祈るひと

祈るひと  サムエル記上121825、マタイ658  2022.3.13

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119159、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:79、説教、祈り、讃美歌:312、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

広島長束教会で対面での礼拝がやっと始まりましたが、コロナ感染はまだまだ続いていて油断ができません。感染しない、人にも感染させないということを心がけ、くれぐれも注意を怠ることのないよう努めながら、礼拝生活を続けてゆきましょう。

今日は祈りということを学びます。イースターが終わったあとは、これに引き続き、主の祈りを一つひとつ取り上げていくことにしています。 

 祈りが信仰生活にとってどれほど大切かというのは言うまでもありません。祈りは一言で言って、神様との霊的な交わりです。目に見えない神様と心を通いあわすのが祈りです。私たちが祈るとき、神様はその祈りを聞いておられます。そして祈りに応えて下さいます。……かりに、祈ることが全くない人生というものを思ってみて下さい。それは索漠とした、味けない人生です。それどころか、際限のない転落の人生かもしれません。…私たちが神に祈ることが出来ること、それは神に選ばれ、神を信じる者たちだけに与えられた特権であり、恵みなのです。

 しかしながら、祈りについて私たちが余りよくわかっていないことも事実です。…その第一が祈れないという問題です。祈ることが大事だと頭ではわかってはいても、祈る気持ちになれないことを私たちはしばしば経験します。……祈りはするけど、初めから腰が引けていて、こんなこと言っても神様は聞いて下さらないとか、どうせ無駄なんだと思っている、そういう時の祈りは力がありません。…そういうことが私たちの間にないでしょうか。そんなのはお前ぐらいのものだと言われるならこんな結構なことはありませんが。ともあれ、私たちの信仰生活が祈りによってしっかり支えられ、形作られてゆきますように、祈りについて連続して学ぶことは大きな意義があるのです。

 

私たちの主イエス・キリストは、祈りについて何を教えられたのか、そう思って、今日与えられたみ言葉を読み、誰もが気づくことは、…ここでは私たちがなかなか祈れないことを問題になっているのではありません。反対に祈ることに熱心な人が批判されているのです。主イエスは祈りにおいて現れる罪、よく祈る人の罪を問うておられます。

イエス様が言われている「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」、皆さんはこんな人を見たこがありますか。現代の日本でそういう人はなかなかお目にかかれないと思います。その点、イエス様の時代との違いは大きいのです。しかし今日の世界でも、イスラム教の人々はどうでしょう。イスラム教徒と言っても、現実には熱狂的な信仰の持ち主から不信心な人までさまざまですが、熱心な人について言うなら、一日のうち5回の祈りの時を定め、その時、何をしていてもそれをやめ、聖地メッカの方を向いて祈る、文字通り地に伏して祈るのです。…運転中のパイロットが祈りの時間になると操縦の手を休めて祈るというような話もあります。もっとも、これは作り話かもしれません。いずれにしても、実に熱心に祈る人々がいるのです。

イエス様が地上におられた時代、ユダヤ人には一日のうち朝9時と昼の0時と午後3時、都エルサレムの神殿に向かって祈る習慣がありました。ここに出て来る人々は、たくさんの人がいるところで人目もはばからずにお祈りしたのでしょう。まことに熱心なことです。きちんと祈りの定めを守っているのです。しかし、それが自分の信仰深さを人に見せるための祈りになっていたのです。…「人に見られる」ことが悪いのではありません。私たちも他の人たちがいるところで声を出して祈ることがありますが、それが悪いのではありません。「人に見せる」ための祈りになっていることが批判されているのです。おそらく、言葉の上では神様に呼びかける祈りであっても、実際には人の目を気にしており、神様ではなくて人に向かって祈っていたのです。

 主イエスはその人たちのことを偽善者と呼び、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と言われます。しかし私たちは、ここからどういう教訓を引き出せるでしょうか。私たちは、イエス様に問題にされるほど、つまり祈ることにおいて偽善の罪を糾弾されるほどには祈ってはいません。やはり、なかなか祈れないということが一番の問題だと思います。しかし、日本の教会でも、主イエスが批判したことが全くないと言うことは出来ないと思います。

