思いをひとつに

思いをひとつに   ゼファニヤ39、フィリピ2:1~2  2022.3.20

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119160、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:7、説教、祈り、讃美歌:352、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 

 受難節第三日曜日になりました。今日から日曜日3回にわたって、フィリピ書2章の1節から11節までを取り上げ、イエス・キリストのへりくだりということに迫って行きたいと思います。

今日は2章の1節と2節です。前もって聖書を読まれてきた方の中で、読んだあとで少しがっかりされた方があったかもしれません。2章1節は言います。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、……」。ここに書いてあることは、教会ではごく当たり前のことではないでしょうか。いつも言っていることで、ここから何か新しい発見があるのでしょうか。…しかし、ここには実は深い意義がありまして、この場所に立ってこそ、2節にある、思いをひとつにということが可能になるのです。

 1節の言葉は、2節の言葉が根付くための畑であり、土壌のようなものです。

 1節ではまず「キリストによる励まし」ということを言います。イエス・キリストによる救いの出来事から起こってくる励ましです。次の「愛の慰め」は、愛という言葉が神は愛であると言われるように、神と直接結びつくものですから、神の愛による慰めです。そして“霊”による交わりは、神である聖霊との交わりです。

 今、たいへん大雑把に見てきましたが、この「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」は、キリスト、父なる神、聖霊という順番になっています。つまり3つで1つの神、これを三位一体と言いますが、その働きが書いてあるのです。広島長束教会でも礼拝のあとの祝祷で「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と言うことがありますが、これとみごとに一致しています。…私たちは、何か困ったことが起きた時に「神様、助けて下さい」と祈ることがあるでしょう。そして、それがかなえられることがあります。少し野暮かもしれませんが、神様の助けを分解すると「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」となるのです。

 この手紙の作者パウロは「そこであなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と書いています。三位一体の神の働きに目を向けさせた上で、慈しみや憐れみの心に触れていくのですが、ここで「何々があるなら」というのは仮定文ではありません。つまり、何々があればこうだけど何々がなければこうはならないという意味で言っているのではなく、何々があるからこうなのだということなのです。例えば、「あなたなら出来る」と言ってひとを励ますことがありますね。あなたはあなたで別の人間では決してないわけです。つまり、パウロはあなたがたには幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるのだから」と言っているのです。そうして、そのことをしっかりと踏まえた上で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」となるのです。

 この手紙を受け取ったフィリピ教会の人たちはどうだったでしょう。彼らはこのように答えたかったかもしれません。「パウロ先生のおっしゃることはごもっともですが、私たちには行うことが出来ません。私たちはただの人間なのです。大それたことは出来ませんし、そんな力はありません。自分の好きな人を愛することは出来ますが、どうしたって性格が合わない人だっているのですから、とても同じ思いとなり、同じ愛を抱きというふうにはなれません」。

 パウロは、こういった反応が返ってくることもあらかじめ織り込み済みでした。だから、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる……があるなら」と言うのです。一つの教会の中でもいろいろな違ったタイプの人間がいるのですから、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにというのはたいへん難しいです。人間が自分の力でやりとげることは出来ないでしょう。そこでパウロは、あなたがたはすでに外から、つまり神様から力を供給されているのだと気づかせたのです。…ある人はうまい言い方をしました。人はほかの人に対して「もっと力を出すように」と勧めるが、自分はむしろ「もっと力を取り入れるように」と助言する。

人が元気で働くためにはしっかり食事をとることが必要です。もしも人がこのようにして自分の外から力を取り入れることがなければ、どうして力を出すことが出来るでしょう。同じことが人の心についても言えます。パウロは自分の手紙を受け取った人に向かって、三位一体の神の中にこそ力があると教えているのです。三つにして一つなる神様から受け取った素晴らしい恵みがあるのだから、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに出来るのですと。

