施しをするときには

施しをするときには  申命記15711、マタイ614   2022.3.6

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119157、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:66、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:83、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ—26、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 今日はレントすなわち受難節の最初の日曜日になります。レントはイースターの40日前の水曜日から始まり、イースターの前日までの期間、みんなで共に主イエスのご受難をしのぼうということでもうけられたものです。聖書にレントを覚えなさいと書かれているわけではありませんし、この期間だけご受難を思えば良いということでもありませんが、キリスト教会で古くから守られてきたこと私たちも受け継いで行きたいと思います。

 

これまでイエス・キリストの山上の説教を学んで来ましたが、今日からその内容ががらりと一変します。これまで腹を立ててはならないとか、姦淫してはならないなどなど、悪について注意しなさいと教えられてきました。しかし今回、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われます。この世の悪に立ち向かうための教えがひとくぎりついたようで、今度は、善いことに注意しなさいと言われるのです。…どうして善いことについてあれこれ言われなければならないのでしょう。善いことは善いことなんだから、こむずかしい理屈なんか必要ない、と思う人がいるかもしれません。しかし人間を取巻く現実は、時代劇のようにはすっきりとは行きません。みんなが善いことをしようとして、それで本当に世の中がよくなるなら言うことありません。けれども、親切が仇になるという言葉があるように、みんなが善いことをしようとしたのに結果はひどいことになったということがあるのです。誰も悪くないのに、みじめな結果で終わってしまったとすれば、その時には、どこかに間違いがあったのではないかと、根本のところから検証しなおす必要があります。……私たちは他人の悪いところはよく目につきます。人のふり見て我がふり直すことの大切さは言うまでもありませんが、ここでは自分で良いと思っていることやひそかな心の誇りとなっていることにまで、目を向けなくてはならないのです。

 主イエスは「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われます。そして、そのことを説明するために三つの例をあげました。第一が施し、第二が祈り、第三が断食です。第二と第三の例は次回以降で見てゆくとして、今日はまず第一の施しについて考えてゆきたいと思います。

施しというのは、貧しく生活に困っている人々に対して、お金や食べ物などをあげることによって物質的に助ける行いを言います。施しをこれまでしたことないという人はいますか。施しが、人間としてもクリスチャンとしても、とても大切なことであるのは言うまでもありません。最近の日本は、子どもから老人まで厳しい競争社会になっているため、貧しい人を見ても自己責任だと言って突き放す人も多いです。だからこそ、施しはますます貴重になっています。 

広島長束教会は昨年、国際飢餓救済機構の募金に協力しました。世界には毎日の食事を十分に食べられず、それこそ飢え死にしてしまう人もいるのですから、毎日ご飯を十二分に食べている私たちが献金するのは当然です。…教会は他の人々や団体にお金をささげることの意義を、折りにふれ言い続けなければいけません。

旧約聖書の中でいくつか、施しの例が出て来ます。その一つが、麦畑の刈り入れのとき麦の落ち穂を貧しい人たちのために残しておくことがそうです。これは「落穂拾い」という有名な絵になりました。…ぶどうの取り入れのとき、ぶどうを取り尽くさないで残しておくように、という命令もあります(レビ19910)。…さらに、三年ごとに、その年の収穫物の十分の一を町の中にたくわえ、貧しい人たちの割り当てにするようにしなさいという教えもあります(申142829)。

古代のイスラエルで、貧しい人たちへの施しはたいへん価値のあることだ、と考えられていました。ある人は「慈善を行う者は、全世界を神の愛で満たす人のようである」と言ったそうですが、こういう態度の根本にあるのは、人間同士が互いにいだくあわれみは、それが行いとなって現れない限り本当のものでないということです。可哀そうだねと言ったままで何もしないとしたら、それが何の役に立つでしょう。先日、私は聖書の中で次の言葉を見つけました。箴言1431節です。「弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ」。とてもすごい言葉ではないでしょうか。神を尊び、神の創造された人間を尊ぶ人は、それがどんなに貧しくて、みすぼらしい服装をしている人であっても、一人の人間としてその人を尊重するのです。

 

こういうことを十分踏まえた上で、主イエスの教えが展開されていることに注意して下さい。主イエスが施しについて何か言われたからと言って、それは施しをやめてしまいなさいと言うことではありません。施しは大切です。しかし、その方法を間違えるととても困ったことになってしまいます。というのは、貧しい人たちにあわれみの心から必要なお金や食事を与えることは、ともすれば施す側に優越感を味わわせ、施される側に劣等感やひがみ根性を与えかねないからです。

ある男の子が大学入試にすべって沈みこんでいるのを、見るに見かねた親友のお母さんが、息子の昔からの親友だし、クリスチャン同士であるからと言うので、大変同情し、ある晩夕食に招いて家中あげて激励しました。おいしいご馳走をつくり、みんなで励まして、ああ良いことをした――と、そのお母さんは考えていました。しかし、慰められた本人は、むしろ憤慨しきっていたのです。それもそのはず、彼を招いた家の子供の方は大学に合格していたので、いくら親友同士とはいえ、入学祝いにあてつけに招いたとしか取れなかったのです。

私たちは、動機さえ正しければ、していることそれ自体が善いことならそれで良いなどと、甘く考えるべきではありません。他人に施しをするとき、「恵んでやるよ」なんて態度では、本当に相手の身になって考えているとは言えません。主イエスは言われます。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」。

施しをする時に本当にラッパが吹き鳴らされたのでしょうか。ある人が言うには、当時、礼拝の献金の際に、各自が前に進んで、いくらささげたかを告げる習慣があったところがあったようです。献金が非常に高額の場合、その人はとくに祭壇のそばに招かれたということで、この特別な善行を神に報告するためにラッパを吹くようなことがあっても、不思議はないということです。

