喜びを分かち合う

喜びを分かち合う 詩編651014、ルカ13958   2021.12.5

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119144、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:11、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:95、説教、祈り、讃美歌:118、信仰告白:日キ信仰の告白、(聖餐式、讃美歌:202、献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 今年の5月、エレサレムでパレスチナ人とイスラエルの治安当局との間で衝突が起き、それはイスラエルとパレスチナの武力衝突にも発展しました。今は少し落ち着いているようですが、対立する双方があやうい均衡の上に立っている状態で、いつ、また何が起こるかわからないというたいへん残念な状況になっています。

私は暴力の応酬が今ほど激しくなかった1992年に聖地旅行が出来たのですが、そのときエルサレムの西6キロにあるエンカレムという所に行きました。バスで坂道を登っていくと、村と言っても良いような小さな町に着きます。まわりを山に囲まれた静かな、平和な里です。…そこがマリアとエリサベトが出会ったという山里でした。そこには2000年の昔にも使われていたという井戸がありました。マリアもエリサベトもその水を運んで使っていたのでしょう、そんなことを考えながら、ガイドさんに案内されて歩いてゆくと、二人の女性が出会った場所に石造りの教会が建っていました。訪問教会という名前の教会で、石の壁にマリアの賛歌が世界各国の言葉で刻まれています。日本語のものもありました。

マリアはどうして、山を越えてここまで来たのでしょうか。……そこはマリアの住んでいたガリラヤのナザレからは、直線距離だけでも100キロは離れており、徒歩で4日ほどかかると言われています。39節を見て下さい。「急いで山里に向かい」と書いてあります。マリアはエリザベトに会うのが待ちきれない思いで、ここまで来たのです。

 

ドイツに、この時のマリアを歌った歌があります。こんな歌です。

 山を越えてマリアは行く

 従姉(いとこ)のエリサベトのところへ

エリサベトの体内で子供は喜び躍り

みたまに満たされたエリサベトの言葉がひびく

主の母よ、おめでとう

そして、マリアは歌う

「私の魂は主をあがめ、

私の霊は救い主である神を喜びたたえます

そのいつくしみは、とこしえに変わることはない。

 

 マリアが急いでエリサベトのもとに行った理由にあげられるのが26節から38節にかけて書いてある、有名な受胎告知の出来事です。ある日、天使がおとめマリアのもとを訪れて言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」。いきなりこんなことを言われて、驚いたマリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と叫びました。マリアはまだヨセフと婚約中でまだ一緒になっていませんでしたから、この段階で妊娠するのは当時としては大変危険なことです。しかし、マリアはそれが主なる神のみ言葉であるがゆえに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、不安と驚きの中にも神様に対する全き信頼と服従の気持ちを表明したのです。

 この時、天使はもう一つのことも告げています。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」。

 多くの人が、マリアがエリサベトに急いで会いに行ったのは、天使のこの言葉を確かめたかったからだと考えています。確かにエリサベトが妊娠しているという知らせがなければ、遠いところまでわざわざ訪ねてゆくことはなかったでしょう。マリアはエリサベトの妊娠の事実を疑っているのではありません。その時、神の子を産むということで不安と驚きと喜びと期待の中で心が引き裂かれていたかもしれませんが、しかしその中で、神様から祝福された人に会いたかったのです。

 

 マリアとエリサベトが対面した様子は美しい絵になって、訪問教会に掲げられておりました。年齢から言えばエリサベトの方がマリアよりはるかに上ですが、しかし、絵を見るとエリサベトは年若いマリアをまるで主人のように迎えていました。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」とのエリサベトの言葉にあるように、エリサベトにとってマリアは主の母親だからです。

 女性が自分の体に子供を宿し、新しいいのちの芽生えを体験するということは、いろいろなケースがあるにしろ、だいたいにおいて大きな喜びにちがいありません。……出産の時が近づいてきたエリサベツのところに、六か月遅れで妊娠したマリアが訪ねてきて挨拶したとき、エリサベトの胎内の赤ちゃんが喜んでおどりました。やがてヨハネと名付けられるこの子は、マリアのお腹にいる救い主を認めて、喜んだのです。…こんなことが他にもあるのかどうか、私はわかりませんが。マリアはこれまでの不安な思いをこのとき吹っ切ることが出来たのでしょう。この二人、胎内の赤ちゃんを含めますと4人の姿には、神を信じる者の幸いがあふれています。

 エリサベトは聖霊に満たされ、喜びの言葉をもってマリアを迎えました。その中の「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」、これには別の訳し方もあります。「幸いなるかな、信じた者よ、その人に語られた言葉は、必ず主によって実現する」。……マリアよ、あなたは幸せです。なぜか、あなたは信じることが出来たから。信仰を持っているから。

信仰を持っていたら、なぜ幸いなのでしょう。それは、神様があなたに約束されたことを必ず実現して下さるからです。

 

 エリサベトの言葉を受け取ったとき、マリアの口から思わず賛美の歌がほとばしり出ました。それまで、マリアは一人では喜びの歌を歌うことはありませんでした。しかし、エリサベトと共に神の恵みを実感したその時、喜びがわき起こったのです。マリアはこう歌い始めました。

 

  わたしの魂は主をあがめ、

  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

 

マリアの賛歌はマグニフィカートと呼ばれています。これは「わたしの魂は主をあがめ」の中の「あがめる」ということばが、古くから用いられているラテン語訳聖書でマグニフィカートという言葉で、それが冒頭に来ていたからです。マグニフィカートというのは、もともと「大きくする」という意味を持っていて、地震の大きさを示すマグニチュードと語源を同じくしています。「わたしの魂は主をあがめ」というのは、だから、「神を大きなお方とする」ことです。人間の思いでは測り知れないことをなさる神への賛美と信頼、そして服従の行為が神を大きなお方とすることで、その中心に礼拝があります。もちろん神は人間の思いによって大きくなったり、小さくなったりするような頼りない存在ではありませんが、私たちも自分の中にいる神様を大きなお方にしていなくてはなりません。

