イエス・キリストは主である

イエス・キリストは主である イザヤ452225、フィリピ2611  2022.4.3

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119162、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:55、説教、祈り、讃美歌:270、日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式、讃美歌204)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 すべて宗教と呼ばれているものには中心的な教えがあるものですが、キリスト教にも当然、その根幹をなす教えがあります。それは神の子であるイエス・キリストが人となってこの世に降って来られ、私たち罪人に代わって十字架の死を引き受け、三日後に甦られたということです。私たちはこのことを、使徒信条の中でいつも告白しています。「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は、聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」というのがそれですね。今日の箇所は、こことたいへん密接な関係にあるところです。

フィリピの信徒への手紙2章6節から11節まで、これは私たちが持っている聖書では一続きの文章になっていますが、原文や英語の聖書を見ると違っているのです。例えばイエス様のあの山上の説教が、「心の貧しい人々は、幸いである」、「天の国はその人たちのものである」、…一つの文章が終わるごとに改行されていますが、フィリピ書でも同じような書き方になっているのです。日本語訳でなぜ一続きにまとめてしまったのかわかりません。もともとこの部分は詩の形になっており、パウロが当時の讃美歌を持って来たようです。6節から11節まで、これ全体が詩なのです。これは後世になって「キリスト讃歌」と名づけられました。

 パウロはなぜ、フィリピの人々への手紙の中にこの「キリスト讃歌」を持ってきたのでしょう。私たちがこのところに入る前、すなわち2章1節から5節までの部分をみると、フィリピの教会の中に何かうまくいっていないことがあったことがわかります。「同じ思いとなりなさい」、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」、「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」、このように言われなければならないことがあったのですが、そのあとにこの「キリスト讃歌」が入っています。

ここで疑問を持つ人がいました。1節から5節まで教会に対する注意事項が書いてあって、そこからいきなり「キリストは神の身分でありながら…」とつなげるのはちょっと大げさすぎるのではないか、というのです。まるで、牛刀をもって鶏を裂くとか、ウサギ一匹射止めるのに大砲を持ちだすかのように見えたようですが、パウロにとってそれだけ教会の存在が大きなものだったのです。

 

 6節を見ましょう。「キリストは、神の身分でありながら」。神の身分という言葉を使っています。それは、この方が神と等しい者であったということ、神の子でありすなわち神であるということに他なりません。

 今も教会の外にいる多くの人たちは、イエス様を歴史上の偉人とか人類の教師と認めてはいても、神であるとは思ってもみません。いったい悲惨な十字架の死をとげた人が本当に神様なのか、これは熱心な信者でもとまどうところかもしれません。

 孔子も、釈迦も、ムハンマドも自分を神だと言ったことはありません。その点は賢明だったと思います。しかしイエス様はご自分を神であると言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」、これはヨハネ福音書14章9節の言葉で、イエス様はご自分を父なる神と同一視されているのです。こんなことを言う人にはただ三つの可能性しかありません。気がふれているのか、詐欺師なのか、そのどちらでもないなら本当に神なのです。神であるキリスト・イエスは、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました」。これは神の身分であられた方が人になられたということです。日本キリスト教会信仰の告白で、「神のひとり子イエス・キリストは、まことの神にしてまことの人」と言われているように、神であるお方が完全な意味で人間となって、この世に降りてきて下さいました。…イエス様は人間の母親から生まれました。お腹が空く時もあれば、眠ることもある、トイレにも行く、そのように私たちと同じ肉体をもって生きてゆかれたのです。

この方が神であるにも関わらず、十字架というもっとも呪われた刑罰を受けて死んだことについて、かつて、イエス様は神様なのだから釘を打たれてもなんら痛みを感じなかったと言う人がいたのですが、これは明らかに間違っています。

 神が人間になられたことは、いくら言葉を尽くしても言い尽くすことが出来ません。仮にです、アリに向かって福音を宣べ伝えるため、あなたもアリになりなさいと言われたら、それを志願する人がいるでしょうか。とても考えられません。しかし神と人間との違いは、人間とアリの違いよりも大きいのです。神はご自分から見た時、まるで虫以下の存在でしかない人間のために、同じ人間になって下さった、しかも十字架の死まで引き受けて下さった、このことは人間の誰も考えつかなかったことでありました。第二コリント書8章9節に次の言葉があります。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。…それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。

 

 天において神の身分であった方が、最も低い、底の底にまで降りて行かれた、それが十字架にほかなりません。古今東西にわたる人間の、想像も出来ないほどの罪の現実、その真ん中に十字架が立っています。イエス・キリストは人間の罪に対する神の怒りを一身に引き受けられたのですが、さてキリストの物語がそこで終わらなかったのはどうしてでしょうか。

 十字架上で亡くなられたキリストはそのまま陰府にくだり、次に父なる神によって復活させられ、その後、天に昇られました。復活から昇天までを高く挙げられると書いて高挙と言います。どうして、このことが起こらなければならなかったのでしょう。私たちは、十字架ですべての人の罪を背負って死なれたキリストを信じることによって救われる、と教えられてきました。だとすると、救われるためにはキリストの十字架だけで十分で、そのあとのことはいらないという人が出て来るかもしれません。

では、復活からあとのことは、神様がキリストにごほうびを与えたということなのでしょうか。よくやった、あれほどの苦しみによくぞ耐えぬいた、屈辱を取り除いてやろうということで父なる神が最高のプレゼントによって報いて下さったということでしょうか。そうではありません。