もっともこう言いますと、見たことも会ったこともない神様から、どうやって励ましや慰めやその他のことを受け取ることが出来るのかという人が出て来そうです。しかし、夜空に輝く星が昼間見えないからと言って、星が存在しないとは言えないように、目に見えなくても確かなことがあるのです。そのことを確信させてくれるのが聖霊の働きで、問題はそれを素直に受け取ろうとしないことではないでしょうか。……かりに私たちが三つにして一つである神様のみ手の外にいるなら罪人(つみびと)です。昨日も今日も明日も全く変わりばえしない人生を歩んでいます。しかし、この神様の中にいるのだから、救われているのです。神様のみ手の外にいたら決して見出すことの出来ない、狭くはあるけれども永遠の救いへと続く道を歩いているのです。

 

 それでは2節に行きましょう。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてほしい」。

 私たちが神様のみ手の中にいるから、このことが出来るのですが、具体的にはどういうことでしょうか。家族や友人同士など小さな集まりから国際社会のような大きな集まりに至るまで、同じ思いになれずにけんかしたり分裂したり、時には戦争ということにもなるのですが、こうしたことについて人はよくこう考えます。それは自分の思いと他の人の思いが違っているときに、自分がその人の思いに合わせるか、あるいはその人が自分の思いに合わせるということです。一方が一方に屈服することで、二人の間の摩擦をなくすることが出来ます。ただ、それはなかなか難しいので、粘り強く話し合い、落としどころを探るということになりますが、それも難しいことは誰もが分かっていることです。教会も、それが大きな教会であれ小さな教会であれ、人間関係がこじれ、同じ思いになどなれないのはよくあることです。

 しかしパウロによれば、こうした問題を解決するのは簡単とは言えないまでも不可能ではありません。それがキリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わりにあずかることです。たとえば二人が同じ思いになれない時、自分が折れて相手に合わせるか、相手が折れて自分に合わせるか、あるいは妥協点を探るかということではなく、二人が共に神の恵みを受け入れるということなのです。自分の思いも相手の思いも共に、礼拝する神様の前で清められ、高められてゆくなら、たとえお互いの間にどんな問題があったとしても、同じ思い、同じ愛、心を合わせ、思いを一つにすることが出来ると言うのです。

 私たちがあることをしようとして、自分には自分の考え方があり、ほかの人には別の考え方があるとします。その時、自分とその人とどちらが勝つかということではなく、また神様抜きで妥協点を探るのではなく、共に3つで1つなる神様にこそ服従すべきなのです。

 ただその時、神様の思いはこうで、それは自分にしかわからないと言いはり、神の権威をふりかざして自分の考えを押し通そうとする人が、もしかしたら出てこないとも限りません。神様の思いを誰かひとりが独占するということはあってはなりません。そうならないために、私たちもふだんから神様の思いがどこにあるかということを謙虚に学んでゆくことが大切で、それがイエス・キリストにおいて示されています。…キリストはいま天におられて世界を支配なさっている、偉い偉いお方であられます。しかし、この世界に来られて私たちと同じ人間となられ、しかも極悪人の汚名を着せられて十字架にかけられました。低い低い、底の底まで降りて来られた方なのです。このキリストの姿を知りながら、ただ上へ上へと昇って行こうとしたり、キリストの権威を振りかざして自分を偉く見せようとする人がいたら、恥じるべきでありましょう。

 

 いったいフィリピの教会には、パウロから同じ思いとなるように注意されなければならない問題があったのでしょうか。パウロがつくった教会の中でフィリピの教会はとても良い教会だとされているのですが、ただ人間がやっている以上欠点のない教会はありません。そのことが窺えるのが、4章2節3節の記事です。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いをいだきなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください」。

 二人の婦人について、主において同じ思いをいだきなさいと勧められています。おそらくこれは、教会の中で二人の婦人が対立し、そうとう深刻な問題となっていたために、パウロが手紙で二人を説得しなければならなかったものと思われます。二人の女性が対立しあうということは私も以前いた教会で経験しました。もちろん二人の男性が対立しあうということもあります。こんな時に対立しあう一方を、あるいは両方を教会から追い出してしまえという考え方はパウロにはありません。この二人になされた勧めが「主において同じ思いをいだきなさい」ということだったのです。

