隣人だけでなく敵も

 隣人だけでなく敵も  レビ191718、マタイ54348  2022.2.13

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119154、讃詠:545a、交読文:詩編941219、讃美歌:15、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:121、説教、祈り、讃美歌:493、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 

 私たちは先週の日曜日、「目には目を、歯には歯を」ということに対し、イエス様が新たに「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えられたことを学びましたが、これは一回の礼拝では説き明かすことはとうてい出来ないし、理解もできないし、身につかない話ではないかと思います。「悪人に手向かってはならない」というのは、「悪に手向かうな」とか、目の前で悪いことが行われている時、見て見ぬふりをすることでは決してありません。そういうことはイエス様が実際に行ったことから教えられるのですが、今日の話はその延長線上にあると思って下さい。

 

 イエス様はおっしゃいました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

 あなたがたも聞いているとおり、こう命じられている、しかし、わたしは言っておく、……こんなことは誰も言えるものではありません。大昔から伝えられた大切な掟のことですから。かりに私がこんなことを言ったらあんた何様のつもりかということになりますが、イエス様が言われたから、価値があるのです。もっともイエス様の言葉を聞いて、激怒した人もたくさんいたはずです。

 本日、一緒にお読みしましたレビ記1918節に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と書いてあります。イエス様はここから「隣人を愛し」と言われたのですが、一方「敵を憎め」という言葉は旧約聖書のどこを探しても出てきません。詩編の中には、神様が自分の敵に罰を下してくれるよう求める言葉がありますが(詩編109編など)、神様の方から「敵を憎め」と命じられたことはありません。神様はたとえば箴言2521節で「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ」と命じられます。…それではなぜ、「隣人を愛し」に続けて「敵を憎め」と言われるようになったかというと、ユダヤ人が、そのように言葉をふくらませてきた結果なのです。

ユダヤ人は「隣人を愛しなさい」という教えにおける「隣人」を自分の仲間とか同胞、同じ神を信じる者というように限定して考えました。これに当てはまらない人、たとえば異邦人、同じ神様を信じない外国人は敵なのです。そうなると、隣人を愛すれば愛するほど、敵を憎むようになっていくのはある意味、当然だと言えなくもありません。現在のユダヤ人はどうかわかりませんが、この時代のユダヤ人は、ローマ帝国の支配下にありながらきわめてプライドが高い人たちだったので、異邦人を自分たちより格下の人々だと見なしていました。…大きな魚に飲み込まれたことで有名な預言者のヨナは、神様が異邦人の都ニネベを滅ぼすことを期待したほどで神様に叱られています。そういう民族だったのです。

これは視点を変えて異邦人の側から見たら、ユダヤ人ってなんていやな奴らだろうと思ったことでしょうが、こういうことはなにもユダヤ人の専売特許ではないですね。自分たちとは違う人々を隣人と見なさず、心の中から排除し、敵と見なしてしまうことはたくさんあって、現代の日本も例外ではありません。皆さんも「あの国の人間は遅れている、民度が低い、劣等民族だ」というような言いぐさを聞いたことはありませんか。ここ最近はおさまったようですが、東京・新大久保のあたりで特定の民族に対して「殺せ、殺せ」と叫ぶヘイトスピーチも起こっています。

またこれとは別に、信じる神様や思想信条が違うことで対立がエスカレートして、そのあまり殺し合いになることがあります。最近もイスラム教徒の中の一部過激派によるテロがよく報道されますが、残念ながらキリスト教徒が行ったテロもあるのです。…今日は、教会が敵を憎むことをあおっていないかということも検討しようと思います。

 

イエス様は隣人を愛することをたびたび教えられました。マタイ福音書2234節以下、これはイエス様が十字架につけられる直前、神殿の境内で教えられていた時のことですが、律法の専門家が「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と尋ねた時に、イエス様は第一の重要な掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、そして第二の重要な掟として「隣人を自分のように愛しなさい」をあげておられます。…ただ、隣人とは誰でしょう、どの範囲の人々を指すのでしょうか。

