自由への旅

自由への旅  出エジプト1615、ヨハネ62835 2022.2.20

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119155、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:

Ⅱ—1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:56、説教、祈り、讃美歌:396、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

コロナ禍が依然として収束せず、いつまでこんな日が続くのかということで、たとえ感染したり、生計が立たなくなるようなことがなかったとしても、誰もが強いストレスをかかえていることでしょう。コロナうつという言葉も出来、暗い世の中で、教会も苦しみながら、それでも希望に満ちたメッセージを伝えたいと願っていますが、それは簡単なことではありません。聖書には、詩編91編の中で「暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、…あなたを襲うことはない」(詩編9167)という言葉があり、いつかこうした言葉を喜びをもって語れる日が来ることを待っているのですが、今日はその前段階として、荒れ野の旅の中で苦しむイスラエルの人々についてお話しします。これは私たちの今の生活に何らかのヒントを与えてくれるかもしれません。

 

それはエジプトを出発し、「乳と蜜の流れる地」(3:8)と言われたカナンの地へと旅を始めたばかりのイスラエルの人々に起こったことです。

イスラエルの人々はエジプトに430年住んでいました(出1240)。初め、エジプトの人々から歓迎されていたものの、やがて奴隷として働かされ、たいへんな虐待を受けました。人々の叫びは天に届き、神はモーセとアロンを遣わして彼らをエジプトから脱出させました。…苦しみのときはついに終わりました。しかし、彼らはすぐに約束の地に入ることは出来ませんでした。エジプトからカナンの地まで、直線距離で200キロもないのですが、荒れ野の旅は長く続き、約束の地に帰ることが出来たのは実に40年後となります。

神はイスラエルの民をカナンの地までの最短距離ではなく、わざわざシナイ半島の曲がりくねった道に導かれ、しかも何十年も一か所にとめおいたこともありました。荒れ野の40年という言葉があります。人々は40年もの間、シナイ半島を放浪し、さまざまな労苦を重ねなければなりませんでした。

神様はなぜイスラエルの民を40年もの時間をかけて導かれたのでしょう。そのヒントとなることが、今日の聖書の箇所に見えています。人々が不平を並べ立て、神様が乗り出して問題を解決なさったのです。人間の側から見るなら、荒れ野の中の旅であれもない、これもないと文句を言いたくなるのはわからないでもありません。けれども、神様の側から見たらどうでしょう。お前たちはエジプトでの苦しみから救われたわけがわかっているのか、ということにならないでしょうか。

私たちが出エジプトの話を読み進んでゆくうちに、この旅が40年もかかったことの意味がわかってきます。イスラエルの人々が進んでいった荒れ野は、彼らの信仰が増し加わるための学校と言って良いのです。人々はそこに40年も在籍しなければならなかったのです。

 

イスラエルの人々はエリムという素晴らしい場所、12の泉と70本のなつめやしのあるオアシスを出発して、シンの荒れ野に入りました。エジプトを出てから二か月目の15日ですが、人々が携えてきた道中の食糧もだんだん残り少なくなってきました。…今のシナイ半島は動物も植物も住めないまさに荒涼とした大地ですが、昔は水がもっとあって、動植物にとって今より暮らしやすかったと言われています。しかし、そうはいっても、見渡せば荒れ野ばかりです。人々は失望しました。そして不平不満を口に出しました。それも一部の人たちだけではありません。イスラエルの人々の共同体全体、つまりみんなが指導者モーセとアロンに向かって不平不満をぶつけたのです。

人々は言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」。

ここから「エジプトの肉鍋」という言葉が出来ました。イスラエルの人々は、奴隷として苦しみぬいた生活から解放され、新しい、自由な生活に向かって出発したはずです。それなのに、以前の不自由な生活をなつかしみ、奴隷のままでいた方が良かったと言う、こういう態度を「エジプトの肉鍋」と言うのです。

確かに荒れ野の中では豊かな食事は望めません。ごちそうに舌鼓を打つということは出来ません。しかし不満があるなら、まず生活においてすべての必要を満たして下さる神様を信じて祈るべきでした。「我らの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈ることは、決して神様にご迷惑をかけることではありません。けれども、人々はモーセとアロンに向かって不平を述べたてました。エジプトを出たのは間違いだったということを言ってのけました。16章8節でモーセは彼らの思いを見通してこう言っています。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」。人々のしたことは、神様への反逆でありました。

