神の御子のへりくだり

神の御子のへりくだり  ミカ68、フィリピ235  2022.3.27

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119161、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:4、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:121、説教、祈り、讃美歌:391、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 教会の中で、交わりという言葉が口に出されることがよくあります。私たちがいつも唱えている使徒信条に「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます」がありますが、ここに「聖徒の交わり」が入っています。交わりというのはつきあいとか交際という意味があります。新約聖書の原語であるギリシア語ではコイノニア、ここには、お互いが信じているものや持っているものを互いに分かち合うという意味があり、そのことが現れるのが教会なのです。

 ヨハネの手紙一の1章3節に、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と記されています。ここにはっきり書いてあるように、私たちの交わりの根本は父なる神、そしてみ子イエス・キリストとの交わりなのです。ふだん私たちはいろいろな人と出会っていますが、根本は父なる神様、そしてイエス様との交わりなのです。主イエスは「わたしを見たのは父を見たのである」(ヨハネ14:9)とおっしゃいました。父なる神様は目に見えませんが、イエス様は目に見える姿で世に現れました。2000年も昔のことですが、私たちはそのお姿を想像することができます。私たちは、信仰の対象であるイエス様を共に仰ぐことによって、聖徒の交わりに生きることが出来るのです。

 教会に集まる人の中にはいろいろな人がいますから、生まれも育ちも考え方も違い、肌の色や言葉が違う人が一緒にいるということもあり、感情的な対立が起きてしまうことがしばしば起こります。こんな時、対立する双方が話し合ってお互い理解しようと努めるだけでは、根本的な解決にはなりません。互いの違いを認めあいながら、共にイエス様を仰ぐのです。あなた方にとってイエス様はいったいどんなお方なのか、この方にどのように従おうとしているのかというところに立ち帰ることが大切です。それをやらずに小手先の工夫だけで終始していては、対症療法にしかならないのです。

 

 今日のフィリピ書2章3節以下のところを読んで、人生訓として受け取られた方がおられるかもしれません。人生訓としてもとても役に立つ言葉ですが、私たちはそれ以上のことを求めてゆきましょう。

 パウロはここで、まず3つの否定的な行いに注意を喚起します。それは、何事も利己心からするな、虚栄心からするな、そして自分のことだけ注意を払うな、ということで、これがなければ聖徒の交わりは成り立ちません。

 ここで利己心というのは、教会の中で他の人たちより高い地位を求め、キリストではなく自分の意のままに教会を動かそうとすることです。教会の外で利己心を発揮する人はたくさんいますが、教会の中にも起こってくることがあるのです。

 次の虚栄心というのは、内容がないのに見かけだけは立派にしようとする心です。原文には空しい栄誉という意味があります。主イエスから心が離れているのが実態なのに、人から賞賛されたいと願う気持ちです。

 そして三番目が「自分のことだけ注意を払うな」です。これはもちろん、自分のことなどどうでも良いということではありません。自分自身の救いのために熱心に祈り、み言葉を求めるのは当然です。しかし、それが間違った方向にそれてしまい、それこそ利己心と虚栄心にしばられて、他の人たちの悩みや苦しみに思いが届かなくなったり、神様が他の人に与えてくれた良いものに目が向かなくなるということが起こるので、戒められているのです。

 何事も利己心からするな、虚栄心からするな、自分のことだけ注意を払うな、この三つは、ただ人間関係に波風を立てないようにしましょうとか、互いに譲り合って仲良くして行きましょうというだけの意味で言われているのではありません。もしもそれだけでしたら、わざわざこの礼拝説教の場で取り上げる必要はないのです。ここでは主イエスを中心とする信仰者の生き方が問題とされています。イエス様が見ておられる所で、自分だけ偉くなりたいとか、人に良く思われたいということはありえないのです。

  

 私たちはここで、なになにするなという否定的な戒めだけではなく、こうしなさいという積極的な言葉にも目を向けてゆきましょう。それは二つの言葉で表されています。一つが、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」、もう一つが、「他人のことにも注意を払いなさい」、この二つは一緒にしても良いでしょう。その根底にもイエス・キリストがおられるのです。

 皆さんはこれらの言葉に触れたとき、率直に言って、どう思われたでしょうか。私が想像するところ、「他人のことにも注意を払いなさい」はそのまま受け容れることが出来たと思うのですが、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」というのには、抵抗感を持った人がいるのではないかと思います。…厳しい世間の中、へりくだってばかりでは生きていけません。人と接する時、時には強く出なければならないという現実に生きている人が多いのに、なぜそういうことが命じられているのでしょうか。

 この問題に関連して、こういうことを言った人がいました。「あるところにたいへん立派な人がいて、一方にたいへん劣っている人がいたとき、たいへん立派な人がたいへん劣っている人を前にして、その人を自分よりすぐれた人だと考えることが出来るのでしょうか」。

 この質問に対する宗教改革者カルヴァンの答えはこうです。「信仰深い人は、自分が他人よりもすぐれていることをよく知っていても、他人を自分自身よりも大いに尊敬することは困難ではない」。……それは、信仰深い人ならば、他の人の中にある良いところを見出し、尊敬できるからだと言うのです。この考えに従えば、私たちも、自分より劣っていると思われる人に会ったとき、その人にも良いところを見つけ、その人を尊敬して生きることが出来るというわけです。

