キリスト・イエスにおいて一つ

キリスト・イエスにおいて一つ イザヤ4257、ガラテヤ32329 2022.1.2

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119149、讃詠:546、交読文:詩編941215、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ—133、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)、讃美歌:205、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 新年あけましておめでとうございます。2022年、この新しい年を神様の確かなお導きとお支えのもと、皆さんとご一緒に、重荷を担いつつ、しかし喜びと希望をもって歩みたいと願っております。

 広島長束教会では毎年、今年の主題聖句というものを定めています。2022年の主題聖句として選ばれたのがガラテヤの信徒への手紙3章28節の言葉です。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。

 この言葉はたしか沖田長老が提案し、小会のメンバーがみんな賛成して決まったのですが、今になって思うことは、これを語るのも、受け取るのも、実行するのも相当難しいということです。「ユダヤ人もギリシア人もなく」、これ一つだけでもなかなか大変です。「奴隷も自由な身分の者も」、いま日本にも外国から来た人などで奴隷に等しい境遇の人がいます。そして「男も女もありません」、これはいったい何を言っているのでしょうか。…ただ、難しいで終わってしまっては、何のために教会に来ているのかということにもなりかねません。私たちの前に立ちはだかる困難にもかかわらず、そこに見えて来る希望にかけてみたいと思います。

 

 今日の箇所は冒頭のところで時代を二つに区切っています。皆さんは気がつかれましたか。23節でパウロは「信仰が現れる前には」と言っています。直訳すると「信仰が来る前には」となります。「信仰が現れる前」があるからには「信仰が現れたあと」もあるのです。…「信仰が現れる前」、「わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました」。…では信仰が現れたあとはどうなったでしょうか。26節、「信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」。

 ここには律法に関する議論がありますが、今日は時間の関係で取り上げません。注目したいのは「信仰が現れる前」と「信仰が現れたあと」、…ふだんあまり使わない言い方ですね。信仰という目に見えないものについて、どうして現れる前、現れるあと、と言うのでしょうか、…これはイエス・キリストが現われたことを言っているのです。

イエス・キリストがこの世に来られたことは、このお方への信仰によって、人が罪から解放され、神様によって救いを受け、新しいいのちの希望に生きることができる時代が来たことを意味しているのです。

私たちは世界の歴史を古代、中世、近世、近代、現代などと区分するのに慣れていますが、イエス様が来られたことを古代に起こった一つのエピソードくらいに考えてしまってはなりません。それは歴史をそれ以前とそれ以後に分けるほどの重要な出来事であったのです。それは人々の個人的な、内心に関わる出来事というより、世界の歴史を二分するほどの出来事なのです。

 もちろん歴史の中には、他にもそれ以前とそれ以後が区別されるものがあります。……日本では戦前と戦後というような分け方がありますね。……2020年に新型コロナウィルスが蔓延したことを時代の転換点のように受け取っている人がいます。「コロナになってから時間が止まってしまったようだ」と思っている人がたくさんいるそうです。確かにその時から、世界はいつ終わるともわからない長いトンネルの中に入ってしまったのですが、これは人間の救いに直接影響することではありません。

 世界の歴史は「信仰が現れる」、つまりイエス・キリストが来られることによって二分されました。その後、さまざまなことが起きましたが、私たちはイエス・キリストの到来から始まった新しい時代の中を生きているのです。

 

 イエス・キリストは私たちが思っている以上にはるかに大きなお方です。皆さんの中には、イエス様は大昔に一度現れ、十字架につけられて死んで復活、その後天に帰られただけの方だと思ってはいる人はおられませんか。この方を神のみ子で救い主であると信じてはいても、今はどこか遠くに行ってしまわれたとしか思えなかったとしたら、…その人の信仰が心配です。

 聖書に「教会はキリストの体である」という言葉があります(エフェソ123、コロ124など)。ご存じの方が多いと思いますが、心の底からこれを受けとめた人の前に、イエス様は以前よりもっともっと大きな姿で現れることでしょう。

