見よ、義の太陽が昇る

見よ、義の太陽が昇る マラキ31924、ヨハネ42124 2021.11.28

 

 (順序)

前奏、招詞:詩編119143、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:5、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:94、説教、祈り、讃美歌:345、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

時の経つのは早いもので、今年も残すところわずかになりました。今日から待降節が始まります。待降節は1130日に近い日曜日から始まり、4回の日曜日をへて1225日のクリスマスに至る期間で、イエス様をお迎えするために心を清め、整える時と言って良いでしょう。待降節を英語でadventと言います。もともとラテン語から来た言葉で、到来、到着と言った意味がありますが、これと同じ語源から出て来た言葉をご存じでしょうか。Adventureというのがあります。Adventure、冒険、そこには胸が躍るような体験もあれば危険きわまりない出来事もあるのです。

 そもそもイエス・キリストのご降誕は、地上の人間にとっては到来であり、到着であり、私たちは喜ばしい出来事と思っていますが、視点を変えて天から見たとき、それは冒険と言うしかないと思います。聖書はイエス様が誕生された時はもちろん、マリアの胎内に宿った時にも、イエス様が初めて現われたとは教えていません。イエス様はもともと天におられたのですが、時が満ち、人となって地上においでになられたのです。それを天から見たら、イエス様を安心して地上に送り出すということではなかったでしょう。この地上は神と敵対する世界でした。イエス様がお生まれになったところは家畜小屋で、その後まもなくヘロデ王に殺されそうになって家族はエジプトまで逃げていくのです。初めからそういう状況ですから、この先、何が待ちかまえているか、想像もつくというものです。しかし、それにもかかわらず、天はイエス様をこの世界に派遣した、これが冒険でなくてなんでありましょう。

 

 主イエスはヨハネ福音書5章39節で、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と述べておられます。旧約聖書の全体が、イエス様のことを証ししています。マラキ書もその一つです。

 マラキ書は、神が預言者マラキに語らせた言葉を書いています。マラキは紀元前5世紀に生きた人です。それは亡国の民となったユダヤ人がバビロンからようやくふるさとに戻ってきて、エレサレムの修復に力を注いでいた時期でした。しかし、そのことは、ユダヤ人が希望に満ちて祖国の再建に努めていたということではありません。

 紀元前516年、エルサレムでかつてバビロニアによって破壊された神殿が、以前より小規模ながら再建され、神殿での礼拝が始まりました。動物のいけにえがささげられた後、祭司の祈り、十戒や律法の斉唱があり、香がたかれたり、音楽演奏があったりという礼拝でした。また各地にシナゴーグ、会堂が造られ、そこでも礼拝が行われたようです。つまり形の上では礼拝を中心とする生活が始まったのです。しかし人々はだんだん、霊的に無関心、無気力になっていきました。

 マラキ書の1章6節から2章9節まで、祭司の罪が列挙されています。1章6節には「わたしの名を軽んじる祭司たちよ」、2章8節には「あなたたちは道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせ」という言葉があります。…神殿で神に仕える祭司が神をうとんじていたのです。それは、神にささげるべきものは最上のものでなければならないのに、質の劣るものをささげていたことにあらわれていました。宗教指導者が腐敗・堕落しており、彼らが私利私欲に走っていたという可能性があります。

 祭司が堕落すれば、人々もそれに倣います。3章14節、「あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ』」。聖書にこんな言葉が堂々と載っているのです。

 信仰生活には、一度燃え上がった情熱がやがてさめてしまうということが、起こる場合があります。マラキ書を読んでいくと、信仰生活に燃え尽きてしまった人々の行いと言葉が目につきます。何が彼らをそうさせたのか、今の時代に当てはまるところも多いようですが、神様は当然、この状態を放置したままでおくことはなさいません。人間が自分から立ち直ることはないので、神様の側で行動を起こされます。