人々がつぶやいた「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」ですが、これはエジプトでは肉を好きなだけ食べられたということではないでしょう。奴隷の身分で貴重な肉を満足に食べることが出来たとはちょっと考えられません。パンを腹いっぱい食べられたというのは事実かもしれませんが、肉鍋については、その前に座っていただけで、そこから自由に取って食べられたことはないはずです。つまり人々は肉の香りはかいだけれども、味わうことはなく、パンを食べてもそこに肉を乗せることは出来なかったというのが本当のところのようです。

しかし人々は、エジプトでの生活がたいへん恵まれていたかのように思ってしまったのです。……現代でも、たとえば苛酷な軍隊生活を送った人が、あとから振り返って、あの時は良かったなあとなつかしむことがあります。…そこにあるのは人々の願望の反映です。イスラエルの人々は少ししか食べることが出来なかった肉を腹いっぱい食べられたかのように思ってしまったのです。

恵まれていたのは、奴隷のぬしであるエジプト人だけでした。昔の歴史家は「エジプト人は優美さに溺れ、労働をきらって、楽しみだけを好む国民である」(ヨセフス)と述べています。イスラエルの人々は運が良いときだけエジプト人のぜいたくな生活のおこぼれに与ることが出来たに過ぎなかったのです。

毎日、むちで打たれながら重労働に苦しみ、うめき、助けを求める叫びに神様がこたえて、彼らを助けだして、自由の身として下さったのではありませんか。今は苦しくてもこの先、約束の地に到着したら素晴らしい世界が待っています。それなのに、彼らは早くも今のこの生活に飽きてしまい、神様に不平不満をぶつけるようになったのです。

イスラエルの人々はなぜこれほどまでに恩知らずで情けない人たちなのでしょうか。…しかし、それは人間のありのままの姿です。私たちだって偉そうなことは言えません。

奴隷の民イスラエルを神様は救われました、ここに神様の、虐げられた人々を助けようとなさるみこころを見ることが出来ますが、この虐げられた人々が良い人間たちだと言うことは出来ません。イスラエルの人々は、もう何百年もエジプトで生きているうちに奴隷としての意識がしみついてしまったのですね。自分たちを圧迫したエジプト人への怒りはあっても、一方エジプト人に憧れてもいて、出来るならエジプト人に魂を売り渡したいとも思っていたことがわかります。せっかく解放されて自由への道を歩み始めたのに、少し困難に見舞われると、やはり奴隷のままでいた方が良かったと言う、ここには人間としての進歩も、自由人としての自覚もありません。

 

人々のこのような態度を神様はどう思われるか、神様は「ばかもん」と、怒りを発せられたとしておかしくないのです。しかし、ここではどうでしょう、忍耐して怒ることなく、むしろ恵みをもって答えておられます。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」と。

天からのパンとは何でしょう。13節から読みます。「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。」…モーセは言いました、15節、「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである」。イスラエルの人々はそれをマナと名づけました。31節には「それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」と書いてあります。

マナとはいったい何なのか、シナイ半島には今でもこれと似た自然現象が見られるという人がいます。ある種の虫が背の低い木の果実に穴を明け、その樹液を吸って、分泌物を排出するのです。暖かい日中には溶けてしまうもろいものですが、でんぷんや糖分が豊富で、土地の人々は、これを集めて一種のパンに焼き上げるのだそうです。…ただ、マナが自然現象として説明できたとしても、有り難味がなくなってしまうわけではありません。これは神様から人間に送られた自然の恵みなのです。このあと、約束の地に着くまでの40年、イスラエルの人々が飢えることはありませんでした。

 

イスラエルの民の出エジプトの出来事は紀元前13世紀に起こったと考えられています。ここで起こったことは奴隷の解放で、人類最初の自由への旅と言って良いのではないでしょうか。ここには虐げられ、ふみつけにされた人々の自由への道筋が描き出され、その後の人類の歴史を照らし続けています。出エジプトの精神は、たとえばアメリカでの黒人の人権を求める運動へとつながっていきます。またアジア・アフリカ・ラテンアメリカ各地での、植民地からの解放を求める歴史的潮流にもつながってきていますが、今日は私たち一人一人にとっての自由への歩みということを聖書から受け取っていただきたいと思います。

人が信仰の道に入るということは、まさにそれまでの束縛された生活から解放され、本当の自由への道を歩き出すことにほかなりません。……それまでの束縛された生活とは何でしょう。奴隷は今の日本ではいないことになってはいますが、しかし奴隷に近いひどい状況にある人はまだまだいるのです。そして、たとえ奴隷ではなくても、自分の中で自分はまったく自由だと思っていたとしても、強そうな人にさからうことが出来なかったり、心がお金に支配されていたり、悪い思いから離れられなかったり、人を憎む思いがいつまでも消えない、とすれば、やはりそれは自由ではなく、罪の奴隷だと言わなければなりません。

