復讐に関する教え

  復讐に関する教え 出エジプト記212225、マタイ53842  2022.2.6

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119153、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:9、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:85、説教、祈り、讃美歌:267、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

私たちは今日「悪人に手向かってはならない」を、来週「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」を、連続して読むことにしていますが、イエス・キリストの教えの中でこれほど難しい命令はないでしょう。

 ある人々は、こうしたことを実際に行うことは出来ない、と考えます。自分を苦しめている人間に対して、その程度がひどければひどいだけどうしても許せないと思うようになるのが普通です。どうしてその人への復讐を放棄したり、さらにその人を愛したり、その人のために祈ったりすることが出来るでしょう。イエス様の教えは現実には不可能だと。…中には、キリスト教会自体、この教えに従っていないではないかと言う人もいます。

 また別のある人々は、こういう教えがあるから、キリスト教は弱々しい、臆病者のための宗教にすぎないと見なします。やられたら、やりかえせ!こうした教えは現実と切り結ぶ力を持たないと判断するのです。

 こうした、さまざまな人間の思惑をイエス様が承知していないはずはありません。ならば、なぜそのように言われたのでしょうか。イエス様はここで、ご自分を信じる者をどこに導いてゆこうとされているのでしょうか。

 

 まず、主イエスが人間に復讐を禁じた教えから、見ることにしましょう。主イエスは38節で「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」と言われます。…『目には目を、歯には歯を』と言う言葉は旧約聖書の中で3か所、出エジプト記2124節、レビ記2420節、申命記1921節に出て来ますが、このうち出エジプト記2124節をみると「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」と書いてあります。読んで字のごとく、人が他の人を殺したり傷つけたりしたとき、それと同じことを自分の上に引き受けなければならないということです。この掟は、なにもイスラエル民族で初めて始まったことではなく、遠く紀元前18世紀のハンムラビ法典にまでさかのぼることが出来る、古代社会での共通の掟でありました。

 皆さんの中には「目には目を、歯には歯を」という言葉に怖いイメージを持たれる方がおられるかもしれませんが、必ずしもそうではないのです。…創世記4章23節と24節を見るとレメクという悪人がこう言いはなっています。「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」。

この人は自分に傷を負わせた者に77倍の復讐をするというのです。こうしたことに比べたら、相手に、自分が受けたと同じだけの報復をするのがいかに理性的なことかがわかるというものです。

 先ほどの出エジプト記には「命には命」と書かれ、さらにレビ記2417節には「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる」と書かれています。

今日、死刑制度を続けるか廃止するかが世界的に問題になっているので、この箇所から神様が死刑制度を認めていると判断する人がいるかもしれません。でも、そこに行く前にこうした教えの背景について知っておいた方が良いでしょう。この「目には目を、歯には歯を、命には命を」という律法には、もともと神様のものである人を勝手に傷つけたり殺したりした場合、その人は神様の財産に損害を与えたことになるので、神様ご自身が賠償を要求されるということが根底にあるのです。つまり、すべての命ある者は神様のものであるからです。そこで、神様のものである人の命を勝手に奪うことは、神様への反抗になるということを人間に知らせようとしているのです。そこには人と人とが争い、殺しあうことを止めさせ、人が互いに傷つけあって自滅していくことから守りたいという、神様のご意思と愛があるのです。

 ひどいことをされた人が相手に無制限な報復をしようとすると、多くの場合、報復は報復を呼び、血で血を洗う惨劇になってしまいます。そのような最悪の事態に陥らないよう歯止めをかけるために、「目には目を、歯には歯を」という掟が定められたと考えられます。その意味では、これはもともと非常に合理的な掟であったのです。

とはいえ、それでも「目には目を、歯には歯を」という言葉が、何の制約もなくまかり通るのは危険です。たとえば昔の日本では仇討ちということが重んじられました。親や主君のかたきを討つために一生をかけるというのは、何というエネルギーの無駄遣いだと思うのですがどうでしょう。今日の世界でも、人と人との復讐の連鎖を避けるために法の裁きがあり、民族と民族、国と国などの対立が戦争にまでなってしまわないよう、話し合いや外交努力による解決が求められているのです。

 

 こうしたことを主イエスはすべてご存じなのでしょう。「目には目を、歯には歯を」という言葉に対し、「しかし、わたしは言っておく」と前置きして、「悪人に手向かってはならない」という戒めを語られました。イエス様は、昔から伝えられてきた律法を新しく解釈する権威を持ったお方として語られたのです。それは主イエスがこれまで昔の律法の教えについて語られた時と同様、「目には目を、歯には歯を」の掟を全面否定するということではなく、それを質的に乗り越えるものとしてお示しになったのです。

 ただ、そうではあっても「悪人に手向かってはならない」とは、素直に受け取ることがたいへん難しい教えです。これは、そこに悪人がいてやりたいほうだいをやっていても、何もしないということなのでしょうか。たとえば電車の中で周囲の迷惑も考えずに騒いでいる人がいたり、老人や女性がいじめられていたり、さらにもっとひどいことが行われているということを考えて下さい。最近も、電車の中で煙草を吸っていた人を注意した高校生が逆に暴行を受けたことが報道されました。その場所にいた人たちは何も言えませんでした。悪人に手向かうことをしなくなったクリスチャンは、面倒なことが起こっても警察など強い者に任せて、自分だけの救いを求めて祈っていればそれで良いというのでしょうか。そこから出てくるのは、目の前に不正があっても我関せずを決め込む人でしかありません。

