結びの言葉

結びの言葉    詩編1331cd、エフェソ62124  2022.2.27

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119156、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:3、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:30、説教、祈り、讃美歌:448、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 2021年の1月から始めたエフェソの信徒への手紙の説教が、今日でひとまず最後になります。

 エフェソは今のトルコの西のはしにあり、エーゲ海に面した港を擁し、またアルテミスという女神を祀った神殿で有名な異教の宗教都市でもありました。パウロは第3回伝道旅行の途上およそ3年間、エフェソを根拠地として周辺の地域も含めて伝道して回りましたが、それは紀元56年から58年にかけてのことだと考えられています。

パウロとエフェソ教会の人々とは信仰による深いつながりが出来、パウロは第3回伝道旅行の帰りにもエフェソの教会の長老たちに会っています。しかしエレサレムに戻ったあと地中海に面するカイサリアで2年以上牢獄に入れられ、そのあと船でローマに向かいますが、ローマでも牢獄に入れられることになります。パウロがカイサリアかローマかわかりませんが、獄中からエフェソの教会に書いて送ったのがこの手紙です。

 この手紙は前半の3章まではどちらかというと教理的なことが中心で、4章からはその応用編として展開していきます。そうして、とうとう最後の結びのところに来ました。「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。」

 パウロはこの時、カイサリアかローマの獄中にいるのです。皆さんは牢獄に入りたいと思いますか、そんな人はいないでしょう。パウロは前のページの6章20節でこう書いています。「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、話すべきことは大胆に話せるように、祈ってください」。パウロがいたのがどんな牢獄かはわかりませんが、少なくとも鎖につながれているのです。「祈ってください」という言葉からも、苦しい状況にいることが予想できますね。そうしますと「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために」というところから想像されるのはパウロのうちしおれた様子です。ところが、そのあと何と書いてありますか。

パウロはエフェソの教会にティキコという人を送りますが、22節をご覧下さい、「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです」。パウロは自分たちの様子を知ってほしいと思っています。そして、そのことがあなたがたの信仰の励ましになると言っているのです。

獄中で鎖につながれ、苦しい状況の中にあって、エフェソの人々に「祈ってください」と頼みながら、しかし自分の様子を知ることがあなたがたの心の励ましになるというのはどういうことでしょう、…私たちの場合、ちょっと考えられません。こちらが元気で幸せな時、ほかの人を励ますならわかりますが、苦しい状況にある時、どうしてそんなことが出来るのでしょう。でも、この世の中にこういう人がいないわけではないのです。もうすぐ北京でパラリンピックが始まりますが、障害を持った人の活躍に健常者が励まされるということもその一つです。ここで言えることは。パウロが苦しい状況の中でも、自分のすべてを神様にゆだねて、まっすぐ、しっかり生きているから、自分の様子を知らせることが、それを聞いた人たちを励ますことになり、神様から受けた恵みをさらに多くの人と分かち合うことになるのです。パウロが獄中でどれほど苦しかったとしても、主に結ばれて互いに祈り合う群れに絶望という言葉はありません。

 

 ここでパウロのかわりにメッセンジャーになったティキコについて、聖書で最初に登場するのは使徒言行録の20章4節、パウロがエフェソを離れてマケドニア州に出発する時です。「同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコスとセグンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった」。ティキコはアジア州出身、当時のアジア州はいまのトルコの西部にあたりますから、彼はユダヤ人ではなく異邦人キリスト者だと考えられます。

パウロはティキコのことを「主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です」とべたぼめしています。さっき、詩編から「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と、読みました。味わい深い言葉です。コロナ禍でみんなが一緒に集まることが出来ない今、兄弟が共に座ることがどんなに大きな恵みであるか、思い知らされます。また言わずもがなのことかもしれませんが、パウロはユダヤ人、ティキコは異邦人キリスト者ですから、もともと生まれも育ちも言葉もふだん食べているものも違います。ティキコはローマの神々の中で育ったのにその信仰を捨てて唯一の神を信じるようになった人です。けれども、すべての違いを乗り越えてパウロとティキコは兄弟になったのです。

 そしてもう一つ、ティキコは「忠実に仕える者」です。ティキコはイエス・キリストと、キリストの体である教会に忠実に仕える人です。それでは、イエス様はふんぞり返って、下の者たちの奉仕を受けるお方なのでしょうか。そうではありません。イエス様は言われました。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ22:25~26)。イエス様にならってティキコは忠実に仕える者となりました。それも気が進まないままではなく、喜んで奉仕する者になったのです。具体的には、パウロの伝道旅行を支え、パウロが囚人となってからはたびたび彼のもとを訪れて世話をしたということです。そして今回、パウロから手紙を託されて、はるばるエフェソまで訪ねてくるのです。これは単に、ティキコが偉い人だったからということではありません。すべて十字架上で死んで、よみがえられたイエス様から与えられた恵みの結果なのです。私たちも、教会の中で、また他の教会との間で、それぞれの人がどんなに違っていたとしても、お互いに兄弟姉妹であるということを改めて確認したいと思うのです。

 

