目を覚まして祈る

目を覚まして祈る サムエル上122223a、エフェソ61820  2022.1.23

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119134、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:15、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:24、説教、祈り、讃美歌:315、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 広島長束教会の礼拝でエフェソの信徒への手紙を読み始めたのが去年の1月22日、ちょうど一年をかけて終盤のところに来ています。前回読んだ6章10節で作者パウロは、「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と呼びかけています。悪魔の策略に対抗して立つことができるようにするためです。

 悪魔とは神様に対抗する霊的な力です。悪魔は自分が支配していると思っている世の中に異質なものが入ってくることが許せません。イエス様が地上に現れた時、悪魔は3度にわたる誘惑を通してイエス様を陥落させようとして失敗しました。そこでイエス様を十字架に追いやって滅ぼそうとしたのです。ところが悪魔が全く想定していなかったことが起こりました。イエス様は死ぬことによって死に打ち勝ったのです。悪魔にとってこれは腰を抜かしてしまう、驚くべき出来事で、この事態を前にして悪魔はほうほうの態で退散せざるをえませんでした。

 皆さんの中には、悪魔の力はとてつもなく大きいという恐怖の思いがあるかもしれません。しかし、長い目で見て下さい。それは錯覚です。イエス様は悪魔の首根っこを押さえておられます。だから悪魔の敗北は決定しているのですが、悪魔は最後の悪あがきで世界中どこにでも出現し、今この瞬間にも少しでも多くの人を神様から遠ざけようとしているのです。…いま悪魔にとってもっとも目ざわりなのは何でしょう。それは教会とそこの信者たちです。だから、悪魔はこれを何とかしてつぶしてしまおうと、いつも手ぐすねひいているのです。いわば神様と悪魔の主戦場が教会ですから、私たちとしても警戒をゆるめてはいけないのです。

 パウロは「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい」と教えます。そうして、「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。…信仰を盾として取りなさい。…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と言うのです。…その中身は前回の礼拝説教でお話ししました。ただし、これらが全部そろってもまだ足りないことがあります。それが「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」ということ、すなわち「祈り」なのです。

 

 祈りが大切だということは、教会に来る人なら誰でも知っています。でも、それが自分の信仰生活において身についているかというと、私自身を含め、はなはだ心もとないところがあると思います。今日はパウロの言葉の中から、特に「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」というところに焦点を宛ててみましょう。

 私たちは祈る時、目を閉じています。これは目に映るものが気になって祈りに集中できなくなることを避けるためです。でも時には、祈っているうちに目がうつらうつらとなってしまうことがあるかもしれません。ただ、こんなことは私たちだけに限りません。有名なのは、イエス様がゲツセマネの園で汗が血のしたたるように地面に落ちたと言われる祈りをしていた時の弟子たちです。イエス様がいったん戻ってみるとみんな眠りこんでいました。イエス様は「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われましたが、それでもまた眠ってしまったのです。

 イエス様も、パウロも、目を覚まして祈れと教えています。目を覚ましてと言っても、これは目を開けていなさいということではもちろんありません。居眠りをしないだけでなく、まぶたは閉じていても遠くまで見ていることが大事です。そのために、霊的な目で見ることがなければなりません。悪魔はどこに出没するかわかりません。だから、祈るときに霊的な目でもって真剣に見ることがないと、すぐに悪魔につけいるすきを与えてしまうのです。

 

 祈りについて、私たちはわかっているようでわかっていないので、まずそのことからお話ししましょう。祈りはキリスト者だけがするのではありません。当然のことですが、人それぞれ自分が信じている神様に祈っていて、その中に人間が造った像を拝んでいる人がいます。聖書がこのような信仰をきびしく戒めているのはご存じの通りで、偶像について「手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」などと書いています(詩編1157)。神としての実体がないものを拝むというのは、言ってみればひとりごとのようなことで、自分に向かってお祈りしているようなものです。そこでキリスト者は、自分たちが拝んでいるのはあんな偶像ではない、今も生きておられる神様なのだと自負しているのですが、しかしひとりごとのような祈りをしている人がいないわけではありません。

私たちはほかの人の祈りの言葉についてあれこれ批判するのは慎重にすべきです。あなたの祈りはここが問題だなんてことを教会で口に出すことはほとんどないのですが、神学校にいた時、こういう話を聞きました。たぶん日本キリスト教団の教会でしょう、それがどういう集会だったのかわかりませんが、ある時、一人の婦人がみんなの中で祈りました。いろいろなことを口に出した、比較的長い祈りだったのでしょう。その場にひとりの子どもがいて、ほめられたことではありません、婦人の祈りが終わったあと、大きな声で「うそばっかり」と言ったのです。…この婦人が受けたショックは相当なものでした。…ただあとになってから、あの時ああ言われたことは自分にとって良かったです、あれで自分の信仰生活を立て直すことが出来ました、ということを言ったそうです。 子どもに「うそばっかり」と言われた祈りは、言葉数が多い祈り、自分を良く見せるための祈り、ひとりごとに近い祈りで、真剣に神様と向き合う祈りではなかったのでしょう。

 

 祈りがなければ信仰生活はありません。祈りは、神様が私たちからお求めになる最良の感謝のささげものです。神様はご自分を心から慕い求め、たゆみなく乞い求める者を恵みと聖霊とをもって導かれます(ハイデルベルク信仰問答第116問と答-参照)。しかしながら、実際には祈りが軽んじられ、あとまわしにされるということがあちこちで起こっています。