3章1節2節を読みます。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。」

神様が使者を送り、道を備え、そのあと主が来られます。皆さん、この順番で思いあたることはありませんか。そうです。新約聖書に書いてあることです。新約聖書は、荒れ野に現れたバプテスマのヨハネが人々に悔い改めを促し、洗礼を施し、すなわち道を備えたあと、イエス・キリストが現われ、公生涯を開始されたことを教えています。そのことがここで予告されていますが、同じことが3章19節以降で改めて、くわしく、語られているのです。

 

 「見よ、その日が来る」、その日とは、炉のように燃える日です。高慢な者、悪を行う者がすべてわらのようになってしまう日です。彼らは燃え上がり、根も葉も残ることはありません。…その日について、19節では「到来するその日」と言われています。まさにアドベントです。

 19節の前にある見出しが「主の日」となっているのには理由があります。「主の日」という言葉は、ここには直接出て来ませんが、聖書の他の箇所でいくつも書かれていて、その中身がここと共通しているのでそう書かれたのでしょう。例えばイザヤ書13章6節には、「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる」、ヨエル書1章15節には「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく」、オバデヤ書16節には「主の日は、すべての国に近づいている」と書かれています。

主の日とは、神の最終的な裁きが行われる日です。神様がご自分に背く人間たちに怒りを発せられるというのは、これまでもたびたびありましたが、それらは比較的小規模なものにとどまっていました。しかし主の日にはそうはいきません。それは世の終わりの日でもあるのです。…今、世の中は悪が大手をふって、善人が苦しめられているかもしれませんが、主の日には悪が一掃され、善が悪に打ち勝ち、神が最終的に勝利されます。従って高慢な者、悪を行う者、すなわち神に逆らう者にとっては、この日が来ることは恐怖以外の何ものでもありません。

20節、「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」。…義というのは私たちふだんあまり使わない言葉ですが、正義とかまっすぐであることを意味します。…太陽については、例えば詩編8412節で「主は太陽、盾、神は恵み、栄光」と言われており、だいたい想像がつきますね。…「義の太陽が昇る」ことを想起させるのはイザヤ書60章の1節2節で、こう言われています。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」。…つまり神を信じ、とうといみ名のもとに集まるあなたたちの上に神が太陽のように昇るというのです。

主の日は悪人にとっては恐ろしい日ですが、あなたたちにとってはこの上ない喜びの日であると。だから、「その翼にはいやす力がある」、また「あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る」ということになるのです。義の太陽こそこの世界に出現なさるイエス・キリストにほかなりません。

 

さて、義の太陽で言い表された存在についてもう少し説明しましょう。22節から24節の間に二人の人物の名前が出て来ます。モーセとエリヤです。…モーセについては「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた」。ホレブはシナイ山と同じです。イスラエルの民が荒れ野の旅の中、ホレブでモーセを通して与えられたのが、十戒を初めとする律法にほかなりません。

もう一人がエリヤです。エリヤについては礼拝説教であまり取り上げていないので知らない人がいるかもしれませんが、紀元前9世紀に活躍した預言者で、バアルの神に仕える450人の預言者に一人で立ち向かい、勝ったことで有名です。ここでエリヤについて、「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」と書いてあることについては、新約聖書に対応する箇所があります。主の日が来る前に遣わされた預言者ということで、皆さんはバプテスマのヨハネだと見当がつくと思いますが、ヨハネは長い間子どもが出来なかった夫婦から生まれました。天使はこの子のことで父ザカリヤにこのように告げています。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせる」(ルカ1:17)と、父なる神の心を子である人間たちに向けさせるというのです。主イエスもマタイ福音書1712節で、「言っておくが、エリヤは既に来たのだ」と言われ、続けて「そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」と書かれています。再び派遣されるエリヤとはバプテスマのヨハネのことなのです。