 これに対し、カルヴァンから4世紀を隔てた20世紀の神学者バルトという人が、自分が他人よりすぐれていると考えること自体、ここでは否定されているのだと言ってカルヴァンを批判しました。それは神様の前では、どんな人であっても、自分が他の人よりすぐれていると言うことは出来ないからだと言うのです。キリストの貧しさは見せかけの貧しさではない、ほんものの貧しさの中に身を置かれたのだ、だからキリストによって捕えられた私たちも、見せかけのへりくだりではなく、ほんもののへりくだりに生きるべきなのだということです。

 カルヴァンの時代からむだに400年たったわけではありません。神学の発展に伴って、人間は信仰のさらに深いところに気がつくようになったことをこのことは教えています。

 私たちはまず、信仰とはいたずらに自分を卑下することではないことを確認しましょう。キリスト者の中には、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」というところを曲げてとらえて、私はだめなんです、何にも出来ませんと思ってしまう人がもしかしたらいるかもしれませんが、そんなことが良いとされているのではありません。…パウロは、イエス様の前では自分がほかの人よりすぐれているなんて言えない、互いに尊敬しあいなさいと言っているのです。

ここにキリスト教とは関係なさそうですが、参考までに紹介したい話があります。昔、中国が秦と言った時代、項羽と劉邦という二人の武将がいました。項羽が秦の始皇帝を見たとき、「あいつに代わって天下を取ってやるぞ」と言いました。劉邦も始皇帝を見ましたが、彼は「男子たる者、あのようになりたいものだ」と言ったのです。その後の歴史は、劉邦が天下を取り、項羽が敗れたことを伝えています。項羽と劉邦では人間の器が違っていたのですね。「あいつに代わって天下を取ってやるぞ」と言う人が「男子たる者、あのようになりたいものだ」と言う人にかなうはずはなかったのです。このようなことがたくさんあるのではないでしょうか。

 なお戦前、日本基督教会の会員で国会議員、それもかなり高い地位についていた人が、郷里に帰ってくると教会で下足番をしていたという話があります。謙遜な人は、どんな小さな務めも、こんなことは自分がやるものではないとは考えず、喜んで奉仕するものです。その一方、大きな務めを課された時、それを避けたり、なおざりにすることはありません。

お互いがお互いに対して優越感や劣等感をいだいたり、自分だけの利益を追求することから解放されて、聖徒の交わりを作りあげる、そのためにすべきことはあくまでもイエス・キリストを仰ぐことです。パウロは、このことを明らかにするために、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と書きました。その内容は6節以下に具体的に書いてございます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

人間の目に主イエスの本来の姿が見えたことがあります。主イエスと3人の弟子が高い山に登った時、イエス様のありさまが変わり、輝かしい姿となって現れたのです(マタイ17章)。それがイエス様本来のお姿だったのです。しかし、それは一時的なことで、イエス様は再び人間の姿に戻られました。ご自分よりはるかに劣る弟子たちを見下すことなく、愛しぬかれ、その汚い足を洗うほどでした。そうして十字架にはりつけにされ、呪われた者として死んでゆかれたのです。天に属する方がいちばん底の底に降りてゆかれました。…そのことは私たちに直接、社会の中でいちばん悲惨な、見捨てられた人々のところに行って働きなさいと命じるものではありません。しかし、少なくとも、そうした人々のために祈ることは信仰生活の中で大切なことなのです。

 

フィリピの教会はパウロにとって大きな喜びであり、とても良い教会であったようですが、それでも完全ではありません。へりくだって、互いに相手を自分よりすぐれた者と考え、自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい、と言われなければならなかったことがあったのです。それなら、まして私たちはパウロのその言葉に真剣に耳を傾けなければならないでしょう。広島長束教会の、聖徒の交わりの中心にイエス様がおいでになりますように。それでこそ、一人ひとりの信仰が生きて輝くものとなってゆくのです。

もしも、私たちの教会の中で、ここでパウロが指摘したような否定的現象が見られたとしたら、それは他の人の存在を軽く考えるところから生まれて来るのです。自分の目の前にいるどんな人も、神のかたちに似せて造られた存在です、神の愛の対象としての一人の人格だと考えることが出来るなら、その人を尊び、重んじるということが当然生まれて来るはずです。

パウロはコリントの信徒への手紙一の8章11節で書いています。「その兄弟、(これは信仰の弱い人です)のためにもキリストが死んでくださったのです」。その人が自分の嫌いな人だったり、取るにたりないように見える人であっても、キリストはその人をかけがえのない存在として見ておられるのです。イエス・キリストはこの自分のためにも、その人のためにも尊い命を捧げられました。キリストご自身のへりくだりの中に、私たちの救いと広島長束教会の成長があるのです。

 

(祈り)

イエス・キリストの父なる御神様。あなたは高いところにいますばかりでなく、み子イエス様によってもっとも低いところ、それこそ地獄の底にまで下りて下さいました。それは私たちを天に引き上げるためであったと、いま知ることが出来ました。イエス様が神のみ子としてのご身分に少しもおごることなく、へりくだって下さったことを私たちが受けとめ、教会の中で本当の意味での聖徒の交わりが行われてゆきますように。

神様、自分を優れているとみなし、他の人を支配しようとすることは、家族の間にも友人同士にも、もちろん教会の中にもあります。そのことが国と国との間にも起こり、いまウクライナほか世界の各地で、ある国が別の国を支配しようとしたことで悲惨な戦争が戦われています。神様、人間の支配欲が戦争まで引き起こし、その結果いかんによっては世界の破滅まで引き寄せかねないこの時、どうか世界の教会に働きかけて、人と人との間に平和の砦を打ち立てて下さい。

 

主のみ名によって祈ります。アーメン。