これはいつかお話ししたことがあると思うのですが、日本のある教会に立派なお祈りをすることで自他共に認められ、牧師にもたいへん重宝がられている婦人がいました。ある時、牧師から祈りを求められて、いつもの通りたいへん立派な言葉を並べて祈りました。すると、そこにいたずら坊主がいて、けしからんことをしました。この婦人に向かって一言、「うそばっかり」、とたんに彼女は真っ青になって、祈りが続けられなくなってしまったそうです。あとになって彼女は言いました、「あの時、ああ言われて良かったんです。それまで、自分は誰よりも立派な祈りが出来ると思って得意になっていました。自分の高慢が打ち砕かれたのは、神様の恵みだと思います」。

このように祈りの言葉がすらすら口をついて出ることで失敗することもあるのです。そこで、そもそも祈るとはどういうことか、主イエスは何をもって祈りとされるのかということを問うてゆきましょう。

 

祈るとはどういうことか、主イエスはこのことを具体的にお語りになります。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と。

昔と今では住居の構造が違っています。「自分の部屋」というのは、この時代の農家などによくあった、物置小屋のような部屋です。窓がなく、戸を閉じると真っ暗になってしまう部屋です。その中で祈れというのは、外の様子が見えず、外から見られることもない部屋なので、人の目を意識する必要がないからです。

そんな部屋はうちにはない、うちはいつも騒々しくて、ああ自分一人の部屋がほしい、なんて方がおられるかもしれませんが、主イエスは一人きりになれる部屋がなければ祈ることが出来ないと言われているのではありません。主イエスご自身はしばしば朝早く、野に山に、人けのない所に一人行って祈られました。そこがご自分の部屋だったのです。ほかの人が間に入ることがないところで、神様と向き合い、神様と一対一になって祈る、そのことが出来て初めて人前で祈ることが出来るのです。

このことを、自分は祈りが下手だと思っている人も考えて下さい。自分は立派な祈りは出来ない、献金の当番に当たってみんなの前でお祈りすることになったらどうしようという人も、人の目を気にしているという点では、人に見てもらおうとたくさんの人の前で祈る人と大して変わらないかもしれません

祈りとはまず自分と神様の間での祈りです。…では、ほかの人と一緒にいる時の祈りは何かといえば、それは、みんなと一緒に神様に心を向け、心を合わせて行う祈りです。そこでは自分を飾る必要はなく、それさえわかればもう部屋の中だろうが外だろうが関係ありません。

祈りは結局のところ技術ではありません。すらすら言葉が出てこなくても良く、どんなに口べたな祈りでも良いのです。…それとも、祈れないと言う人は自分は信仰心が強くないから良い祈りが出来ないと恥じているのでしょうか。しかし、信仰心の強い人とはいったい誰のことでしょう。神様の目から見たとき、ここにいる私たちは、信仰の深さという点では、牧師も含めて五十歩百歩でありましょう。…旧約聖書に出て来るヨナは、神様の前から逃げ出そうとして大きな魚に飲みこまれました。信仰の点では落第生でしたが、しかし神様はこのヨナを召し出して預言者とし、彼を使って神の広く深い愛を伝えたのです。神様のみ前で、人の信仰心に優劣をつけることはできないし、祈りのうまいへたもありません。だから人の目を気にせず、まず祈りに踏み出すことです。言葉は後からついてきます。

 

神様との生きた関係を破壊する祈りがあります。それが7節に書いてある異邦人の祈りです。この時代、本当の神を知らない人々はくどくどと、言葉数の多い祈りをしていたのです。現代でも、たとえばインドで始まったある新興宗教では、崇拝する神様の名前を口にしながら踊り歩きますが、これを繰り返すうちにだんだん興奮し、熱狂状態になってゆきます。それはもちろん人間の救いとは全然関係ありません。