イザヤ書55章9節に「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」という言葉があります。人間の小さな思いでは捉えることの出来ない、測り知れない神の思いを、マリアはどこから知ったのでしょう。それを示すのが「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」という言葉です。

マリアは主なる神、救い主である神を賛美します。それは、この自分に目を留めて下さったからです。偉大な神は、偉い人々にしか顔を向けておられないと思っていたら、ガリラヤという辺鄙な地方の、身分の低い、ナザレの村の娘である自分に目を留めて下さった、そう言って驚いているのです。

 

 今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。

 

 これはマリアが得意満面になって、これ見よがしに自分の幸せを歌っているのではありません。もしも、そんなことなら、このあと「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とは歌わなかったでしょうし、「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」とも歌わなかったでしょう。マリアは自分の幸せを自慢しているのではありません。自分が選ばれた、それは主を畏れる人、身分の低い人にとっての勝利であると言っているのです。

 マリアの賛歌の中に「憐れみ」という言葉が2回出てきます。まず50節の「その憐れみは代々に限りなく」ですが、これは48節の「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」ということから来て、自分に与えられた幸せが時代を超えて続いてゆくことを賛美する言葉です。もう一つは54節の「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」。マリアは言います。神は憐れみをお忘れにならず、神の民イスラエルを受け入れて下さり、この民に約束された、神の子の誕生を実現なさると。

マリアの賛歌の主題は神の憐れみと言って良いのです。神から見放されても文句の言えない、この愚かで哀れな民を神はお忘れにならなかった。そのために、思いもかけないことに身分の低い自分を選んで下さった。遠い昔に約束された神の子がいま自分のお腹の中に宿った、それはなんと驚くべきことでしょう……とマリアは歌うのです。

もしも神がこの世で大きな力を持っている国を愛し、絶大な権力を持っている人を尊ぶならば、小さくて力の弱いユダヤ人など選ばなかっただろうし、ましてマリアを救い主の母親とはしなかったでしょう。人間の思いもよらなかったことが起きています。それこそ神の偉大さの現われです。ですから私たちは、マリアを幸せな人だと思っても、彼女を羨ましいと思う必要はありません。マリアに現われた恵みはエリサベトにも現われました。そして主を畏れるすべての人に現われるのです。マリアの幸いはわたしたちの幸い、マリアが歌った歌は私たちの歌でもあるのです。

マリアは3か月ほどエリサベトのところに滞在しました。やることはたくさんあったでしょう。私は、マリアはエリサベトが男の子を産んだのを確かめたあと、ナザレに帰ったと考えています。

 

初めに紹介したドイツの歌では、山を越えてマリアは行くと歌ったあとに続けて、次のような呼びかけの言葉が入ります。

 

私たちも山へ行こう

  山でおたがいに挨拶をし合うために

  みたまが与える挨拶の言葉に心を開こう

  そうすれば、私たちの心も喜び躍り

  私たちの霊はまことの信仰に生きて、こう歌うだろう

「私の魂は主をあがめ、

私の霊は救い主である神を喜びたたえます

そのいつくしみは、とこしえに変わることはない。

 

広島長束教会には長束の人たちだけでなく、市内のいろいろな所からの人が集まっています。遠くから近くから集まってくるのは、神のみ前で同じ信仰を持つ者が共に集まり、共にみことばを聞いて救いの恵みにあずかるためです。

私たちのこの集まりがマリアとエリサベトの出会いのようになりますように。

教会に来るまで、どんなに悩みをかかえていたとしても、「あなたは神様から恵みを受けています、私も恵みを受けてここに来ました。神様の言葉を信じることが出来るあなたは幸せですね、私も幸せです。私たちに語られた神様の言葉は必ず実現します。おめでとう。」……皆がこういう思いをもって、互いに挨拶をかわし、賛美の歌を歌ってゆくことが出来ますように。

 教会には賛美など面倒だ、何も良いことがないのになぜ賛美する必要があるのかと思っている人が来るかもしれません。……しかし、それでも賛美の言葉を捧げ、賛美の歌を歌ってゆくのです。喜ばしいときはもちろん、苦しいつらいときにも賛美の声をあげてゆくとき、私たちはいつしか神の恵みの中にとらえられていることを知るでしょう。

私たちの魂が主をあがめ、私たちの霊が救い主である神を喜びたたえる、そのようなクリスマスが来ますようにと願います。

 

(祈り)

恵みをもって私たちを捕らえ、導き、支えて下さる神様。2000年前の世界は、罪と汚れのうずまく中で救いを求めてあえぐ暗黒の世界でありました。しかし神様はエリサベトとマリアという神を畏れる二人の女性の出会いの中に、新しい世界のビジョンを見せて下さいました。

この二人と同様、毎週日曜日の私たちの教会での出会いも喜びあふれるものでありますように。どうか私たちに賛美の言葉と歌を導いて下さい。ここに集まる私たちの中にどれほどつらい、苦しい日々を過ごしている人があったとしても、そんな苦しい時にこそ力強い、賛美の思いを口に出すものとして下さい。なぜなら、この世界がどうであれ、私たちがなんであれ、神様は賛美を受けるにふさわしいお方だからです。

神様が私たちと共にいます、このことを覚え、神様にまっすぐに従いつつ、クリスマスに向かってのひとすじの道を歩いてゆきたいと思います。どうか私たちを幼な子イエス様のところまで導いて下さい。この祈りをとうとき主イエスのみ名によってお聞きあげ下さい。アーメン。