わが神、わが神

わが神、わが神  詩編22222、マルコ153341   2022.4.10

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119163、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:142、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 今週は、私たちの主イエス・キリストが十字架にかけられたことを記念する受難週で、今日がその一日目の棕櫚の主日です。紀元30年頃のこの日、主イエスは群衆の歓呼の声のなか、ろばの背にまたがってエルサレムに入城なさいました。そして数日間神殿の境内で教えを述べられたあと、木曜日の夜、最後の晩餐のあとに逮捕され、形ばかりの裁判を受けたあと、金曜日に十字架につけられて殺されたのです。

 教会がいつの世にも語り伝えてきた十字架の出来事には、私たちを救いと永遠の命に導く尽きることのない材料がつまっていますが、今日はその中からイエス様の十字架上でのお言葉についてお話しします。

 

イエス・キリストが十字架にかけられて死なれたことを、歴史的事実としては知っていても、そこから目をそむけている人はたいへん多いです。教会の外にいる人たちはもちろんのこと、信者にとってもそうなのです。

十字架刑とは、聖書の舞台となった古代世界において、もっとも恐ろしい、呪われた刑罰でした。イエス様は何を体験されたのでしょう。鞭で打たれてから、茨の冠をかぶらされ、70キロから90キロあるとされる十字架をかつがされました。そしてゴルゴタに着くと、手足を釘で打たれて十字架につけられたのです。

昔、キリスト者の画家の展覧会に行ったことがありますが、そこで見た十字架のイエス様は身に何もつけていませんでした。聖書にローマの兵士たちが下着まで取ったと書いてあることから(ヨハネ1923)、全裸にされたと考えられます。

十字架につけられた人間は両腕に体重がかかって肩が脱臼し、呼吸困難になります。血中酸素濃度が低下し、心拍数が高まることでますます血中酸素濃度が低下、全身の筋肉が疲れはて、痛みとのどの渇きと呼吸困難などによって死亡したということです。

極悪の罪を犯した犯罪者が十字架につけられるのならともかく、イエス様がこの刑を受けて、死なれるというのは誰にとっても理解しがたいことです。この日、イエス様に対し、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」といった声が浴びせられました。ほとんどの人が、救い主や王であるならばこんな死に方はしないし、こんな死に方をするのは救い主でも王でもない、と受けとめていたのです。そもそも申命記2123節に「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」と書いています。イエス様はまさに「神に呪われたもの」になられたのです。

 

主イエスはこの十字架上で7つの言葉を発せられましたが、その中でも「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を皆さんは不思議に思いませんか。イエス様はこれを口にされた時、どういう心境だったのでしょうか。

イエス様は十字架の苦しみから逃げようとはなさりません。これを敢然と引き受けられたのです。もちろん十字架は、私たちの想像を超える痛みと苦しみに満ちた刑罰です。しかし、イエス様ともあろう方が死のまぎわになってなぜ弱音にも聞こえる言葉を吐かれたのでしょうか。このことはキリスト教に反対する人からは、それみたことか、イエスは結局そんな男だったのだと見なされる可能性がありますし、信者にとってもつまずきになりうる言葉です。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。十字架につけられたのが午前9時、昼の12時になると全地は暗くなり、それが3時まで続きましたがこの時、イエス様この言葉を叫ばれました。ということは、十字架につけられてすぐにということではなく、6時間もたっています。…では、それまで何をしておられたのか、たたかっておられたのです。イエス様のたたかいとは、ここに語られた言葉が祈りであることからも明らかなように、祈りのたたかいでありました。イエス様は6時間、祈り続けておられ、最後に、ほとばしるような思いが声になって出たのでしょう。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、これはもとの言葉では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、ただしマタイ福音書には「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と書いてあります。エロイというのは当時の日常語であるアラム語、エリはヘブル語です。おそらくヘブル語読みの方が正しいのでしょう。というのは、「エリ、エリ」と言われたために「エリヤ、エリヤ」と聞き間違えた人がいて、「そら、エリヤを呼んでいる」という反応が出たのです。エリヤは紀元前9世紀に活躍した偉大な預言者ですが、もちろんエリヤに助けて下さいと叫んだのではありません。