マラキ書がモーセとエリヤによって表しているのは、旧約聖書を支えている二つの大きな土台、律法と預言にほかなりません。律法は人間が神との関係の中でどのように生きるべきかを教えています。預言は、神が預言者によって人々に語らせた言葉で、常に神に立ち帰れということを教えています。マラキ書はモーセとエリヤの名前を出すことによって、律法と預言、この二つによる長い年月にわたる御導きの上に、ついに義の太陽イエス・キリストが昇ることを告げているのです。…ですから、マタイ福音書17章など、主イエスの変貌の場面でモーセとエリヤが登場するのは偶然ではありません。山の上、3人の弟子たちの目の前で、イエス様のお姿が変わります。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」と書かれています。…父なる神はモーセとエリヤ、つまり律法と預言を通して神の民を導かれましたが、その集大成としてイエス様が来られるのです。この時、エリヤの霊と力で主イエスの前に道を備えたバプテスマのヨハネもいました。

 

福音書に出て来るバプテスマのヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べるという、およそ洗練さとはほど遠い、野人のようないでたちで現れます。そして、人々に向かって「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」といった激しい言葉を吐いています。そのことはマラキ書で言われたことと対応しています。主の日が来て、義の太陽が昇った時、悪人には厳しい裁きが下され、神を信じる者たちが最終的な勝利を勝ち取るのです。

ただし、それは実現したのでしょうか。聖書の読者の中には、そんなことは実現しなかったじゃないか、バプテスマのヨハネのあとにイエス様が現れたのは本当だけど、恐るべき日は来なかった、神の裁きはなかったじゃないかという人が出て来そうです。

しかし、神の言葉が偽りであるはずがありません。神様の恐ろしい裁きは確かにあったのです。バプテスマのヨハネを含め地上の誰もが予想しないかたちで。神様は世界を怒りの炎で打つかわりに、この災いをみ子イエス・キリストおひとりに負わせました。イエス様を十字架につけて死なせることによって、ご自分の言葉が偽りでないことを証明されたのです。

そして、もう一つのことがあります。イエス様の到来によって、終わりの時が始まりました。イエス様が来られてから、世界はそれまでとは全く違う世界になりましたが、歴史はさらに、神の導きのもと、終結点に向かって進んでいます。終わりに向かって進んでゆき、その中に私たちの人生も位置づけられているのです。…もちろん、世界の歴史と言ってもひとことではとても述べることが出来ず、曲がりくねった歩みが続いています。そこに喜びもあれば悲しみもあらゆることが起こり、キリスト教信仰が盛んになる時代もあれば衰退してしまう時代もありますが、人間の社会は同じことを未来永劫に繰り返していくのではありません。必ずある一点に向かって進んでいくのです。

主の日はもう一度来ます。最初の主の日がイエス・キリストの到来でしたが、次に起こる主の日とは将来のことで、それがいつ、どのような形で起こるのか見てきたかのように言うことは出来ませんが、聖書が告げているのは、主イエスが再び来られ、世の終わりが来るということです。その時にこそ、本当に悪が一掃され、善が悪に打ち勝ち、神が最終的に勝利されるのです。

待降節、アドベントには、2000年前、この世界においでになられたイエス様をお迎えするということと共に、いつの日か再びおいでになるイエス様をお迎えするという二つの意味があります。私たちはすでにおいでになったイエス様を喜び迎えることと共に、この先、いつイエス様が来られ、世の終わりが来ようとも、その日を悪人のようにおびえるのでなく、喜びをもって迎える者とならなくてはいけません。信仰こそがその道を開いてくれるのです。

 

(祈り)

 

 天の父なる神様。神様のご配慮のもと、コロナ禍が少し治まり、私たちは手さぐりで礼拝を続けています。この待降節の時期、おそらく礼拝が中止になることはないでしょう。私たちが喜びをもって、クリスマスを迎えられるだろうことを心から感謝いたします。神様、どうか今年、いつもよりさらに深い罪の悔い改めとイエス様が地上においでになった喜びの中で、待降節を過ごすことが出来ますように。2000年前にイエス様がおいでになられたことを感謝するだけでなく、今この時も新しい思いでイエス様をお迎え出来ますように。マラナ・タ、主よ、来てください(Ⅰコリ1621)という言葉をくちびるに乗せて下さい。とうとき主のみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。