私たちは隣人というのは、家族や兄弟姉妹、友人、同じ地域の人たちなど、ごく身近に接する人たちであると思ます。もちろん家族でもこの人とはうまくやれないという人がいたり、お隣さんがとんでもない迷惑な人でという場合がありますが、めったなことでは敵にはならないでしょう。ただすべての隣人ということで考えた時、それだけではおさまりません。

旧約聖書で言っている隣人の範囲もなかなか込み入っていて、同胞つまりイスラエルの民全体を指すことがあります。そこで、隣人の範囲を広げてゆこうとすると、だんだん手ごわい敵が多くなってゆくのです。…例えば、私たちが広島市民すべてを隣人だと仮定しようとしても、その中に、この人だけは許せないという敵がひそんでいるかもしれません。もしも日本人すべてを隣人と仮定したら、ここに住む外国人はどうなのかとなります。さらに世界を見渡した時、この国の人々は隣人で仲良くできるけれども、この国の人々は敵でとうてい仲良く出来ないと思うようなことが起きてくるのです。

私たちにとって、いったい外国人というのは隣人なのでしょうか、それとも敵なのでしょうか。…国と国が戦争に向かっていくプロセスを描いた「戦争プロパガンダ10の法則」という本が参考になるので、少し紹介いたします。

この本によれば、敵同士となった国と国が戦争を始めるまで、おおよそ10の段階を経るそうです。順番に言ってみます。…ステップ1「われわれは戦争をしたくない」、ステップ2「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」、ステップ3「敵の指導者は悪魔のような人間だ」、ステップ4「われわれは領土や覇権のためにではなく、偉大な使命のために戦う」、ステップ5「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」、ステップ6「「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」、ステップ7「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」、ステップ8「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」、ステップ9「われわれの大義は神聖なものである」、ステップ10「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」。

ここで言われていることが全部本当かどうかは慎重に判断すべきだと思いますが、皆さんもその中に思い当たることがあるのではないでしょうか。私たちは正しい、しかし相手に非がある、相手は悪魔のような人間だ、戦うべきだ、戦わなくてはならない、これに反対する者は裏切り者だ、こういう理屈によって多くの人々が戦争へと引っ張られていくのです。実際、マスコミなどで、あの国は恐ろしい国だと繰り返し報道されると、あの国は悪魔だ、そこの人々も恐ろしい人たちだ、日本を守るためにはあの国と戦争しなければならない、とだんだんエスカレートしていくわけですね。…こういうことはもちろん国対国ばかりではなく、会社と会社、グループとグループなどもっと小さなところでも起こります。

 

そこで改めてイエス様がなさったことを取り上げたいのですが、イエス様が律法の専門家から「わたしの隣人とはだれですか」と質問されたことがあります、その時、何と答えられたか、皆さんはご存じでしょうか。そうです、善いサマリア人の話をされたのです。追いはぎにあって半殺しになったユダヤ人の旅人が地面に横たわっていました。祭司とレビ人は見てみぬふりをして通りすぎてしまいました。この人を助けたのは、ユダヤ人とはふだん犬猿の仲であったサマリア人だったのです。…イエス様が「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねると、律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えるしかありませんでした。そこでイエス様は言われました、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ102537)。

半殺しになったユダヤ人を助けてくれたのがサマリア人だったというのは、この時代の人々にとって信じられないようなことでした。これは現代に置きかえると、日本人がどこかの国でたいへんな難儀にあった時、助けてくれたのが北朝鮮の人だったようなことです。…あるいはこういうケースもあるでしょう。自分が何かの災難にあって生きるか死ぬかの瀬戸際の時に救ってくれたのがエホバの証人だったり、オウム真理教の人だったり、ということです。国と国、民族と民族が対立してお互い相手を敵だとみなすことはよく起こるわけです。また私たちクリスチャンは信仰のことでエホバの証人やオウム真理教と妥協することは絶対にできません。しかし、そうした違いでさえも問題になりません。それまで敵だと思っていた人が隣人になることがあるのです。神様は敵同士を隣人にすることがお出来になるのです。