昔から、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」はイエス様に似つかわしくない言葉だと考えた人がいて、何とかして問題を解決しようとしてきました。そこで、こういう解決法が提唱されました。

先ほど詩編22編の初めの部分を読みました。ダビデ王の詩ですが、その1節が「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」となっていて、イエス様の言葉と同じなのです。ここから、「イエス様は詩編22編をそらんじておられ、これを全部唱えるつもりだったのだが、途中で力尽きてしまわれたのだ」という説が出ました。詩編22編は出だしこそ深刻ですが、読んでいくうちにだんだん明るくなってゆき、最後は父なる神への賛美をもって終わっています。このようになっています、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来たるべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」。わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」。…だから、イエス様が本当におっしゃりたかったのはこの最後の部分であって、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」には大きな意味はないというのです。

しかし、十字架上の最後の言葉が、舌足らずで、言うべきことを言いつくさないうちに終わってしまうものでしょうか。ここでは、詩編22編の冒頭の言葉は主イエスの真実の思いであり、事実、イエス様は父なる神から見捨てられたのだと考えて話を進めます。

 

イエス様は神の子であり、救い主とされていますが、その方が父なる神から見捨てられたのだとしますと、イエス様は神の子でも救い主でもなかったのでしょうか。十字架の現場に立ち会った人のほとんどがそう考えたでしょうし、私たちにもそういう思いがないとは言い切れません。もしも、神に見捨てられた人がそれでも神の子であり救い主であるとしたら、それは歴史上あとにも先にもない、まさに空前絶後のことなのです。

主イエスの十字架の奥義は、短い時間ではとても説き明かすことが出来ませんので、大事なことをいくつか考えてゆきましょう。

その一つが、主イエスの祈りのたたかいです。いったい6時間にわたって、何を祈られたのでしょうか。……主イエスはそれまで人々に神の国の始まりを告げ、悔い改めを勧め、心身の病気に苦しむ人をいやされました。すべて人々の救いのためでした。主イエスのご生涯の集大成が十字架です。それなら、イエス様が父なる神に対し、人々の救いのために祈らなかったとは考えられないのです。

イエス様はご自分が逮捕された時に逃げ出してしまった弟子たちのために祈られたことでしょう。ご自分をののしり、侮辱する人々のためにも祈られました。ルカ福音書には、十字架につけられた直後、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたことが記録されています。主がご自分を苦しめている人たちのために祈られたのは、人々をそれでも愛しぬいておられたからです。その愛の対象の中に、私たちも入っています。…そういう意味で、私たちが主イエスを信じることは、私たちが主の十字架によって、すなわち主の十字架上の祈りによって守られていることでもあるのです。主が十字架上で繰り返し、繰り返し続けられたその祈りが、私たちの救いの力になっているのです。

 

主イエスの言葉の意味を解く鍵となるのが、「わが神、わが神」という言い方です。イエス様はこれまで、お祈りされる時に「父よ」と呼びかけておられました。「わが神、わが神」と言うのはここだけなのです。そこには、詩編22編を踏襲したこと以上の深い意味があるように思われます。すなわち、イエス様はそれまで神の子としての立場から神を「父よ」と呼んでおられたのですが、十字架上ではそこから降りて、すべての人間と同じ低い位置に身を置いて「わが神、わが神」と呼ばれたのです。

 人間は誰もが罪にからめとられて生きています。私たちにしても、たとえ重大な罪を犯していないとしても、それはたまたま運が良かったからにすぎないのかもしれません。自分は善人で何も悪いことはしていないと思っている人ほど、神の光に照らされた時、身の置き所がないものです。神様に滅ぼされても何も言うことが出来ない人間一人ひとりの立場にイエス様が立って下さったのが「わが神、わが神」と言う言い方なのです。

 

