偽りの誓いを立てるな

  偽りの誓いを立てるな   出207、マタイ53337   2022.1.16

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119152、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:4、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:88、説教、祈り、讃美歌:284、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 新しい年2022年は、始まったとたんに大変なことになってしまいました。1月2日にここで礼拝をした時には、翌週に礼拝が中止になるなど思いもよらなかったのですが、まるで嵐に襲われたような感じです。正月気分が吹っ飛んでしまったという人も多かったと思いますが、それでもこの年はまだ始まったばかりです。

昔から「一年の計は元旦にある」と言われていて、皆さんの中にも今年の目標とか、今年はどういうことをしようかと考えて、家族の前で披露した人がおられたでしょう。これは一種の誓いです。三日坊主では困ります。コロナのためにどれだけ混乱しようと、いったん今年の目標を決めたら、ずっと貫いて頂きたいと思います。

 さて、年の初めの誓いをしたばかりのところで、たった今、主イエスの「一切誓いを立ててはならない」という言葉を読んだのですが、これをどのように受け取ったら良いのでしょうか。……私は聖書を読みながら、厄介なところに来てしまったと思いました。…私たちはふだん、何かを借りたときにはこれを返すことを誓うし、結婚式のときには二人の愛を誓います。スポーツ大会の前には選手宣誓があるし、教会での洗礼式や信仰告白式の中にも誓約があるのです。

もしも誓いということがなければ、社会生活は成り立ちません。これによって世の中のしくみが支えられているのです。そうだとすれば、「一切誓いを立ててはならない」という言葉をどう読みといたら良いのでしょうか。

 

そこで、主イエスの言葉をもう一度よく見てみましょう。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」。ここで主イエスが引用された言葉は、そのままの形では旧約聖書に出て来ません。…「偽りの誓いを立てるな」については、たとえば旧約聖書レビ記1912節に「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない」という言葉があります。…「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」については、申命記2322節に「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい」という言葉があります。…イエス様はそれらの言葉をくっつけて「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と言われたのだと思います。…ただ、こうした言葉の前提にモーセの十戒の中の第3の戒めがありまして、イエス様の言葉の意味を探る時の重要な鍵、キーワードになっています。

十戒の中の第3の戒め、それは出エジプト記20章7節にあります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。

「みだりに」という言葉、今はあまり使われていないかもしれません。むやみやたらに、という意味があります。神様のお名前をむやみやたらに唱えてはいけないということですが、なぜこんなことが命じられていると思いますか。…これは日本ではちょっと考えにくいことかもしれません。この国では、ふだんの生活の中で神様が全然出て来ないという人が多いからです。しかし世界は広いので、神様のお名前をむやみやたらに唱えることで弊害が起こることがあるのです。…口を開くたびに「神様、神様」と言っていて、それが度が過ぎた場合です。たとえば自分がかっこよくてお金持ちなのは神様のおかげ、あの人があんな不幸な目にあったのは神様のみこころ、「神様に誓って、借りたお金は返します」と言いながらお金を返さない、こんなことが続くとどうなるでしょう、神様が出しにされてしまっています。神様、神様と言われるたびに神様が安っぽくなってしまうことが問題なのです。

イエス様の時代にも、人々が神様、神様と言いながら、神様に誓ったことが守られないということが起きていました。具体的なことがはっきりしないので想像になりますが、「お父さん、お母さん、ぼくは神様に誓って、今日から一生懸命勉強するよ」と言いながらぐうたらぐうたらしている人がいたら、…それは神様の権威にかかわる事態です。神様が軽く見られているのです。

そこで当時の人々は、神様の名前が軽んじられないようにするにはどうしたら良いかと考えました。一つ目の解決策は、神様の名によって誓ったことは必ず実行するということです。しかし、いったん誓ったことをすべて実行するのはなかなかたいへんです。…そこで次なる解決策は何も言わない、何も誓わないということです。安全策ですが、そうも行きません。…そこで考え出されたのが第3の方法、イエス様がここで取り上げた考え方です。「主なる神の名によって誓ったことは必ず守らなければならない。しかし、それ以外のものによって誓った誓いは守れなくても必ずしも罪にはならない」というものです。