 このところから私たちは教えられます。教会の中で起こるもめごとについて特効薬はありません。あるのはただ一つの基本、父なる神がイエス・キリストによって示してくださったところに立ち帰ることです。

 それでは考え方の違いがのっぴきならないところにまでなってしまった場合はどうすれば良いのでしょうか。信仰の世界においては、神のみこころがどこにあるのかということを突きつめて考えていった時、かえって重大な対立が起こることがあります。それが神学論争というもので、当事者でない人にはなかなか理解しにくいことで対立が先鋭化し、ついには教会の分裂に至ることがあります。5世紀から6世紀にかけて、カトリック教会と正教会が分かれてしまいましたし、16世紀にはカトリック教会からプロテスタント教会が独立、そのプロテスタント教会も考え方の違いから多くの教派に分裂してしまいました。

 それぞれが聖書に基づき、神のみこころがどこにあるのか真剣に求めたにもかかわらず、激しい対立が起き、分裂が起きてしまうことがあります。…しかし、それでも神のみこころがどこにあるのか求めることを怠ってはならないのです。教会の分裂まで引き起こす意見の対立、その根底に人間の罪の現実が見えています。現在、遅まきながら、分裂したままの教会間で対話が進められているのは、今の状態は本来の教会の姿ではないという思いの現われなのです。

 

 人間関係の問題や考え方の違いが大きな対立となってのっぴきならなくなることは、教会の中にも外にも、私たちの身近なところから国際社会まで、あらゆるところで起こっています。…人間関係をめぐって対立が先鋭化することがありますし、経済的に恵まれない人と恵まれた人の間で、嫉妬したり、敵視したり、馬鹿にしたりということがあります。日本の国がこの先どうあるべきかということでも、国論が分裂しているさまざまな問題があるわけです。いまキリスト者の中で問題がこじれている時、対立する両者が自分たちの拠って立つところを確認して解決しようとする方向性が示されたのですが、ではキリスト者と非キリスト者の間で起こった対立はどのようにしていったら良いでしょうか。礼拝という共通の基盤はないのです。しかし、その場合でも、キリスト者には、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わりなどがあるわけですから、ここから外れてはなりません。ここを根拠に自分の取るべき道を見つけてゆきましょう。

 究極的には、すべての人が同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにということが求められています。いくら不可能に思えたとしてもです。人間にはできなくても神様ならできることを信じましょう。…まず教会から、そして教会を超えてさらに多くの人々に、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、慈しみや憐れみの心が広がってゆきますように、と願います。

 

(祈り)

 私たちの父なる神様。私たち一人ひとりが置かれている場所はそれぞれ違い、かかえている重荷や関心もそれぞれ違っています。しかし、ひとりの主、イエス様が与えられ、聖霊に導かれているのですから、みなが心を一つに合わせることが出来ますように。この世界にある教会もそれぞれ異なった課題と重荷を背負っています。しかし、ひとりの主、イエス様のもとに、分裂を克服し、一つの教会となる道を進ませて下さい。この世界にある人間同士の対立が戦争まで引き起こしている今、どうか、すべての人が三つにして一つの神様の恵みを受け、平和への思いに突き動かされてゆきますように。先が見えず、悪魔が跳梁しているかに見える時代にあっても、神様がおられること、イエス様が世界と私たち一人ひとりを治めておられることを、確かなしるしをもって現わして下さい。主のみ名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。

 いま、神様の憐みと赦しの中、ここにいるすべての者の上に御祝福を祈ります。そして、ここで神様からいただく祝福を世界のすべての教会と共有し、争い悩む世界の中で平和を現わしてゆくことが出来ますように。

 

 主イエス・キリストのみ名によって、この祈りを捧げします。アーメン。