主イエスは人間の罪に対する神の激しい怒りを一身に引き受けられました。神の罰を受けて死ぬことほどの苦しみはありません。罪の支払う報酬は死だからです。誰もがいつか必ず経験しなければならない死は、ひとしく神の罰であるという性格を持っています。しかし、罪を犯したことがなかったイエス様がこれを引き受けられたのです。このことは、どれだけ言葉をつくしても説明できるものではありません。

私たちはニュースで、町を歩いている人がいきなり通り魔に襲われて殺されたとか、普通の市民が突然、空から爆撃を受けて死んでしまったというようなことを耳にします。犠牲になった人たちは、どうして自分がこんな目にあわなければならないのかと思いながら死んでいったに違いありません。この世界のいたるところを罪が覆っているために、このような不条理なことが起こるのです。

しかし、不条理なことを考えてゆくと、その一番の中心に主イエスの十字架があることに気がつきます。…神の道を説き、虐げられた人の友となり、病める人を救った結果が十字架だとは。イエス様がすべての人のための罪の身代わりとなって死なれたことは、父なる神のみこころによってなされたことであり、イエス様はそれに従われたのですが、これは頭でいくらわかったとしても、それだけで納得出来るものではありません。イエス様ご自身、想像も出来ない苦しみの中、自分がなぜこんな目にあわなければならないのか、わからないほどだったでしょう。その段階にまで達していたのです。だから、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉が出た!事実、イエス様は父なる神に見捨てられたのです。そのことを見ずに、イエス様が弱音を吐いているなどと言うことは出来ないのです。

 

主イエスの十字架について、これだけでまとめることは出来ません。…「それでも、これは敗北の死ではないのか」と言う人がおられたら、37節の「イエスは大声を出して息を引き取られた」を見て下さい。…これは、人間の罪と死に対する格闘の叫びです。さらに言うならば、人間にとっての最後の敵に対する、とどめの声です。…それは簡単に勝ち取られたものではなく、私たちが想像も出来ないギリギリの苦闘を経て与えられた勝利の声でありました。

 

私たちは主イエスと同じ苦しみを味わう必要はありません。けれどもその場所に心を寄せ、祈る者でありたいのです。イエス様は父なる神に見捨てられたことで、罪のために滅びゆく人間たちと同じところに立って下さった、だからこそ私たちの救い主であられるのです。

私たちもかつては十字架上のイエス様をあざ笑う人の一人でした。しかし、これからは、十字架をあおぎつつ、イエス様の足もとにひざまずいて、自分のまごころを注ぐ者となるべきです。繰り返し十字架に立ち返ることが、私たちの人生のたたかいを支えてくれるのです。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる御神様。主のご受難を記念するこの日の礼拝に、私たちを集め、みこころを聞かせて下さったことを感謝申し上げます。

今日改めて、主イエスのお苦しみを深い悲しみをもって聞くことが出来ました。ひざまずいて、ただ罪を悔い、主の恵みにすがります。主がすべての人のために、とうとい命をささげられ、神に見捨てられるという究極の苦しみを受けて下さった、その恵みを私たちは決して投げ捨てようとは思いません、神様、どうか、繰り返し繰り返し十字架の主に立ち返ることによって、私たちの衰えた信仰をよみがえらせて下さるようにとお願いいたします。

神様、広島長束教会には、この日を覚えつつも、健康上の理由などで教会に来ることが出来ない人がおります。また教会の外には、みことばを渇くように求めているのに、どこに行けばそれに出会うことが出来るのかわからない人がたくさんいることでしょう。どうかこの広島長束教会を強めて下さい。

神様、ウクライナでの戦争で、多数の犠牲者が見つかったことがいま世界を震撼させています。しかも、この重大な事態の中、プーチン大統領は演説で聖書の言葉を引用し、ロシア正教会の総司教はロシア軍兵士を激励したと聞いています。この戦争が決して宗教戦争とならないように、ロシアの教会を含むすべての教会が戦争をストップさせる務めを果たすことが出来るよう、平和の君イエス様の力を今こそ発揮して下さいますようにと衷心から願います。

 

主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。