救いの泉

救いの泉   イザヤ1216、ヨハネ73739  2022.1.30

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119135、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:83、説教、祈り、讃美歌:301、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:540、祝福と派遣、後奏

 

 コロナ禍がますます危機的な状況となり、社会全体が不安に怯えている中、教会も教会のいのちと言うべき対面での礼拝が出来ず、出口が見えない状況が続いています。世の中にはこの感染症が収束するかどうかが生きるか死ぬかの境目というところになっている人たちがいて、その人たちに比べたら私たちはまだまだ恵まれている方ですが、それでも心が折れそうになっている人が多いのではないかと思います。今のこの状態がいつまで続くかわからないというのが、まことにつらいです。もしも誰かが、この感染症に終わりがなく、コロナ以前の生活に2度と戻れないように思いこんでしまったら、その人は心を病んでしまうかもしれない、そのような重大な危機がないとは言えないのです。いまこの時期にこそ、誰もが忍耐強く苦しみに耐え、互いに励ましあって前に進むことが求められています。間違っても、鬱屈した思いを自分より弱い人にぶつけて発散するようなことがあってはなりません。

 

 今日取り上げたイザヤ書の箇所には感染症は全く出て来ません。しかし、ここには、感染症にまさるとも劣らないイスラエル民族の苦難が反映されています。この預言が発せられた正確な年代ははっきりしませんが、おそらく紀元前8世紀の終わり頃だと考えられます。それはイスラエル民族が超大国アッシリアの脅威にさらされていた時期で、紀元前722年に北のイスラエル王国が滅亡、残されたユダ王国の運命も風前のともしびになっていました。そのことは、たいへんに厳しい、未来に望みを持てない時代にこの預言が発せられたということになるのですが、皆さんは変だと思われませんか。…そうです。そんな暗い時代に語られた神の言葉がどうしてこんなに明るいのか、ということなのです。

 イザヤ書をこれまで読んでこられた方ならおわかりの通り、預言者イザヤは同胞であるイスラエルの民にたいへん厳しい言葉を取り次いでいました。例えば5章では、神様がイスラエルの民をぶどうに例えて、「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」と言っておられます。神様がやれることはすべてやったのに、お前たちはどうして売り物にならん品物になってしまったのかということですね。そのため神様は「わたしはこれを見捨てる」と言われ、とうとうそれが現実になってしまいました。本当の神様に背いて偽りの神々になびき、幾度もなされた警告に耳を傾けず、どこまでも堕ちてゆく人々を見て怒った神様が、外国の軍隊をイスラエルの民に差し向けたというのがこの時の状況です。イスラエル王国は滅び、残されたユダ王国はその後ほそぼそと生き続けますが、その後、紀元前586年にバビロニアによってついに滅ぼされてしまうのです。自分の国が滅びるというのは大変なことで、その悲惨なありさまは想像がつきません。国が滅び、信仰の中心であった神殿は破壊されてしまいます。人々はみな虜になってバビロンに連れてゆかれることになります。哀歌にはその時の嘆きが記録されています、「あなたは全くわれわれを捨てられたのですか。はなはだしく怒っていられるのですか」(哀歌522口語訳)。

 イザヤはこのようなイスラエル民族の暗たんたる未来について神様から示されていたし、語ってもきました。しかし、その彼に神様から届けられたもう一つのメッセージがこれだったのです。…それは、このあと訪れる苦しみが大したことがないということでは決してありません。イスラエルの民全体が神のまことに厳しい罰を受けるという定めはなんら変更されません。それは覚悟しなければならないのですが、それを突き抜けたところに光が見えているのです。

 

 12章1節、「その日には、あなたは言うであろう。『主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。」  