たくさんのお金を捧げたからといって、それで良いわけではありません。いまの教会は、多額の献金をしてくれた人がいても大々的に宣伝することはありませ。…ほかの宗教はどうでしょうか。神社の中には誰それがいくら献金したということを石で刻んで記念しているところがあります。たくさんのお金を捧げて名前を刻まれた人は得意になるかもしれません。皆さん、こういうことをどう思いますか。

もしも教会に多額の献金をしてくれた人があった場合、教会も教会員も当然たいへん感謝するでしょう。ただそこで、誰だれさんがいくら献金して下さったということを大々的に公表し、みんながほめそやし、その人が得意になるということは避けなければなりません。それは、人にほめられることを求めて善いことをするということにつながるからです。…そんなことどうでもいいじゃないか、どんな動機があっても、善いことはいいんだ、と考える人がいるでしょうが、それでは本当に神様をとうとんでいることにはなりません。神様がどこかに行ってしまう、それではだめなのです。どんな人にもそういう危険がつきまとっています。人から喝采をあびたいために、一番大切なこと、神様を見落としてしまう、こういうことは枚挙にいとまがありません。

そこで主イエスはさらに厳格な要求をなさいます。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」。右の手のすることを左の手に知らせるな、と言うのは文字通りに考えようとすると意味がわかりませんが、これはもちろん比喩です。自分のした善い行いを他人に吹聴しないのはもちろん、自分自身にも隠しておきなさいということ、……つまり善いことをするときに、自分は善いことをしているという意識からも自由でありなさいということなのです。

マタイ福音書25章の31節から最後まで、最後の審判についての話が書いてあります。裁判官は主イエスです。イエス様の前にすべての人が集められて、神に受け入れられる正しい人と、神の救いにあずかれない正しくない人とに分類され、左右に分けられます。その時、イエス様は、右の方にいる正しい人々に向かって言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。すると、その人たちは問い返します。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」。この人たちにはイエス様を助けたという記憶が全くないので、そんなことを言われて驚いてしまったのです。しかしイエス様はお答えになります。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。こうして正しい人たちは永遠の命を受けることになります。

先に「造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ」という言葉を紹介しましたが、これと今の話には結びつくところがあるでしょう。貧しく生活に困っている人々に施しをすることは、なによりイエス様を助けることなのです。……そして、ここで注目したいのは、この正しい人たちは、施しをしているとき、自分が正しいことをしているという気持ちさえ持っていなかったということです。この人たちは、自分が神様の前で祝福されるような善いことをしているという

自覚を持っていませんでした。つまり、自分たちは当たり前のことをしているだけだとしか思っていなかったのです。…どうですか、人にほめられるために善いことをする人と、そんなこと初めから考えない、ただ当たり前のことをするだけだという気持ちで善いことをしている人、神様はどちらの人の方を喜ばれると思いますか。

施しをすることで優越感や満足感を得たいと思う人は、なるほど世間で良い評判を得ることが出来るかもしれません。でも、それだけで終わってしまうでしょう。神様の祝福を受けることは出来ません。…けれどもただ愛のために生きる人、自分は善いことをしているという意識もなくて善いことをする人が神様の祝福を受けるのです。神様の祝福こそは神様から下さる報いです。神様からいただく恵みの賜物です。

終わりになりますが、今の時代、いつも控えめでいではだめだ、自分のことを積極的にアピールすることも必要ではないか、という考え方もあるでしょう。イエス様ご自身、地の塩と世の光について述べられた時にこう言われています。5章16節、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。これは人目につかないところで施しをせよ、と言う教えと矛盾しないでしょうか。しかし、続けて読んでみましょう。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。人々の前に輝かすのは私たち自身ではありません。神様から来る光を、人々の前で示すのです。崇められなければならないのは私たち自身でなく、天にまします我らの父ではないですか。だからイエス様の言葉に矛盾はありません。

人にどう思われるかということばかりとらわれていると、世間の評価の前で右往左往してしまいます。…今度は、善いことをすることで笑われる場合だってあります。たとえば、水害で苦しんでいる人たちのためにお給料全部を捧げたとしたら、それをほかの人が知って、あいつはばかだということがあるかもしれません。しかし、そんな雑音があっても放っておきましょう。もしも善いことをしてばかと呼ばれるなら、喜んでばかになるべきです。神様を中心とする生きかたが、私たちを変えて、自分でも意識しないほどに善を行うことに熱心な者となることが出来ますよう、お導きを願いたいと思います。

 

(祈り)

 

天の父なる神様。私たちはみなあなたの目から見てまるで井の中の蛙、小さな世界の中で生きている者です。狭い世界の中で優越感にひたったり、劣等感に陥ったり、いばってみたり、泣いたりしています。お金があるかないかで生きる世界が違ってくるように思い、お金がある人とない人では永久に理解しあえないのではないかと思うほどです。しかし、そんな私たちのために、もともと富んでおられたイエス様が貧しくなられたことを、深い思いで受けとることが出来ますように。一人一人に与えられた財産は、もともと神様からいただいたものです。貧しい人たちのためにたとえどれだけお金を捧げたとしても、もともと神様から頂いたお金なのです。それが多いからどうだ、少ないからどうだということではありません。どうぞこれからの生活の中で、悪の誘惑に引っぱられそうな時に神様がさえぎって下さり、善いことについては当たり前のことのように励む者でありますように。神様、あなたがおられ、あなたが見ていて下さり、あなたが祈りに答えて下さる、そのような神様の恵みの中に、私たちの日々の歩みを置いて下さい。主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。