私たちはキリストの十字架が人間を救うことをどのようにして知ることが出来るのでしょう。キリストの流された血と裂かれた体によって、神の怒りが静まったことはどこでわかるでしょう。仮に、神が、キリストが死ぬだけでは不十分で、もっと多くの犠牲が必要だと言われたとしたら、どうしたら良いでしょうか。…しかし、父なる神様にとっては、キリストの一回限りの犠牲の死でもう十分なのです。神が死んだキリストを復活させられたことから、神の全世界に示されたみこころを読み取って下さい。神様はこのことによって、キリストの十字架が神の愛を現すもの、完全に正しいことであって、ご自分が満足されたことを示しておられるのです。…もしも人がキリストの死を信じるだけであれば、心に平安が与えられることはないでしょう。いったい本当に自分の罪が赦されたのかという確信が持てないからです。けれども、キリストが復活なさったことで、私たちは自分たちの罪の問題が解決したことを確信出来るのです。

イエス・キリストはその告別説教の中で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ1513)と教えられました。この言葉通り、キリストはフィリピの教会のために、すべての信徒のために、そして私たちのために、全世界のために命を捨てて下さいました。父なる神はこのことを良しとされ、この方を復活させることによって証しして下さったのです。神はさらにキリストを天にあげられ、この方を主と定めて、礼拝の対象にして下さったのです。

 

このキリスト讃歌は、死の世界から引き上げられたキリストが神によって主という名を与えられ、すべてのものが礼拝を捧げるべきお方とされたということで結ばれています。このことを示すのが「イエス・キリストは主である」という告白の言葉です。

主という言葉は旧約聖書にも使われています。旧約聖書で「主は言われた」という言い方が何度も出てきますね。原文で主はヤーウェなど、わが主というのはアドナイとなっています。旧約聖書はご存じのようにヘブル語で書いてありますが、これがギリシア語に翻訳された時、主は「キュリオス」という言葉になりました。ですから、その後に出来あがった新約聖書でもキュリオスという言葉が使われており、「イエス・キリストは主である」は「イエス・キリストはキュリオスである」となります。同じ言葉が使われているのです。

父なる神は、イエス・キリストを天のもっとも高いところに引き上げ、主という名前を与えられました。ここにおいて、旧約聖書における主と、イエス様に与えられた主が同じ言葉になったのです。ここからイエス様のことを主イエスと呼ぶようになりました。

主というのは、そこにいるすべてのものが服従すべき最高のお方です。自分たちの生と死が決定されてしまうほどの最高の権威を持ったお方です。主の名が、よみがえられたイエス・キリストに与えられたということは、父なる神が、この方をすべてのものの主として任命し、すべてのものがこの方の前にひれ伏し、拝むという、新しい世界をお造りになったということにほかなりません。

一方、このことは、別の方向から考えてみると、この世界に主と呼ばれるものがどれほど多く存在しようとも、それはまことの主ではなく、それらすべてのものも共に礼拝すべき唯一の主がおられる、それはイエス・キリスト以外にないということなのです。

初代教会の時代、ローマ皇帝は神格化され、主、キュリオスと呼ばれていました。しかし、この時代のキリスト教徒はローマ皇帝を礼拝することを拒否しました。その結果、彼らは無神論者と見なされ、私たちが想像も出来ないような厳しい迫害を受けたのですが、これとたたかい、ついに勝利して、信仰の自由を獲得しました。

現代では、ヒトラーの独裁下にあったドイツの教会の抵抗運動が知られています。1933年から1945年の敗戦まで、ヒトラーが政権を掌握していた時代、誰もがヒトラー万歳を叫ぶ中で、ただ「イエスは主である」と言うだけでは問題になりませんでした。でも「イエスは主であり、ヒトラーはそうではない」と言った時、ヒトラーは激怒し、罰を受けるという状況だったということです。当時、キリスト教会の抵抗運動の中で生まれたバルメン宣言という文書の中に次の言葉が入っています。

「われわれがイエス・キリストのものではなくて他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストを必要としないような領域があるという誤った教えを、われわれは退ける」。

ヒトラーに抵抗したのは、なにも特別に勇気のある人たちではありませんでした。弱い、普通の人たちだったのですが、何よりもイエス・キリストは主であるという信仰によって、悪魔的な力に対してたたかうことが出来たのです。

この時代、日本のほとんどの教会は戦争へ戦争へと向かう流れの中で抵抗することが出来ませんでした。それはイエス・キリストは主であるという信仰が欠けていたからだと考えざるをえません。イエス様ならぬほかの存在を主としてしまったのです。ただ、このことを過ぎ去った過去の出来事にすぎないと見なすことは出来ません。私たちは信仰のために迫害されるような時代に生きているわけではありませんが、もしも、この部分ではイエス様を主として従うけれども、この部分についてはイエス様には引っ込んでもらい、別の存在を主とみなして従おうということがあれば、たちまち悪魔の罠にからめとられてしまうでしょう。そのことへの恐れを持っていたいと思うのです。

私たちの教会が、みこころにかなう教会であり続けるため、またそのことによって私たちの人生が祝福されるものとなるために、キリスト讃歌から教えられることは大です。この教会で起こっている問題も、日々私たちにふりかかってくる悩みや苦しみも、その解決の鍵はイエス・キリストを主であるととするかどうかにかかっていると言って過言はないのです。

どうか私たち皆が上辺や惰性ではなく、心の底から「イエス・キリストは主である」と唱え続けていくことが出来ますように。

 

(祈り)

主なる神様。私たちが日々出会うあらゆる領域において、イエス・キリストが主であることを心に刻む者として下さい。この部分においてイエス様は主であるけど、こちらの部分はイエス様とは関係ないということが決してありませんように、ひとたびそんなことを許せば、私たちの中で罪の力が増殖し、やがて神様から離れてしまうことになりかねないからです。

イエス・キリストは主であるということを力強く告白し、その言葉に生き、信仰の生涯をまっとうする者とさせて下さい。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。