 こうしていよいよこの手紙の最後の部分、祈りの言葉になりました、パウロはエフェソの教会の人々にこの言葉を差し出します、「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。」

 初めに「平和と、信仰を伴う愛があるように」、次に「恵みが変わらぬ愛をもってあるように」と言われていますが、ちょっとこの手紙の1章2節をご覧下さい。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。冒頭の部分と最後の部分が似ていることに気がつかれたことと思います。両方とも平和と恵みを強く打ち出しているのです。

平和というのは単に戦争がないことではありません。そのような意味の平和なら、何かあった時すぐに崩れてしまいます。神との平和がないなら、あらゆる平和は力を持たないのです。神の前に罪を犯した人間には平和がありませんが、これがイエス様の十字架を信じることによって救いへと昇華され、平和が打ち立てられます。この平和が恵みとなって現れ、隣人との関係も祝福されたものになるのです。

 エフェソ書の最後の祈りの言葉には、この平和と恵み、それぞれに愛が伴っています。「平和と、信仰を伴う愛があるように」、「恵みが変わらぬ愛をもってあるように」。…平和も、恵みも、愛がなければ意味がありません。

 コリントの信徒の手紙一の13章、有名な愛の賛歌の中でこう言われています。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、…愛がなければ、わたしに何の益もない」(Ⅰコリント13:2、3)。

 たとえ完全な信仰を持って、神様との平和に生きた人であっても、愛がなければ、…愛といっても男女間の愛などいろいろありますからここでは「信仰を伴う愛」と限定しています、愛がなければ、建前だけのもの、口先だけのものになってしまうでしょう。…恵みも、それが少ないと不満を持ち、多すぎるとありがたく思わないかもしれません。そこに「変わらぬ愛」がある時、真に祝福されるものとなるのです。…愛の究極のところに、すべての人々のためにとうとい命をさしだされた神のみ子イエス・キリストの十字架が立っています。パウロがこの手紙全部を通し、それこそ命をかけて訴えているのは、ここに現れたキリストの愛を見上げることで、そこからすべての善いものがあふれ出て来るのです。

 私は、エフェソの教会の人たちはパウロの渾身の訴えをどのように受け入れたのだろうと思いました。しかし、それはそのまま私たちにもかえってくる問題です。私たちは教会に来ていますから、平和も恵みも、神の愛も、頭ではわかったつもりになっていても、実際はそうではないかもしれません。パウロが書いたようには生きていないのです。しかし、これまでそうであったとしてもこれからも同じであるとは言えません。エフェソ教会の人々はパウロのこの手紙を受け取ったことで変わっていったでしょう。私たちも同じです。

 パウロのこの祈りの言葉、いや祈りの形を取った神様の祝福の宣言は私たちにも与えられているのです。平和と恵みがあなたがたにあるか、もしもなければそれがあるように、愛のない者がそれでも愛に生きることが出来るように。繰り返しますが、神様御自らその愛を示して下さったのです。それは大昔にただ一度起こったことではありますが、決して歴史のくずかごに入れて忘れ去って良いものでは決してありません。神様は、あなたはこの愛によって生きなさいと言われます。それがイエス・キリストが引き受けられた十字架です。イエス様はおっしゃいます。あなたの罪によって私はこの苦しみを受けた。しかし、その罪の責めをあなたに負わせはしないと。釘で打たれ槍で刺されたお体のまま私たちを抱きかかえ、本当の救いへと導いて下さいます。十字架のもとで、罪の赦しの中にいつも立ちなさい、ここから離れてあなたは生きていけないのだからと。ここから神との平和、信仰を伴う愛が与えられます。恵みが変わらぬ愛をもって与えられます。それがこの祈りであり祝福の言葉、祝祷なのです。

 私たちが享受している平和も、恵みも、それが人間から出たものである限り、永久に続くことはありません。それこそ賞味期限、消費期限というのがあるのです。しかし、それが天から来たもの、神様から与えられた愛に裏打ちされているなら、その時々で浮き沈みがあるように見えても、決して消えさることはなく、死んだと思ってもよみがえり、永遠に続くのです。パウロは牢獄で、鎖につながれた状態であったにも関わらず、神の愛に基づく信仰に生き、その言葉と姿が、これを聞いた人たちの心を励まし続けました。同じことが主イエスを信じる私たちの間で、互いに起こってきますように。

 聖書に書かれてあることは決して死んだ文字の集まりではありません。ここに没入するその程度に応じて、起き上がって、私たちの内に生きて、働くようになるということを、誰もが体験なさることを願っています。

 

(祈り)

 神様、この1年あまり、エフェソ書を通して神様の言葉を頂いたことを感謝いたします。私たちはこの短い書物を通して、信仰の本質と信仰を与えられた者としての新しい生き方を教えて頂くことが出来ました。その中には、すでに忘れかけていることも多いのですが、今後私たちが、何かあるごとにエフェソ書を開き、汲めども汲めども尽きない神様の教えに触れて、新しい発見を積み重ね、それが私たちの中に生きて働くことを願っています。

 エフェソの教会に与えられた祝福の言葉が、私たちの広島長束教会にも与えられますように。

 

 とうとき主の御名によって、この祈りをおささげいたします。アーメン。