その日とはいつのことでしょうか。…直接的には、自分たちの罪のために神様から罰を受け、苦しんでいた人たちが待ち望んだ解放の日です。国土が蹂躙され、捕囚となり、恐れと悲しみに打ちひしがれていた人たちに対し神様が怒りを解き、慰めて下さる、バビロン捕囚の時代がついに終わってふるさとに帰還できる日のことです。…神様が怒りを解き、慰めて下さった結果、人々は神様に対し「信頼して、恐れない」と言うことができ、「主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」と賛美するようになると言うのです。なぜ神様は怒りを解いて下さるのか、それは神様に敵対し、神様の怒りと裁きの下にあった罪人(つみびと)が神様と和解したからです。そこには罪を赦されることがなくてはなりません。このことを難しい言葉で贖いと言います。

 

イザヤはこの時、神様によって救われた人々の喜びを告げています。12章全部がそうなのですが、3節をご覧下さい。「あなたがたは喜びのうちに、救いの泉から水を飲む。」

このみ言葉はその後、ユダヤ教の三大祭りの一つである仮庵の祭りで歌われるようになりました。イスラエルの民が奴隷の地エジプトから出て40年にわたる荒れ野の旅をしていた間、人々は決まった家に定住することが出来ないので、粗末な仮の宿で暮らしていたわけですね。その時代をしのび、神様の守りと恵みに感謝するのが仮庵の祭りです。

  昔エルサレムの都に神殿が建っていたころ、仮庵の祭りには何千人もの人が集まってきました。…まずゼカリヤ書148節が朗読されます、「その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける」。そのあと巡礼者の行列はシロアムの池に向かいます。その場所から祭司が水を汲んで、これを神殿の祭壇に注ぐのですが、神殿に向かう間、人々はこのみ言葉「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」を歌ったのです。ただ歌っただけではありません。跳んだりはねたりして喜びをからだいっぱいに表しながら合唱したのです。そのところからこんな言葉も生まれました、「水汲み所のにぎわいを見ずに喜びを語ることはできない。」

 フォークダンスで「マイムマイム」というのがあって、学校で習った人がいると思いますが、これはこの仮庵の祭りの時の踊りが元になっています。「マイムマイム」の歌詞を調べてみました。マイムとは水のことなのです。だから、「喜びをもって水を汲め。救いの泉から。水、水、水、水、水、嬉しいな」となりまして、まさにイザヤ書と同じなのです。

 中近東には乾燥した大地が広がっていますから、この地に住む人々が水に対して抱く思いは日本人の比ではありません。救いの泉から水を汲むことがどれほど嬉しい、喜ばしいことだったか想像してみて下さい。

仮庵の祭りの中で「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を飲む」と歌ったことは、荒れ野の旅と重なっているわけですね。民数記(20章)には、イスラエルの民に飲み水がなくなってしまった時、神様が岩を裂いて水を与えて下さった話が記録されています。神様がいのちの水を与えて下さったのです。…いまエルサレムに神殿はありませんが、仮庵の祭りは形を変えて続けられています。

 イエス・キリストが、この仮庵の祭りの日にエルサレムで語られたことがヨハネ福音書に書いてあります。7章37節、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」

 これはもちろん、イエス様が給水センターになったということではありません。39節にこう書いてあるからです、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降ってなかったからである。」

 イエス様を通して与えられ、流れ出るようになる生きた水とは聖霊を指しています。聖霊はイエス様の十字架の死と復活、昇天ののち、ペンテコステの日にイエス様を信じる者たちに与えられました。ということは、イエス様はここでご自分を信じる人たちがそのあとで受ける聖霊の恵みについて語られたことになります。

 このようにして見てゆくと、聖書が水について語っていることは、一挙にイエス様へとつながってゆくということがわかります。…当たり前のことですが、水がなければ人は生きていくことが出来ません。その水が神様がおられないところで自然に湧き出るようなことはありません。水は神様が与えて下さるのですから、人々はそのことに感謝して喜び祝ったのです。もっとも、それは神様から頂く恵みの全部ではありません。水を飲んでのどの渇きをいやしても、いずれまたのどが渇きます。しかし、イエス様を通して与えられる生きた水を飲む人、すなわち聖霊を注がれる人は決して渇くことがありません。この水はイエス様が尊い命をささげたことによって、つまり十字架の死を引き受けて下さったことによって初めて完成した救いです。この水、聖霊は私たちの喉の渇きをいやし、健康な体を保つことを超えて、私たちの心の中の飢え渇きを解決して下さるのです。