この手紙を書いたパウロは、キリスト教徒を迫害するためエルサレムからダマスコに向かっていく道の途上で、復活したイエス様に出会い回心しましたが、その時、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえました。パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との答えがありました。…有名な話ですが、よく考えると不思議です。イエス様は天におられるのです。地上でキリスト教徒を迫害したパウロが、それなのに、なぜイエス様を迫害したことになるのでしょうか。……それは地上にある教会がキリストの体だからです。「キリストの体」と言う以上、その頭も、体も、一つなのです。体が痛めば当然頭もどうにかしなくてはと思うでしょう。だからイエス様は「なぜわたしの教会を迫害するのか」とは言われません。「なぜわたしの民を迫害するのか」とも言われません。「なぜわたしを迫害するのか」と言われたのです。パウロはキリスト教徒を迫害し、教会をつぶそうとすることによって、イエス様ご自身を迫害していました。このことは、天におられるキリストと、現実に存在する教会が、いっけん離れているように見えたとしても、実はそうではなく一つであることを意味しています。昔も今も、そしてこれからも。…その中に私たちがいるのです。25節は「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と言います。教会がキリストの体である限り、私たちもその一部です。私たちは自分で自覚している以上にイエス様と結ばれているのです。

 もう少し掘り下げてみましょう。キリストの体の中にいて、その一部分である私たちは、イエス様に結ばれて、みんな神の子なのです。…神の子とは何でしょう。神の子という言い方で私たちがまず考えるのはイエス・キリストです。イエス様が神の子というのは、今ここにいる人なら誰もが納得しています。実際、福音書の中では神がイエス様に対して「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われています(マタイ317など)し、イエス様も祈りのたびに「父よ」と言って呼びかけています。父なる神とイエス様との間には愛と信頼に基づく特別な関係があり、本来ならそれで完結するのですが、イエス様はこの関係の中にご自分を信じるすべての人を加えて下さいました。そのことが現れているのが、イエス様が教えて下さった主の祈りです。私たちも神の子です。だから天を仰いで「天にましますわれらの父よ」と呼びかけることが出来るのです。

 私たちは生まれつき神の子だったのではありません。信仰によってキリスト・イエスに結ばれ、神の子となったのです。(ここでキリスト・イエスとイエス・キリストがどう違うのかという人がいます。ほぼ同じですがキリスト・イエスの方がイエス様の神性を強調していると考えられます)。信仰は洗礼を受けることによって確かなものになります。…私は洗礼を受けていない人が信仰がないとは言いません。洗礼を受けていなくても信仰の芽が出て、育っている最中の人がいるのですが、それがキリストとつながり、キリストに接ぎ木され、キリストと固く結ばれるのが洗礼です。だから洗礼についてまだ考えていないという方(小児洗礼だけで信仰告白をしていない方)は、神様から洗礼へのお招きがなかったかどうか、真剣に考えて頂きたいと思います。

 イエス様を自分の主と受け入れ、洗礼を受けて名実ともにキリスト者になった人は、キリスト・イエスに結ばれ、神の子となったのです。でも、ぽつんと一軒家にいて誰とも交流せず、一人だけで信仰を保っていくことはできませんね。教会につながり、日曜ごとに礼拝をすることと共に、信者同士互いに交流し、イエス様がおられる所に向かって高め合っていくこと、これを信徒の交わりと言いますが、これがきわめて重要ですが、もっとも注意をしないとこれほどもろいものはありません。みんな長所だけでなく欠点を持っている人間ですから、人間同士さまざまなトラブルが起こることは避けられません。パウロはそんな人々に向かって、教会に集まる者たちはキリスト・イエスにおいて一つなのだと教えます。その根拠になるのは、教会はキリストの体であるということでしょう。

 一つの体の中で、足が手に向かってお前はいらないと言ったり、目が耳にむかってお前なんか出て行けとは言えません。体の中で必要とされないところはないのです。みんなが一つの体、教会も同じです。教会にはどんな人が来るかわかりません。民族の違い、身分の違い、能力の違い、男女の違いなどすべての違いを超えて、誰もがキリストの体に属する者として一つであるのです。

 パウロは言います、「そこではもはや。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません」。これを一つひとつ読み解いて行きましょう。

「ユダヤ人もギリシア人もなく」、この時代、自分たちが世界の中で神に選ばれたただ一つの民だと信じるユダヤ人と、哲学、文芸、科学技術、スポーツなどあらゆる分野で世界の先端を走っていたギリシア人、どちらもプライドが高く、お互いに相手を野蛮人のように思っていた節があるのですが、教会で神の前にこの両者が共に礼拝するというのは画期的なことだったと言って間違いありません。…現在でも、アメリカでは白人と黒人が別々の教会で礼拝するということがあります。日本にそんなことがないとは言えません。私たちは、教会にはどの国の人が来ても良いとわかってはいても、何かのおりにそれがくずれてしまうことがあると知っておくべきです。…いちばん極端な場合を想定します。仮にAという国とBという国が戦争になってしまったとしましょう。その時A国の教会では自分の国の勝利を祈り、B国の教会でも自分の国の勝利を祈る、これでは祈りを取り次ぐ立場にあるイエス様はどう判断されるのでしょうか。キリストの体である教会が国ごとに分裂しているのです。