その意味でイエス様の言葉、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」は、私たちが思ってもみなかった深遠な意味を持っています。これは太陽の運行や降雨ということをたとえに出して、自然現象から人間社会の中で起こることまですべてにわたる神様の恵みを言っておられるのだと思われます。

私たちはふつう、神様は善なるお方で正義の味方だと考えています。悪人をこらしめるのが当然のお方だと思っています。ならば神様はなぜ善人ばかりでなく悪人にも恵みを施されるのでしょうか。…そこで私たちは考えます。神様は悪人をも愛し、善い人間になるよう導いておられるのだと。イエス様はそのために尊い命を捧げられた。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というのは、私たちも神様にならい、自分に良くしてくれる隣人ばかりでなく、自分の敵である憎たらしい人たちも愛し、そのために祈りましょうということだと。…これには傾聴すべきところがあるのですが、全部が全部正しいとは言えません。

イエス様が地上においでになってから数百年の間、キリスト教会は苦しい、迫害の時期を過ごしました。イエス様を信じることが禁じられ、クリスチャンだとわかったら殺されることもあったのです。苦境にある人々に対し、敵を憎んではいけない、自分を苦しめている人を愛し、その人のために祈りなさい、と教えられたことはたいへん大きな意義を持っています。…私たちにしても、他の人からいじめられ、理不尽な扱いを受けたら、この人だけは許せない、死んでしまえと思うことがあるわけですが、でも、そこで暴発してしまってはいけません。つらい状況の中にあっても、イエス様が古今東西すべての人のために十字架の苦しみに耐えたことを思い起こし、その人を愛し、その人のために祈らなければなりません。

しかし、ここで忘れていることがあります。…他の人から理不尽な扱いを受けてつらい、苦しいということはわかります。でも、あなた自身がほかの人を苦しめていなかったかどうか、自分の胸に手を当てて考えてみて下さい。…自分はみんなからひどい目にあわされてきたという人でも、不要な言葉や行いでほかの人を傷つけてしまったことが一度もないと言うことは出来ないでしょう。

はたから見てどんなに立派な人であっても、そのような意味で何かしら悪いことをしているものです。だから自分は善人だ、悪人の側には入らないというような思い込みは捨てて下さい。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」、私たちはここで悪人の側、正しくない者の側にいるのかもしれません。それでもかろうじて善人の側、正しい者の側に入っているとしたら、それは神様の憐れみによるものでしかないのです。

 

イエス様は今日のお話の最後で「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました。ここは昔から解釈が難しいところです。世界のどこにも完全な人はいないからです、イエス様以外。そして、誰も完全な人になることは出来ないのです。だとすれば、どうして完全な者となりなさいと命じられたのでしょう。

 すっきりした答えは出てこないのですが、おそらくこのようなことでしょう。善人も悪人も恵みをもって導く神様こそ完全なお方です。神様はイエス様を遣わされ、イエス様を通し、この世に完全な愛を示して下さいました。イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。これこそ完全な愛です。誰もが神様とイエス様にみならうことで、完全な者になることは出来なくても、少しずつ完全な者に近づいてゆくのです。

 

(祈り)

恵み深い神様。あなたはそれぞれ別なところに生を受けた私たちがイエス・キリストに出会い、広島長束教会に集まることをゆるして下さいました。十字架にあげられつつ敵をゆるしたこの方の、愛の恵みの奇跡の中に私たちの魂が生かされています。イエス様がなさったことがあるからこそ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ということに向かって、一歩ずつでも歩んでいけるはずです。そのようにお導き下さい。

 

私たちは信仰が浅いので、みことばが教える通りに生きることに困難を覚え、いつもいい加減な解決に走ってしまうものです。みことばを自分の都合で薄めていけば、それはみことばでなくなってしまいます。しかし、みことばを文字通り守ろうとしたら、今度は困難な決断をしなければなりません。人生どちらを選ぶべきか、困難な決断をしなければならなくなった時、私たちを支え、もっとも賢い決定をすることが出来ますように。そのことを通して私たちの人生が神様の栄光をうつしだすことが出来ますようにと願います。主イエス・キリストのみ名を通して、この祈りをお捧げいたします。アーメン。