皆さんは罪に支配された人生ではいやだと思ったからこそ、教会に来ているのではないですか。しかし、こうして勇気をもって信仰生活に足を踏み入れてからも、目の前に荒涼たる荒れ野がどこまでも広がるのを見て、なんで自分はこんなところに来てしまったのだろうと思ってしまうことはあるのです。…神様を知らなかった気楽な昔の生活の方が良かった、そんな、後ろ髪を引かれる思いの人たちに対し、聖書は教えています。神の恵みは尽きることがないと。

イスラエルの人々を、神様がマナでもって40年間養ったというのは、不思議なことのように思えます。しかし、信仰を持つ人はこれが本当のことであると知っています。……例えば私は伝道者になることを決心したとき、安定した職場を捨てなればなりませんでした。このあとちゃんと暮していけるか、お嫁さんが来てくれるだろうかという心配がありましたが、今こうして生活出来ています。……信仰によって、新しい生活に向かって飛び出した人がそれまでにない困難にぶつかることは少なくありませんが、しかし神様はその人を見捨てず、最後まで支えて下さいます。こういうことはここにいる信仰歴の長い方ならよくご存じのことでしょう。

神様から与えられたマナは、格別おいしいものではなかったかもしれません。だから、ぜいたくな暮らしを求める人にとっては満足出来るものでなかったでしょうが、信者にとってはこれさえあれば他のものはいりません。地味ではあっても、かめばかむほど味が出るものです。

いまコロナ禍のために、社会全体が先の見通しが立たないような状況です。皆さんも人生の荒れ野の中をさまよっている思いになっているのではないかと思います。しかし、身勝手な望みをいだかない限り、神様は日ごとの糧を下さり、私たちの健康を守って下さいます。ですから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかということばかり思い悩まず、何よりもまず神様を第一とし、神様が望まれる通りの生活をすることを目指して下さい。神様が私たちを解放し、本当の意味での自由人にして下さいますように。

 

(祈り)

主なる神様。イスラエルの人々が不平を述べ立てたとき、モーセとアロンはどれほど忍耐したことでしょう。しかし、神様の忍耐はその比ではありません。神様に向かって不平を述べた人々のために、怒りをこらえて食べ物を準備して下さったそのみこころを思い、神様を賛美いたします。神様は人間のたび重なる反逆に耐えて、世界を導き、ついにイエス様によって救いのみむねを告げて下さいました。私たちが教会の礼拝に集められ、神様からの恵みをいただくことが出来るのも、ここにくるまでどれほど神様の忍耐があったことかと思います。私たちは神様を崇めない罪を犯してきました。隣人に善をなすべき機会があったのに、それを見過ごす罪を犯してきました。そうしてお互い不幸になったことが幾度もあったはずです。どうかこれ以上、神様に苦しい思いをおかけすることがありませんよう、神様からの日々の恵みをただただ感謝し、それを分かち合う思いをこの教会から外に広げてゆくことが出来ますようにと願います。神様、私たちばかりでなく、コロナ禍の中、生活上の困難や心身の病気とたたかう友をお助け下さい。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン。

 

(礼拝前の祈り)

 天の父なる神様。コロナ禍が長く続き、広島県もまん延防止等重点措置の延長ということになってしまいました。

私たちはいまこうしてホームページに音声を出して、各自の家で礼拝することをしています。これが本当の礼拝でないことはもちろん承知していますが、教会でウィルス感染を広げないためには他の方法が見つからないのです。教会にみんな集まっての礼拝が出来ないため、一人ひとりの心にぽっかり大きな穴が開いているかもしれません。神様、どうかそんな私たちを憐れみ、いまこの状況の中でも一人ひとりの信仰を守り、神様が祈りに応えられることでその信仰を強めて下さい。

長束教会の礼拝に来ていた人たちの中でもコロナ感染者が出ましたが、今は落ち着いて、良い方向に向かっていると聞いて、喜んでおります。どうか、その方たちとご家族の病とのたたかいに神様が力を添えて下さいますように。また、私たちは自分たちだけ病気から守られることを願うのでなく、この病気とたたかい、また人々の健康のために奉仕するすべての人々を同じところに立って、それぞれに与えられた務めを果たそうとする思いと知恵と力を与えて下さい。

 

 神様、今日与えられたみことばが私たちの上に生きて働くことを見せて下さい。とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。