 そこで信仰者こそ注意しなくてはならないことは、主イエスは「悪人に手向かってはならない」と言っておられるのであって、決して「悪に手向かうな」とか、悪に対して無抵抗でいなさいとか言っておられるのではないということです。…そのことは、何より主イエス御自身が行われたことがはっきり示しています。へブル書12章4節に「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」という言葉があります。イエス様のご生涯は、最初から最後まで、罪とのたたかい、悪とのたたかい、死とのたたかいでありました。イエス様はそれこそ血を流すまでたたかわれたのです。従って、イエス様が「悪人に手向かってはならない」と言われるとき、それはイエス様が弱いからではありませんし、社会の不正を見過ごしたまま魂の救いだけに専念しなさいと言うことでもありません。むしろ、それだけが悪とたたかうための方法だったからです。

主イエスが「悪人に手向かってはならない」ことの例として挙げられたことの第一が「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ということです。もしも悪に対して立ち向かうことがなければ、頬を打たれることもないのではないでしょうか。

右の頬を打たれるというのは、相手が左利きでない限り、手の平でなく手の甲で打たれることを意味します。この時代、これは最大の侮辱を意味していたそうです。侮辱に耐えるのです。

イエス様のこの教えを私はうまく語ることが出来ません。偉そうなことを言えるほど、イエス様につき従っていったかと言われたら何も言えなくなってしまうのですが。ただこうした教えが歴史を動かしてきたことは知って下さい。

主イエスのこうした言葉に生かされてきた人はたくさんいるのです。山上の説教を愛読していたマハトマ・ガンジーは、非暴力でもってインドの独立運動をたたかいぬきました。これは暴力の行使が当たり前だった世界の歴史の中でまさに画期的な出来事でした。インドを占領したイギリス人に対し、民衆が抗議行動を起こすのですが、その時に暴力を一切用いません。「ガンジー」という映画で再現されていますが、イギリスが支配している製塩所に人々が押し寄せます。その時、殴られても殴られても殴りかえさず、立ち上がってゆくありさまで、強烈な印象を与えています。

 主イエスが語られたこの他の事例についても、悪とたたかうという基本的立場から見なければなりません。主イエスは善によって悪に勝つことを教えているのであって、人の言いなりになるお人好しになることを勧めているのではありません。「求める者には与えなさい」という教えを見てゆきましょう。世の中には自分で努力しないで人に頼ってばかりの人もいないわけではありませんが、これはその人の要求通りにすべきだということではないのです。

 主イエスの弟子のヨハネとペトロがエルサレムの神殿で物乞いから施しを求められたことがありました(使徒言行録3章)。その時、二人は求められたまま施しをしたか、そうではないわけです。ペテロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」、そう言って、その人に救いを与えました(使徒36)。

私たちが持っているものを他の人に与えるのです。それはお金のときもあるし、厳しい忠告であるときもあるし、信仰への勧めであるときもあります。相手の魂が最も必要としているものを与える、それが主イエスのみこころに従うことであり、それが次の「敵を愛せ」と言う教えにつながってゆくのです。

 

主イエスは「悪人に手向かってはならない」と言われましたが、皆さんは、そもそも悪人とは誰のことだと考えておられますか。多くの人が自分は善の側にいるとして、自分に敵対する人を悪人だと考えています。しかし、誰もがそのように自分を正当化したら、本当の悪人は誰なのかわからなくなってしまいますね。…主イエスはそのような意味で悪人を言っているのではありません。 

イエス様が言っている悪人とは、神様に反抗し、他の人を神様のものだと思わず、自分のもののように見なしている人たちです。…だとすれば、イエス様を十字架につけろ、十字架につけろと言って、殺してしまった人はみな悪人です。人間の罪がイエス様を十字架につけました。時代と場所を超えて、私たちも悪人の側にいるのです。

ただ法律違反をしていないということだけでは不十分です。神に逆らう人すべてが悪人です。これに対し、イエス様がどのようにたたかったかということがいちばん重要であり、私たちの目指すべきところとなるのです。

 他の人から理不尽な扱いを受けた時、怒りを爆発させたいのはよくわかりますが、そんなことをしても問題が良い方向に行くとはとても思えません、そうではなく、忍耐して、苦しみの中でもそこで起こっている事態を愛をもって受け止める時、その時、私たちはわずかでもイエス様がなさった偉大な忍耐を指し示すことができます。目の前の、神様を忘れた人たちに、自分自身の罪を私たちの忍耐を通して見せることができるのです。その時、その人は自分自身が罪の中にいる姿を直視させられ、人間として新しい段階に向かうことになるでしょう。

 

(祈り)

天の父なる神様。あなたは私たちが救い主イエス・キリストに出会うことをゆるして下さいました。十字架にあげられつつ敵をゆるしたイエス様の、愛の恵みの奇跡の中で私たちの魂を生かして下さることを感謝いたします。私たちはまことに信仰が浅く、この人だけは許せないと思って、神様を怒らせることがたいへん多くあります。しかし、これで良いと思っているわけではありません。どうぞ主の恵みゆえに、私たちを人を愛することの自由と喜びに導いて下さい。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。