 

 預言者イザヤが「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」と告げた時、それは単に水を飲むことを超え、イエス・キリストが与えて下さる救いまで指し示していたのです。ここから私たちも多くのことを教えられます。

 今の私たちの生活の中で水不足というのはちょっと考えにくいのですが、しかし、お金が足りないことはひんぱんに起こります。金があればあるだけ、何でも好きなものが買え、幸せになれる、と多くの人が信じこんでいます。でもそれは本当ではありません。かりに宝くじが当たって何億円も手に入り、自分の欲望がみんな満たされたとしても、自分の心が本当に満たされるかというとそうではありません。一時的に満たされても、じきにまた渇いてしまうのです。まして人間の命には限りがあります。いずれなくなってしまうものによって、自分の心を満たすことは出来ません。人の心を本当に満たすのは、すべて神様から来るものなのです。

 ここで一つ問題があります。イザヤが預言した時、イスラエルの人々は外敵の脅威が迫っていて、国が滅びるかもしれないという不安と絶望の中にいたのですが、その人たちにとって、将来素晴らしい日が来るということははたして心の慰めになったのでしょうか。

 4節は言います。「その日には、あなたたちは言うであろう。『主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌を歌え。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。シオンに住む者よ、叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方』」。私が問いたいのは、その日が来たら、ここに書いてあるまことに大きな喜びがあることはわかるのですが、では苦しみのさ中にあるいまの日々の中で、神様のこの約束の言葉が心を満たし、慰めになったのかどうかということです。皆さんはどう思われますか。

 確実に慰めになったのだというのがその答えです。その時が苦しいだけでなく、さらに前途に何の光も見えなければ、人は絶望に押しつぶされるしかありません。しかしその先に光が示される、それも神様によって、ということほど素晴らしいことはないのです。

人は喜びの日がまだ来ていなくても、神様を賛美して生きることが出来ます。聖書の中にいくつもそうした例が出て来ます。詩編にある多くの詩がその証拠です。多くの人が苦しみのまさにそのただ中で、神様への賛美の声を歌っています。神様は喜びの中にいる人の賛美の声も大事にしますが、苦しみの中にある人の賛美の声をより大切に思われ、その声を導き、苦しみを克服する道を示し、信仰に生きる喜びを与えて下さいます。こうして人は、いつまで続くかわからない苦しみの中にあっても、心を確かに保ち、くずれないで、しっかり生きていくことが出来るのです。

 新型コロナウィルスの脅威がこれだけ高まっている今、社会のあちこちで破れとほころびが見えています。自暴自棄になった人が犯罪に走ることも起きています。しかし、いつになるかはわかりませんが、世界を覆っていた霧がはれ、悪性ウィルスからの解放の日を迎えることが出来るにちがいありません。神様がおられるのですから、苦しみは喜びに変えられますし、それを信じることで今の毎日の生活の中で希望が与えられます。

コロナ禍のそもそもの原因は、人間が自然を収奪した結果としての自然からの逆襲であった可能性が高くなってきました。人間の罪がこの災厄を引き起こしたのだとするなら、この先、その罪を克服する全く新しい世界が出現しなければなりませんし、それはまことの神様の導き以外には考えられません。ですから、今この苦しい時にあっても神様を賛美し、救いの泉であるイエス様を主と仰ぎつつ前に向かって進んでいきましょう。

 

(祈り)

 私たちにまことの道を指し示して下さる天の父なる神様。どうか私たちを憐み、私たちを神様から遠ざけようとするあらゆる力から守って下さい。いまの私たちには神様に対して恐れがありますが、もしも方向転換をして、神様を信頼して恐れないことが自分の生き方となったなら、どんなに素晴らしいことでしょう。私たちが喜びの内に救いの泉であるイエス・キリストを仰ぎ、心の底から「主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」と唱えることの出来る信仰をお与え下さい。こうしてコロナによる閉塞状況の中でも、自分を袋小路に追いやることなく、神様から与えられる希望によって強く生きるものとして下さい。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。