どういうことか説明します。「神に誓って」と言った場合、その誓いは完全に果たさなければならない。でも「天にかけて誓います」と言った場合、天は神様そのものでないので、誓いを果たせなくても罪にはならない、というものです。「地にかけて誓います」、「エルサレムにかけて誓います」、「自分の頭にかけて誓います」、どれも神様そのものではなく、だんだんどうでもいいような誓いになってゆきます。わかりますか。もしも結婚式の時に、「私はこの女性を妻とすることを、自分の頭にかけて誓います」なんて誓約した場合、それは破ってもかまわない、全く信用できない誓いになってしまいます。

けれども、天だろうが地だろうが、エレサレムも、自分の頭さえも、軽く見ることは出来ません。なめてはいけません。それが神様でないことは確かですが、神様が造られたのです。だからイエス様は「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」と言われます。…今は白髪染めをしたり、茶髪やら金髪やらにする人がいますが、これは上辺を塗っただけで、中身は変わりません。

イエス様は、髪の毛の色も含めて、私たちの前にあるのはいったい誰がつくったのかと問われるのです。あなたの頭は誰が作ったのか、神様ではないか。エルサレムを造ったのも神様、地を造ったのも、天を造ったのもみんな神様ではないか。…神様から遠いところをさして誓ったつもりでも、そこも神様の支配される所ではないのか、だからどこにかけて誓っても、自分の頭にかけて誓っても、神様のみ前で誓っていることに変わりありません。だからイエス様はこうおっしゃっているのです。「あなたがたは常に神のみ前にあることをよく知りなさい」と。…その上で「一切誓いを立ててはならない」という言葉が出て来るのです。

 

私たちはこのような、誓いそのものを禁止しておられる主イエスの言葉を、どのように受け取れば良いでしょうか。「一切誓いを立ててはならない」について、「主イエスの言葉は神の言葉だから、それがどんなに実行することが難しくても一字一句守るべきだ。もしも神の言葉を水で薄めるようなことをしたら、神の言葉の権威は損なわれてしまう」と考える人がいます。キリスト教の中でもクエーカー派というグループの人々は、イエス様のこの言葉を文字通りに受け取って、あらゆる誓いを禁じ、裁判所でもどこでも一切の誓いを拒否するのだそうです。…しかし、このような態度が本当にイエス様に従うということなのかどうか、慎重に検討する必要があります。それと言うのは、聖書にはこのあとも誓いをする場面が出て来るからです。イエス様の言葉にも、これは誓いではないかと思われるのがあります。パウロは第2コリント書1章23節で「神を証人に立てて、命をかけて誓いますが……」と書いています。またへブル書6章には誓いに関する教えがあります(へブル6:1320)。

したがって、こういったことを勘案すると、イエス様がここで「一切誓いを立ててはならない」ということで言おうとしておられることは、判断が難しいのですけれども、おそらく誓いそのものの禁止ではありません。そうではなく、守らなくてもよい誓いなどを考えて行う人を批判してそう言っておられる、と見ることが出来るでしょう。

大昔の人間は、ふだんの生活の中で何かを誓ったりする必要はなかったか、あるいはたいへん少なかったように思います。なぜ誓いということが必要になったのか、それは人間のふだんの言葉がうそばかりになったからです。みんな、本当のことを言わない、だれも信用できない、そんな中で本当に信頼できる言葉を作らなければならなくなったので誓いの言葉が出て来た可能性があります。そんな中、神様の前で誓った誓約でさえも信頼出来なくなったなら、私たちはいったい何を信頼すれば良いのでしょう。

