愛の御神

   愛の御神       雅歌867、マタイ52732  2022.1.9

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119151、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:11、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:90、説教、祈り、讃美歌:433、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 本日はマタイ福音書5章27節から32節、主イエスの山上の説教の一部からみ言葉を聞きたいと思います。主イエスがすでにマタイ福音書5章20節でおっしゃっています。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。そこで言われた、当時のえらい学者や有力者の教えとは違う、本当に正しい義なる生活とは何でしょうか。その第二の例として取り上げられたのが、ここに記された教えです。これは姦淫と離婚に関する教えで、それはそのまま結婚生活に関する教えでもあります。

 言うまでもなく結婚は人生の大事です。結婚をするかしないか、結婚する場合、良い結婚をするかどうかは人生の幸不幸、成功と失敗を左右します。誰と結婚するかということがその人の一生を決めることにもなりますから、自分に最もふさわしい人を見つけようと人は力を尽くして努力するものです。…その結婚がうまく行けば良いのですが、結婚生活に波風が立った時には、破局を避け、円満な家庭を取り戻すため、たいへんな努力が必要です。さらに、子どもが生まれなくて悲しんでいる夫婦もいれば、子育てに神経をすり減らしている夫婦もいます。これらは皆さん、よくご存じのことです。

 恋愛や結婚は、昔から歌や小説やテレビドラマなど、数え切れないほど取り上げられてきました。それは人々がこのことを通し、幸せを、そして本当の人生を求めていることのあらわれだと言えましょう。……しかしながら、自分ひとり、あるいは自分たちだけの幸福を求めても本当の幸福は得られないことは、聖書がつとに教えていることです。……結婚したばかりの夫婦なら、お互い「あなたしか見えない」と言う状態かもしれません。中には結婚して50年たってもそんな夫婦がいるかもしれませんが。……しかし、ある人が言ったように、「愛というのはお互いがお互いを見つめ合うことではなく、二人で同じ方向を見てゆくこと」なのです。私たちにとって、そこで言う同じ方向とは、二人の愛を成り立たせる根源である神のいますところです。結婚に召されている人は、自分の身をまず神様にささげて、神様から結婚が与える真の幸福をいただくべきです。

 私たちにとってそのようなものであるべき結婚は、しかしいつも、それを破壊しようとするさまざまな危険のもとにあります。それが姦淫と離婚です。

 

 主イエスの言葉をもう一度見てみましょう。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。

 姦淫、それは自分の配偶者以外の人と肉体関係を持つことによって、よその夫婦の関係の中に割り込むばかりか、自分たち夫婦の関係もこわしてしまうことです。教会で姦淫について語るのは気持ちの良いものではありません。私たちは、教会に来ている人はこういうこととは全く無縁だと思いたいです。罪を語ることによってかえって罪が身近に迫ってくるという危険もあるかもしれません。しかし、これは世の中で最もありがちな罪で、口にしないですむような問題ではありません。私たちは注意をはらいながら、この問題に向きあってゆかなければなりません。

 主イエスのこの言葉は以前の口語訳聖書ではこう訳されておりました。「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。

 ここで主イエスは外に現れた行為としての姦淫だけでなく、人間の心の内側までも見て、罪に定めています。これはたいへん厳しい言葉のように思えます。……文語訳聖書では「およそ女を見て色情をおこすものは、心中すでに姦淫したるなり」となっていました。明治時代以来、多くの青年が聖書のこの言葉にふれて驚き、自分が神の前では姦淫の罪を免れないことを知って、悩んだことが伝えられています。……しかし、この言葉にふれて心にやましいことが全くない男性などいるでしょうか。また、女性に対しては何も言われてないのでしょうか。…さらに、もしもこの言葉をそのまま受け取った場合、性欲そのものが罪であることになりはしないでしょうか。かりにそうだとすると誰も結婚など出来なくなってしまいます。神はアダムとエバに向かって「産めよ、増えよ」と言って祝福されましたし、主イエスはカナの婚礼の席に出席して最初の奇跡を行われました。結婚を祝福されるのが神のみこころです。すると、そのことと情欲をいだいて女を見る者うんぬんとは一貫性があるのかということが出て来ます。…そこで、罪がいったいどこにあるのかをはっきりさせなければなりません。さもないと必要以上の罪悪感に悩まされたり、場合によっては神経症を起こすこともあるからです。