 マルティン・ルターはどんなに忙しい時でも一日3時間祈ったといいます。私たちがルターの真似をするのは難しいとしても、生活の中に少しでも祈りが根づくことが必要です。もしも朝起きた時、夜寝る時、3度の食事の前、またいろいろな時の折りに祈ることをするなら、人生は違ってくるでしょう。…イスラム教徒は一日5回の祈りをしていますが、それ以上の充実した祈りの生活が求められていると思います。

 私たちが祈りを軽んじているとしたら、その理由の一つに、祈っても何になるかという思いがあるのではないでしょうか。…お祈りする時、どうせ神様は私の祈りなど聞いては下さらないだろうと思いながら祈るなら、祈りの言葉を口に出してもむだに帰ってくるだけです。これではお祈りする意欲もなくなってしまうというものです。

 自分本位の祈りを神様が聞き届けて下さることはなかなかないでしょう。宝くじに当たりますようにと祈っても、そんな自分勝手な祈りにおそらく神様は答えては下さいません。しかし、神様が聞き届けて下さる祈りはあるのです。「私に清い心を与えて下さい」、「信仰を増し加えて下さい」、「苦しみに耐える力を与えて下さい」、「苦手なあの人に声をかける勇気を与えて下さい」、こういった祈りは神様は必ず答えて下さいます。

 祈る時には熱心さがなくてはなりません。神様は聞いて下さらないだろうと最初からあきらめてかかるのではなく、神様、ぜひともこの祈りを聞いて下さいという思いがあってはじめて神様が耳を傾けて下さるのです。その時、神様がすぐに願いをかなえてくれなくてもあきらめず、祈り続けることが大事です。私たち一人ひとり、神様が祈りに答えて下さったという喜びの体験を積み重ねることが出来ますように。

 

 私たちが祈りがどんなに重要なものであるかを知り、熱心に、心をこめて祈るようになるなら、私たちから祈りを取り上げようとする悪魔のたくらみに屈服してしまうことはないでしょう。…私たちは自分がお祈りしないことの言い訳をあれこれ考えます。祈ってもむだだという思い以外に、時間がないということもあります。やらなきゃいけないことが山ほどあるのに、どうしてお祈りに時間を取らなきゃいけないのかということですが、もしも空いている時間が出来たら祈るというのであれば永久に祈る機会はありません。忙しさのために心がつぶされるような時こそ、ほんの短い瞬間でも良いですから、祈る時間を確保することが必要です。本当にお祈りする気持ちがあるなら、どんな時だって祈ることが出来るはずです。

教会でも、ややもすればメッセージを作ったり聞いたり、会議で話しあったりということが重んじられるあまり、祈りがつけたしのようになっていることがありますが、これは間違っています。祈りに始まり、祈りで終わることの大切さをかみしめて下さい。さらに、教会ではふだん主の祈りが唱えられますが、これが呪文かお経のようになっていませんか。主の祈りは世界を包む祈り、深遠な内容を持つ祈りですから、ただ機械的に唱えるのではなく、その意味を味わいながら唱えるのでなければなりません。

 私たちが目を覚まして祈るというのは、居眠りしないことはもちろん、霊的な目を見開いて祈るということです。だから、祈りの時に気ままに語っては神様の前にふさわしくありません。また、あれもこれもと総花的に祈ることも不必要です。そのような祈りがささげられると、神様の方も「わたしに何をしてもらいたいのか」と思われるでしょう。もっとも大切なことを、心を込め、あまり長い時間をかけないで祈るべきです。

 私たちの霊的な目が開かれ、目を覚まして祈ることが出来るためには、パウロが言う通り「霊に助けられて祈り」ということがあります。それまで自分の幸せだけを祈る思いが主だったのが、だんだん神様ならイエス様なら、今の自分をどう見ておられるだろうということが大きな場所を占めるようになっていくでしょう。初めは自分のわがままな思いを神様にぶつけていたとしても、やがてそれが浄化され、神様のみこころと自分の思いが近づいてゆくようになり、こうして祈りが答えられるようになるのです。力ある祈りとは何かということを皆さんも考えて下さい。

 最後に、パウロが「わたしのためにも祈ってください」と書いたことを考えたいのですが、この手紙を直接受け取った信者からは、もしかすると「パウロ先生、いいかげんにして下さい。そんな弱気なことを言われたら私たちの士気にかかわります」という反応があったかもしれません。でも、それはパウロに対する過大な要求です。いくらパウロであっても人間ですから、欠点や弱さをかかえています。まして、パウロはこの時獄中にいて、そこから手紙を書いているのです、福音を伝える者もそれを受け取る者も、共に主の導きのもとにある者同志として、互いに祈り合うことが必要です。そのことが、教会とそこに集う一人ひとりの人生を前に進ませるのです。

 

(祈り)

 神様。私たちは祈りにおっくうな者たちです。苦しい時の神頼みのような祈りはすることが出来ますが、のど元過ぎれば神様に感謝することも、再びこの苦しみが来ないようにと願うこともすっかり忘れてしまいます。祈ることが苦手な私たち、しかしイエス様は祈れない者たちのために主の祈りを教えて下さり、祈りとは何かを示して下さいました。この何ものにもかえがたい宝ものを私たちが持ち腐れさせることなく、さらに喜びをもって祈りの生活をしてゆくことが出来ますよう、イエス様と共に歩む日々を過ごさせて下さい。 

 

 とうとき主の御名によって、この祈りをおささげいたします。アーメン。