いまの日本で、政治家の言葉が信用されないということがあります。汚職の疑いがかかった政治家が「天地神明に誓って自分は潔白です」と言っても、それをそのまま受け取ることが出来るでしょうか。「うそつきは政治家の始まり」と言った人さえいます。残念なことに宗教家もあまり信用されていません。口ではいいことを言っても、実際の生活はそうではないと思われているのでしょう。しかし政治と宗教だけに限りません。商売上の取引、職場での人間関係、家族との関係や夫婦の間でさえも、うそのやりとりやかけ引きでやっと成り立っているような時代です。……そこではっきりしてきたこと、それはふだんかわしている言葉に真実がないのに、誓いの言葉だけ信用しろと言っても無理だということです。イエス様は私たちにふだん日常で使う言葉も真実であることを求めておられるのです。

ふだんの言葉が真実のものになることとはつまり、私たちの日ごとの言葉が神様を神様とする言葉になるということです。だからイエス様は37節で言われます。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」。然り、然り、否、否、わかりやすく言うと、そうだ、そうだ、違う、違う、となるでしょう。然りを然りとすること、否を否とすること、それは正しいことを正しいとし、間違いを間違いとすることです。もしも正しいことを間違いと決めつけ、間違ったことを正しいこととしてしまえばどうでしょうか。そこに真実な言葉はなく、従って真実の誓いの言葉もありません。

ある人とある人が私たちは友だちだ、これから仲良くしようと誓う時、両方それを誠実に守ってゆけば良いのですが、どちらか一方、あるいは両方が誓いを破って相手を裏切ってしまうことがあります。心から相手と仲良くしようとする気持ちより、相手を出し抜いた方が得だという思いがまさってしまったからです。多くの人が、それが正しいか正しくないかより、それをすることに利益があるかどうかということを第一に考えて行動するから、こういうことになるのです。もしも自分が信じていた親友が自分を裏切ってしまったら、悲しみはなかなかいえることがありません。

こういう世界の中で、神様が約束の担い手であることを知ることは何でもないことではありません。人間同士の誓いがとかくでたらめで虚偽が多いことを私たちは知っています。しかし、神様はご自分がなさった誓いを裏切ることはありません。人間にいくら真実がなくても、神様が真実であられないことはありません。たとえ人間に絶望して、誰も信じられなくなったとしても、神様にこそ希望があります。

旧約聖書の時代、神様は救い主が来られることを誓い、約束なさっておられました。それはイエス・キリストが地上に来られることによって実現しました。そのことをパウロはコリントの信徒への手紙2の1章18節で書いています。

「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません。」ちょっと難しいのですが、神様は真実な方だから、神様について語った私たちの言葉が、正しく、同時に間違っているということはないということです。19節にもこう書いてあります、「神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。」イエス様も、正しいと同時に間違っているということは絶対にありません。

人間の口から出る言葉がどれほどいい加減で、初めから守れないような誓いをしていたとしても、神様はイエス様を通し、人間に与えた誓いを約束通り果たすお方です。そうであるなら、神様を信じることによって、私たちの口から出る言葉が清められ、誓ったことは必ず守る者となることが出来るでしょう。たかが言葉の問題と言ってはなりません。人の心の思いが正され、言葉に真実があるならば、行いも自ずと清められてゆくはずです。

然りという言葉は、へブル語でアーメンと言います。アーメン、その通りです。神様がイエス様を通して示された真実に対して,私たちも心から「アーメン」と言って受けとめるとき,私たちの言葉もはじめて真実な言葉になるのです。今年、皆さんが誓った言葉が神様の真実によって実現してゆきますように。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。御名に栄光がありますように。

広島長束教会の今年の聖句は「そこではもはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」というガラテヤ書の言葉です。教会は今年、このみ言葉に導かれて前進しようと誓ったのですが、対面礼拝の中止で気持ちが挫かれたような気もします。しかし、神様の真実は変わりません。皆が一緒に集まることが出来ずとも、キリスト・イエスにおいて一つだということを今のこの苦しい時期にも信じぬいてゆくことが出来ますように。

神様、私たちの心を清め、言葉を清めて下さいますように。私たちの口から出る言葉が真実なものであるように。真実と虚偽がまじり、然りが同時に否となることがありませんように。そして、そのことを生涯貫いてゆく勇気と力をお与え下さい。

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。