入って来れないようにした家の中で、死んだ人が出現したのですから。しかも、弟子たちはみんなイエス様を裏切っているのです。弟子の裏切りのために無惨な死に方をしたイエス様が化けて出て来た、恨みをはらすためだ、としか思えないでしょう。しかしイエス様は何と言われたか、「恨めしや」ではないのです。「あなたがたに平和があるように」。怖い話はたくさんありますが、亡霊がこのような、人の心を慰める言葉をかけるなんて話は、私は聞いたことがありません。

 イエス様はこの時、手とわき腹をお見せになりました。亡霊には肉も骨もありませんが、イエス様にはそれがついています。イエス様が死なれたことは確かですから、復活なさったと考えるしかありません。

 イエス様の復活はまことに不思議な出来事です。しかし私たちはそれだけに気を取られてはなりません。それよりもっと不思議な、驚くべきことがあるのです。それは、イエス様が恐れと絶望のために固く心を閉ざしてしまった弟子たちのただ中に来て下さって、平和を告げて下さったということなのです。

 「あなたがたに平和があるように」。へブル語に直すとシャロームという言葉です。平和というのは単に戦争がないということではありません。人と人の間で争いがなくても、誰も自分のことばかり考えて隣りの人が苦しんでいても死んでも関係ない、ということであるなら、そこに平和はありません。何より神様と敵対関係にある時、人の心に平和はありません。弟子たちはイエス様を裏切り、神様との間に負い目を負っていたため、平和はなかったのです。しかし、そのイエス様が「あなたがたに平和があるように」と言って下さいました。

イエス様はこの時、ふがいない弟子たちに「お前たちには本当に愛想が尽きた。もう私の弟子と名乗る資格はない。とっとと出て行け」と言っても良かったのです。けれども、そうはなさらなかった。それはイエス様が淡泊なお方で、弟子たちのすべての罪を水に流し、さあこれで終わりと言われているということではないのです。…イエス様は「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹をお見せになりました。その手には十字架で釘打たれた跡があり、わき腹には槍で突かれた傷がありました。それをお見せになったのには、ご自分が確かに十字架につけられたイエス様であり、本当に復活されたことを証明するという意味もありますが、もっと別の、大切な意味があり、それを弟子たちに悟らせるためでした。

 弟子たちはイエス様のお体に刻まれた傷を見て、自分たちの裏切りの罪の結果をイエス様が引き受けられたことを改めて知ります。イエス様はご自分が受けた想像を絶する苦しみを隠そうとはなさいません。だから弟子たちは改めて、自分たちはイエス様に何ということをしてしまったのかと思ったはずです。しかし、それにもかかわらず与えられた「あなたがたに平和があるように」という言葉は、罪を悔いる者に神様からの赦しと祝福、そして新しい命が与えられることを告げているのです。

 イエス様を復活させて下さった父なる神様は、弟子たちの罪、弱さと不信仰をすべて赦し、それを乗り越えて、彼らを祝福し、新しく生かして下さいました。そのことを伝えるために、イエス様はいま弟子たちの真ん中に立って下さっているのです。この時、弟子たちは喜んだと書いてあるのは、イエス様が生き返られたということだけではないのです。復活したイエス様によって自分たちの罪が赦され、祝福と新しい命を与えられた、その喜びで満たされたからなのです。

 イエス様は重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。こうして弟子たちは、固く閉ざされた家を飛び出し、それこそ世界の果てにまで出向いて言ってまわったのです。「十字架につけられたイエスが復活されたことを信じて下さい、イエス様は私たちを罪から救い、新しい命を与えて下さいます。本当の平和を与えて下さるのです」と。

 世界で一番最初のイースターは、このように、すべての望みを失い、絶望している人に与えられた信じられないような喜びの出来事でありました。

 いま世界中の教会が、平和がありますようにと祈っていることでしょう。戦争の終結からひとりひとりの心の平安まで。お祈りしても無駄だ、現実は何一つ動いていないという人がいるかもしれません。しかし、お祈りすることさえしなければ、全く何も進みません。争い悩む世界のいちばん底の底に立って、世界の苦しみと悲惨を一身に担って下さったたイエス様が語って下さった「あなたがたに平和があるように」の声に従って行きたいと思います。

 

(祈り)

憐れみ深い天の父なる神様。きょう全世界の教会と共に、主イエスの復活を祝う礼拝に出席出来ました恵みを、心から感謝申し上げます。

苦しみと死と滅びが世界と私たちを圧倒しているかのように見えようとも、ただ神様のみこころのみが世界の歴史を貫いています。このことを復活の出来事が教えてくれました。もしもイエス様の復活がなかったとしたら、私たちは人生に何の望みも持たない人たちになってしまいます。私たちのすべての労苦も、喜びも悲しみもすべて徒労になってしまうのではないでしょうか。しかしみ名を賛美いたします。

神様、最後の敵である死を打ち破り、新しい命への道を開いて下さった神様がイエス様を通して「あなたがたに平和があるように」と言って下さいました。

 

ここで語って下さった平和を、今こそ無益な戦争のために引き裂かれていく世界に打ち立てて下さい。そして、たとえ戦争が起きていなくても、人と人との関係がひからびてしまい、まるで砂漠のような場所に生きている人々を主にある喜びをもって力づけて下さい。そのために広島長束教会の働きもお役立て下さい。主のみ名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。