キリスト教の中でも、私が他教派の人たちと集会で一緒になった時、祈りの言葉が鉄砲玉のようにぽんぽん飛び出してくるのに驚きました。初めは私も圧倒されて、自分の祈りの言葉は何て貧しいのだろうと思ったのですが、そこで引け目を感じる必要はなかったのです。

神様の名をそれが安っぽくなるほど何度も何度も唱えたり、神様何とかして下さいと、次から次にまくし立てるように祈る、その時、人は往々にして、「神様、私の願いを何としても聞いて下さい」と詰め寄って、あろうことか、神様を自分の意のままにしようとしていることが多いのではないかと思います。しかし主イエスは、くどくどと祈るなと言われます。大事なことを、神様への畏れの思いの中で心を込めて祈れば良いのですが、その理由が8節に書いてあります。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。

私たちが、自分に必要なものを神様与えて下さいと思って祈っても、それが必ずしも本当に必要なものとは言えません。本当は必要のないものをおねだりしているだけかもしれないのです。しかし、神様はその時、もっと正確に、私たちに何が必要かということを知っていて、用意して下さり、与えて下さいます。たとえばお金がほしいお金がほしいと神様に願っても、それがかなえられるかどうかわかりませんが、神様がお金よりもっと尊いものを与えて下さることは確かです。

しかし、私たちが祈る前、神様がすでに私たちの本当に必要なものを知っておられるとしたら、いったい何のために祈らなければならないのか、という疑問が出てきます。

主イエスはもちろん、私たちが祈らなくて良いなどとは言いません。ご自身が祈りの人でありましたし、弟子たちにも祈ることを教えられました。それでは、神様が私たちの必要なものをすでにご存じでありながら、祈ることを求められたのはどうしてでしょう。ある人が言いました。「神に祈るということは、物乞いが人にお金を恵んで下さいと乞うようなことではなくて、子どもが父親に欲しいものを願うようなことだ。父親は子どもが言わなくても子どもが何が欲しいか知っている、子どもに一番必要なことを知っている。しかしその場合でも父親は、お前の欲しいものはわかっているから、お前はだまっていなさいとは言わない」。…皆さん、どうでしょうか。子どもが何をほしいとも言わない、親はだまって子どもがほしいものをあげる、これでは親子関係は成り立ちません。親子の会話があってこその家庭です。イエス様のおっしゃられたことは、神様と私たちが祈ることで一つに結ばれる、それこそ神の家族としての人間のあり方なのです。

今日、サムエル記の一部を読みました。旧約時代の預言者でイスラエルの民の指導者であったサムエルは「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない」と言っています。祈りというと、ふつう自分のことを祈ることが多いのですが、ここでサムエルはイスラエルの民のために祈っています。そして、祈らないことは罪を犯すことであると言うのです。

神様は御子イエス・キリストを通して、祈ることを教えて下さいました。宇宙の創造者であられる神は、祈りによって私たちの心とふれあうことを何より喜びなさるお方です。舌足らずな祈りであっても、つたない祈りであっても良い、それを祈りとして認めて下さり、私たちの思いをはるかに越える恵みを下さることを約束されているのです。神様を賛美します。

 

(祈り)

 

天の父なる神様。あなたは私たちの近くにいて下さります。私たちの願いを私たち以上に知っていて下さいます。だから、私たちの祈りに応えて下さいます。主イエスが、とうといお命を注いで教えて下さいました祈りとその言葉、その精神を、日々の生活の中で大切にしてゆくことが出来ますように。私たちの毎日の生活の中に祈りがあり、祈りによって導かれる毎日でありますように。たとえ祈りがすぐにかなえられなくても、私たちをたゆまず祈る者とし、そのようにして、人生の晴れの日も嵐の日も、あなたと共に歩むことをゆるして下さい。主イエスの御名によってこの祈りをお捧げいたします。アーメン。