 そこでマタイ福音書5章28節をもう一度よく見てみましょう。皆さんは口語訳と新共同訳で翻訳が少し変わったことに気がつかれたでしょうか。口語訳で「女」となっている所が新共同訳では「他人の妻」となっています。「情欲をいだいて女を見る者は」が「みだらな思いで他人の妻を見る者は」となりました。訳が変わったことで喜んだ男性がたくさんいるようですが……。これは、原語では「女」と「他人の妻」が同じ言葉になっているからです。主イエスはどういう文脈でこの言葉を述べたのかと考えたときに「他人の妻」の方が良い訳だということになりました。……さらに、この文ではどういう思いで他人の妻を見るかと言うことに大きなウェイトが置かれているのです。…それは他人の妻を見てみだらな思いをいだくというのではなく、みだらな思いで他人の妻を見ることがいけない、と。つまり行為の結果ではなく、動機が問題になっているのです。そこで原文をそのまま訳すと「みだらな思いをなしとげようとして他人の妻を見る者は」となります。……およそ人が罪を犯すのは、罪を犯そうとする意志があるからです。主イエスは人間の外にあらわれた動作よりも、罪を企て、罪を犯そうとする人間の意志を問題にされています。その場所を清めることが、人間の全体を清めることにつながるからです。

念のため申しておきますが、姦淫ということは男性だけに責任があるのではありません。聖書全体から言えば、男も女も姦淫の罪から解放されなければなりませんし、主イエスもそのことを踏まえて述べておられます。

主イエスは私たちの結婚生活が本当に祝福されるように願っておられます。…そこで今度は驚くような言い方をなさいます。29節と30節、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」、「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」、そして、それぞれに「全身が地獄に投げ込まれない方がましである」、「全身が地獄に落ちない方がましである」という言葉が加えてあるのです。この言葉の重みに耐えられる人がいるでしょうか。これは、どんなに大切なものであっても、夫婦の絆を保つためには捨ててしまわなければならないことがある、と言うことです。…皆さんはこの言葉の厳しさの前に立って下さい。…ただし、これを文字そのままに受け取る必要はありません。情欲にかられたからと言って本当に目をえぐり出したり、不倫事件を起こしたからと言って本当に腕を切り落とすことが命令されているのではありません。主イエスは「みだらな思いで他人の妻を見る者は」のところですでに、姦淫の罪は人間の心の中から来ていることを述べておられますから、たとえ自分の目をえぐり出し、腕を切り落としたとしてもみだらな思いはなくなりません。むしろ私たちは、このような激烈な表現の中に、姦淫の罪が主イエスの目にどれほど重大な問題として映っていたかということに思いをいたすべきでしょう。

 

主イエスは次に「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という規定を取り上げられます。これは申命記24章1節に書いてある規定です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。主イエスがこれを取り上げた背景には、当時の社会の状況があります。

その頃のユダヤ人の社会では、結婚は人に与えられた最も神聖な義務とされ、また離婚は忌まわしいこととされていました。しかし、その現実はこれとは裏腹なものでありました。

この時代は男性中心の社会でした。…妻が自分から申し立てて夫と離婚することは出来なかったのですが、夫は妻を勝手に離縁することが出来ました。離縁状一つ渡すだけで離婚が成立したのです。しかも、夫にとっては、妻が料理を焦げ付かせたとか、塩を入れすぎたといった理由で離婚しても良かったのです。ユダヤ教のある教師など、申命記24章1節の「妻が気に入らなくなったとき」という所を、「自分の妻よりもっと魅力的な女を見つけた場合である」と解釈したほどで、こういう状況の中で語られたのが主イエスの言葉だったのです。

「しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。…ここで不法な結婚というのには二つの説があります。律法で禁じられている近親結婚だという説と、もう一つが不品行だという説で、口語訳聖書では後の方を採用して、「だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は」と訳しておりました。いずれにせよ,主イエスのこの言葉は、男性の横暴によって離婚がまんえんしている現状に対する徹底的な批判ということにとどまりません。それは時代と場所を越えて、神によって定められ、祝福された結婚を破壊から守るための戒めとして、聞かなければならないのです。

