さあ、ベツレヘムへ行こう

さあ、ベツレヘムへ行こう イザヤ916、ルカ2820、テトス21114        2021.12.19

(順序)

前奏、招詞:ルカ147、讃詠546、交読文:詩編4335、讃美歌100、聖書:イザヤ916、祈り、讃美歌:103、聖書:ルカ2820、讃美歌106、説教、祈り、讃美歌113、聖書:テトス21114、讃美歌Ⅱ56、信仰告白:日キ信仰の告白、(聖餐式、讃美歌Ⅱ179、献金・感謝)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

  コロナ禍が始まってから2年目のこの年も、広島長束教会では礼拝や集会の中止が繰り返されました。いま少しずつ正常な状態に戻りつつありますが、クリスマス礼拝に音楽家を呼ぶことが出来ませんし、祝会も、近所の人たちを呼んでの子どもクリスマス会もありません。以前のようなにぎやかなクリスマスは望めず、本当にこれで良かったのかという思いがありますが、それでも、クリスマス礼拝を行うことが出来ただけでも感謝だという声に励まされています。日本にはいまオミクロン株が入ってきて、この先どうなるか心配されています。たとえどんな状況が来ようとも、この世界にイエス・キリストが与えられたことが、私たちみんなにとって困難とたたかう力となり、日々の希望となりますように。

 

 いまイザヤ書から「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」というところを読みましたが、イエス・キリストがお生まれになったのはまさに闇に閉ざされた時代でありました。

 この時代、ユダヤはローマ帝国の中にあって、ユダヤ人は自分たちの独立した国を持つことが出来ず、ローマ人の支配下で苦しんでいました。ガリラヤのナザレの住民であったヨセフとマリアは絶大な権力を持つ皇帝の命令で、住民登録をするため、三日か四日をかけて歩いてベツレヘムに来ましたが、その町にいる間にマリアはイエス様を出産しました。家畜小屋の中で出産したのです。

そもそもイエス様のご降誕はユダヤでは紀元前8世紀の昔から預言されていました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。これほどのお方なら豪華な宮殿の中で生まれても全然おかしくなかったのに、イエス様はいちばん下の下、動物の臭い匂いがたちこめているところでお生まれになったのです。この家族のことを気にかけていた人などほとんど誰もいませんでした。

同じころ、ベツレヘムの郊外で、羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。

この時代、羊飼いが一般の人々からどう思われていたのか、二つの可能性があります。一つは、人々から低く見られるような職業だったというものです。もう一つが、これとは反対で、人々から重んじられた職業だったというものです。どちらが本当なのかわかりません。ただ、どちらであっても、羊を飼うのはきつい、汚い、そして危険な仕事でありました。

羊飼いの仕事は、動物が相手ですから休みの日がありません。羊を狙ってくる狼などと戦わなければならないこともあります。この日も羊飼いたちは夜通し、寝ないで羊の番をしていましたが、その間、普通の人たちはぐっすり寝ているわけです。夜の闇が彼らを覆いつつみました。夜通し火をたいて、羊の群れを守っていた羊飼いたちは孤独をかみしめていたことでしょう。しかし、この人たちに救い主誕生の知らせがもたらされました。

ベツレヘムの羊飼いたちはこの夜、腰を抜かすばかりの体験をしたのです。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」と書いてあります。いったい何を恐れたと思いますか。…幽霊や吸血鬼などを怖がる人がいます。確かに、そんなものが現れたら怖いというのはわかりますが、でも、よく考えてみましょう。どんな化け物でも怖がって退散してしまうのが神様です。神様より強い存在はないからです。……羊飼いたちは、闇夜の中でいきなり神様と向き合ったのです。どんな化け物より怖い神様と向き合ったのです。神様の前にまともに立っていられる人など誰もおりません。それまで行った悪事はもちろん、心の中の隠しておきたい思いまですべて、神様の前にさらけだされるのですから。羊飼いたちは恐れました。神様が自分たちを滅ぼしてしまうのではないかと思ったのです。

 ところが天使は告げました。「恐れるな」と。それは、「神はあなたがたの罪のためにあなたがたを滅ぼすことはない」ということです。…それどころか、「今日あなたがたのために救い主がお生まれになった」、それは神様がこの人間たちを愛して、最高最善のプレゼントを贈って下さったことを告げているのです。