 2番目が「奴隷も自由人もなく」。パウロの時代、奴隷と自由人では生きる世界が全く違っているために、同じ教会にいても交わることは難しかったはずです。現代でも、たとえばインドには厳格な身分制度がありますから、教会の中でも最下層の不可触民と最上層のバラモンが互いに神の子として、兄弟姉妹の関係になるのは難しいのではないかと思います。このようにして一つのキリストの体が分割されてしまうのです。…現代の日本にはあからさまな身分制度はないものの外国人研修制度のことなど多くの問題があります。広島長束教会が同じような階層の人たちばかりで完結し、それとは違う人たちが入り込めなくなるようなことがあってはなりません。

 3番目の「男も女もない」ということ、これがもしかしたらいちばん難しいかもしれません。信仰が現れて、つまりイエス・キリストが来られて新しい時代が始まり、一人ひとりがイエス様に結ばれ神の子とされた時、そこには民族や身分だけでなく男性、女性という違いもないということです。男女平等指数で日本の現状は世界の中で120位だそうですが、2000年の昔はさらにひどい状況だったでしょう。集会に人が集まっていても、男性だけを数え、女性と子どもは数に入れないということがありましたが、パウロはここで女性にも男性と同じ価値があることを言っているのです。

 ただ「男も女もない」ということが、男でも女でも皆同じということになるかどうかは慎重に検討することが必要です。というのは、ここから「神様の前に、男も、女も、そしてそれ以外、例えば男の体で生まれて女の心を持っている人も、女の体で生まれて男の心を持っている人もいるが、パウロはここでLGBTの問題に関して新しい視点を与えている」という結論が導く人がいるかもしれないのです。ただ、パウロがそのように考えていたかどうか、今日の段階では何とも言えません。

 第一の「ユダヤ人もギリシア人もない」から考えると、どんな民族でもキリストに結ばれて神の子です。しかし民族の違いというのはおそらく最後までついてまわり、その意味で皆が同じというわけではありません。違いがあっても、キリストに結ばれているなら同じ神の子だということです。

 男女のことでも、人間に男と女の違いがあり、またスポーツ選手で時々問題になるように、女性として出場したのに男性ホルモンの値が高くてとか、いろいろなことがあります。人と人の間にいろいろな違いがあるのです。しかしLGBTの人を含めて、キリストに結ばれているならみな同じ神の子です。それから先のことは今後の課題にさせて下さい。

 

私たちは与えられた人生を歩む中で、それぞれに抱えているものがあります。民族の違い、身分の違い、男女の違いだけでなく、能力が違い、見た目が違い、性的指向も違うかもしれませんが、しかしあらゆる違いにもかかわらず「キリスト・イエスにおいて一つ」とされている、このことを大切にしたいと思います。イエス・キリストはとうとい命を差し出してこの世に教会を誕生させ、これを「キリストの体」だと認めて下さいました。だから、世界のどこにある教会もみなキリストの体であって、本来一つでなければならないのです。ところが現実には国が違う、同じキリスト教でも信じることが違うといったことで分裂してしまっています。一つの教会の中でも分裂を招くことがごろごろしています。しかし、だからこそ「キリスト・イエスにおいて一つ」とされていることを想い起こしたいのです。今年、まず広島長束教会が、一人ひとりがどんなに違っていても、みなが同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ思いを一つすることを願いたいと思います。

 

(祈り)

天の父なる神様。2022年の初めに当たって、神様が新しい年の扉を開いて下さったことを心から感謝いたします。新しい年が神様のみこころのままに用いられますように。

ここにいる私たちはみな、この年に大きな望みを持ってここに来たと思います。今年はこれをしたい、あれをしたいというひとりひとりの計画と願いをどうか顧みて下さい。そしてそれがみこころにかなったものとなるためにも、何よりイエス・キリストによって神様が私たちと共におられる一年をお導き下さい。

神様、私たち一人ひとりの置かれている場所は違い、かかえている重荷や関心もそれぞれ異なっています。しかし、ひとりの主、イエス様が与えられていることによって、私たちが心を一つに合わせることが出来ますように。…いま世界各地の教会もそれぞれ異なった課題と重荷を負っています。しかし、ひとりの主、イエス様のもとに、分裂を克服し、一つの教会となる道を歩ませて下さい。   

神様、いまこの世界にある人間同士の対立を思います。どうかこの年、世界のどの国であっても愚かな戦争への道を歩まないように、平和を愛するイエス様の言葉が世界を変えてゆくことを見せて下さい。

 

とうとき主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。