 

さて、主イエスのお言葉の厳しさに,自分は指摘されるようなことは全くないと安心していられる人は幸いです。現実には、姦淫や離婚はひんぱんに起こりますから、考えたくないことですが、自分の身近な人が、あるいは自分自身がその当事者になってしまうことだってないとは言えません。人はそんな時、どこまで罪を犯した人を裁いたり、糾弾することができるのでしょうか。

ここで私たちはヨハネ福音書8章にある「姦淫の女」の物語を思い出さずにはおれません。律法学者とファリサイ派の人々が姦通の現場でつかまった女をつれてきて、主イエスがどうなさるか試そうとしました。律法の規定では、姦淫の罪を犯した者は死刑に処せられることになっていました(レビ2010など)。…主イエスがこの女を殺せと言った場合、ローマ帝国の占領下のユダヤ人としては越権行為になります。ユダヤ人には人を死刑にする権限がなかったからです。逆に赦してやりなさいと言った場合、「イエスは律法を守らない」ということになり、どちらに転んでもイエス様を訴える口実が出来ると、これを狙ったわなだったのです。…その時、主イエスは立ち上って言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。……それを聞くと、彼らは年長者から始めて、一人また一人と立ち去っていったのです。

主イエスは「あなたたちの中で罪のない者」と言われた時に、お前たちはこの女と同じ罪を犯さないですんでいるのか、と尋ねています。たとえ、実際の行動としては現れなくても心の中が問題です、みだらな思いでもって他人の妻を見たことはないのか、ここにおいて主イエスの敵対者たちは言う言葉をなくして退散してしまいました。

ただ、だからと言って、この女に罪がないのではありません。姦通の相手の男が逃げてしまったことを見落とすわけにはいきませんが、彼女は現行犯としてつかまったのですから、言い逃れるすべはありません。主イエスがこの女の罪を見る目は、きわめて厳しいと言わなければなりません。…しかし私たちは、その場に立ち合っているイエス様が、この女の罪の贖いのためにも十字架にかけられたことを思わなければなりません。

私たち一人一人はいったいどこに立っているのでしょうか。私たちがこの「姦淫の女」のような誰の目にも明らかな罪人であるのか、それとも彼女を糾弾する律法学者やファリサイ派の人たちのような隠れた罪人であるのかという違いは、実は最も重要なことではありません。そうではなくて、律法学者やファリサイ派の人たちのように、たとえ表面上は品行方正であっても結局、主イエスのもとから立ち去ってしまうのか、それともこの「姦淫の女」のように、たとえ罪にまみれ、泥にまみれ、人々の非難の的になることがあったとしても、それでもイエス様のもとに留まり続けようとするのか、そこが本当の人間として生きるかどうかの分かれ道なのです。…もちろんそのことは、主イエスのもとにとどまるために、わざわざ罪の底に落ちてゆくということではありません。

主イエスは「姦淫の女」に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。「姦淫の女」の罪を赦された主イエスは、私たち一人一人の外に現れた罪だけでなく内に隠された罪をも背負って下さいました。

男女の関係は結婚するしないにかかわらず、人生の最後まで続きます。だからこそ主イエスから罪を赦された者として、私たちは自分の体と心を大切に守って、いよいよ深く主のまことと恵みを味わうべきであります。

 

(祈り)

 

恵みと慈しみに富む天の父なる神様。私たちはいま神様が、人間を創造された時、男と女に創造されたことに深いおそれと喜びを覚えています。神様は人を独身へと導かれることもありますが、結婚する人に対してはこれを祝福され、夫婦が互いに愛し合い、良き家庭をつくることを喜ばれます。結婚している者も、していない者も、夫婦そろって健在な者も、配偶者と死別した者も、生涯を終えるまで、迫りくる罪に対し注意を怠らず、罪とのたたかいに勝ち抜くことが出来ますよう、力を与えて下さい。そうして男と女がつくる世の中で、それぞれが神のかたちを現わす者でありますように。イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。