天使の言葉が終わるやいなや、突然、神を賛美する大合唱が始まりました。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」。羊飼いたちは驚きのあまり茫然自失になったことでしょう。このとき地上は不気味なほど静かだったのですが、これとは反対に天は喜びにわきかえっていたのです。

 

天使たちが去って再び静かになったとき、羊飼いたちはすぐに行動を開始しました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。…そうして羊をそこに置いたまま、ベツレヘムの町に出かけて、天使が告げたとおり飼い葉桶に寝かせてある幼な子を探しあてました。

羊飼いたちは、いま自分たちが見ていることがまさに天使の告げたことと全く同じであることを知って、その言葉を信じました。これこそ民全体に与えられた大きな喜び、この幼な子こそ救い主なのです。……すると喜びを押さえることが出来なくなりました。わきあがる喜びをどうしても人に伝えたくなったのです。彼らはその場所から出ると、こんなふうに、まわりの人たちに話していったのだと思います。「救い主がお生まれになったんだ。本当だよ。おれたちはこの目で見たんだ」と。

これを聞いた人々は皆、その話を不思議に思いました。いったい何が起こったのかという感じですが、羊飼いたちはかまわず語り続けました。…この羊飼いたちを見ていると、まるで、喜びにわきたつ天がその場所に移ってきたようではありませんか。不気味なほど静かだった地上に光が灯されのです。…ここに彼らの魂に変革が起こっていることがわかります。…羊飼いたちは主の栄光に照らされた時、恐怖のあまり、いったんは死んだも同然だったのです。それが救い主に出会ったことで、神様がこの世界を愛して闇の中に光を灯して下さり、その恵みの中に自分たちがいることを知ったのです。こんな素晴らしいことをどうして独り占めすることができましょうか。

人前で神様のことを話すことなどまるでなかっただろう羊飼いたちのこの有り様には驚かされます。これこそ「主が知らせてくださったその出来事」が家畜小屋にいる聖なる家族だけでなく、彼らの中にも起こり、そしてそこからさらに外に広がっていることを現わしているのです。

もしも羊飼いたちが、天使の告げてくれた幼な子に会おうとしなかったら、会ったとしてもそれだけで満足して帰ってしまったなら、最初のクリスマスがこれほど印象深く私たちの記憶に刻まれることはなかったでしょう。しかし、彼らは自分たちの見聞きしたことを語り、神様をあがめ、賛美しました。後世の人たちは聖書を読んで、彼らの喜びの意味を理解することが出来、彼らと一緒に喜んだのです。それは皆さんにも伝わっていることと思います。

羊飼いたちが幼な子イエス様を見て信じたことを、皆さんも信じて下さい。神様がこの世界に救い主を送って下さった素晴らしい出来事は、私たちにも何かを引き起こさずにはいないのです。いや、それはすでにそれは始まっているのです。

「救い主がお生まれになった。本当にお生まれになった。クリスマスおめでとう」、自分の口からこのように言うことが出来るだけの信仰が与えられますように。クリスマスの出来事は神から人に、そして人から人へと伝わってゆくのです。皆さんすべてに天から与えられた幼な子イエス様との出会いがありますように、と願います。

 

(祈り)

天の父なる神様。今日のこの良き日を、全世界の教会と共に喜び、心からの感謝と賛美の思いをお捧げいたします。

神様、イエス様を危険きわまる地上に送り出したことには天においてたいへんな心の痛みがあったと思います、しかし、それにもかかわらず、み使いたちが天に栄光、地に平和と歌って、喜びにわきたっていたことには驚かされました。イエス様はこの先、苦難の中で十字架への道を歩まれることになりますが、それでもイエス様の派遣は神様の勝利、信仰の勝利だったのですね。

闇の中を歩む民の上に神様の憐みが下って、救い主の誕生となりました。民全体に与えられる大きな喜びの中にいま私たちがいることを感謝いたします。

神様、どうか、この世界にイエス様が与えられたということをもって、私たち一人ひとりの人生を価値あるものとして下さい。神は我々と共におられる、インマヌエルということを、私たちが人生のもっとも大切なものとして育んでゆくことが出来ますように。

この世界にイエス様が与えられたのに、そのことを見ようとせず、悲しみに沈んでいる人がいてはなりません。だから、私たちをあの羊飼いたちのように、口を開いて信仰の喜びを大胆に語る者として下さい。

 

この祈りをとうとき主イエスのみ名によって、お捧げいたします。アーメン。