神の武具を身につける

神の武具を身につける  イザヤ402731、エフェソ61017  2021.11.24

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119142、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:448、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 パウロが牢獄の中からエフェソの信徒に送った手紙は、教会の礼拝の中で読み上げられたものと考えられています。これまでいろいろな教えや勧告がなされましたが、ここに来て「最後に言う」と言って呼びかけがなされます。今日のこの箇所は、この手紙の結論部分に当たります。

 「最後に言う」として語られたのが「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」。この言葉は、広島長束教会では2015年度の主題聖句にもなったので、覚えている方がおられるでしょう。この年の総会資料を見ると「私たちは主題聖句に導かれ、悪魔に打ち勝ったイエス・キリストによって強くせられ、その力によって教会を立てて行く者となりたいと思います」と書いてありました。私たちはその言葉に再び巡り合ったことになります。

 ほとんどの人間は、なかなか思い通りにゆかない社会と自分の人生の中で強くありたいと思っています。自分はもう十分だ、これ以上強くなることを望まないという人がもしかしたらいるかもしれませんが、その他大勢の人は強くなることを願っています。いったい人は、何によって強くさせられるのでしょう。誰でもまずは、それは自分であると考えます。頼れるのは自分だと。自分の力によって強くなるということです。もって生まれた体力とか気の強さとか頭脳とかを発揮して強くなろうとするのです。こうしたものを最大限に働かせて実際に強くなるということがあり、これによって立ちはだかる困難から脱することがありますが、かりに自分がもって生まれたものを失ってしまった時はどうすれば良いのでしょうか。

 また、これとは反対に、神様にお願いして強くなろうとすることがあります。自分のやることなすことを神様におゆだねする、お願いして強くなろうということで、信仰者の中にこういう人は案外多いようです。もっともこれが極端になって、「困った時の神頼み」と揶揄されることもあります。

 私たち信仰者が人生を生きていく間に、どんな困ったことが起こるかわかりません。その時、自分の力で困難を切り抜けていこうとすることと神様にゆだねて問題を解決しようとすることの二つをどのように関係づけ、折り合いをつけていくのかは、しっかり考える必要があり、そのことが今日のところに書いてあるのですが、ここで「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」の理由を説明するのが11節と12節、その具体的な手段を書いているのが13節から20節ということになります。順にお話ししてゆきます。

 

 「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と言われるのは、パウロによると、信者たちの前に「悪魔の策略」がはりめぐらされているためで、これに対抗して立たなければならないからです。

 ここで「悪魔って本当にいるんですか」という人がいるかもしれません。自分の目で見てみないと信じられないという気持ちはわからないでもありませんが、そんな人のために、ここで、かりに悪魔が存在しないと仮定してみましょう。すると存在しないものの策略に対して、対抗する必要など全くないことになります。ここで言われていることは全くナンセンスだということになるのですが、皆さん、いかがでしょうか。……もしも悪魔というものがいなければ、この世は正しいことが満ち満ちていて、人をだますことも殺人も戦争もみんななくなり、誰もが幸せな明るい世の中になっているはずですが、そうではないでしょう。…昔の人は悪魔とか魔女とかいったものを現代人よりはるかにおそれていて、その中には、今の私たちから見れば迷信に見えるものもあるのですが、いくら科学技術が進歩したところで、それで人間を覆う罪の現実がなくなるわけではありません。時代の進展につれて武器や兵器がますます高性能で破壊的なものになっていくように、昔と比べて現在の方がますます危険になったものもあります。この世界には、それを何と名づけようと、人間を堕落させ、破滅へと引きずりこもうとする力が跳梁しています。それはいつも恐ろしい顔をしているとは言えず、それどころか形があるものかさえもわからないのですが確かに存在していて、その大元締めの存在を悪魔と言うことは決して間違っていません。私たちが悪魔の策略に対抗する必要がないなどとはとても言えないのです。

 

 人間にどんな力が備わっていても、その力でもって悪魔に対抗することは出来ません。悪魔に対抗するとは、罪の力に対抗することでもあります。この力はばかにならないもので、もしも誰かが、人間にはそれぞれ良識が備わっているから、社会は放っておいても良い方向に進むなんて考えていたとしたら、それはよほどおめでたい人にちがいありません。ヒューマニズムというのは、これまで歴史の中で一定の役割を果たしてきましたが、平和な時代ならまだしもひとたび嵐が襲ってくればひとたまりもないのです。

 私たちは、どんなに能力がある人でも、例えば人並外れた体力があったり、誰もかなわない頭脳を持っていたりという人であっても、それでもって悪魔に対抗することはできないことを知っておかなければなりません。もちろん自分の力によって危機を打開するということがありますが、それで当面の危機を乗り越えることが出来ても、自分がどこに向かっているのか自覚していないということがしばしば起こります。「才人才におぼれる」とか「策士策におぼれる」ということわざもあります。すぐれた能力を結局、悪魔のために使ってしまうことだってあるのです。

 そこで10節の「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」ですが、「強くなりなさい」というのは原文では受身の命令文になっており、直訳すると「主に依り頼み、その偉大な力によって強くされなさい」となります。ここでは、ただがんばれと、自分の力によって強くなれと言っているのでないのはもちろん、「主に依り頼み」、神であられる主の無限の力を頂いて、強くされなさいと言っているのです。

パウロがそう言うのは、キリストの旗のもとに集まる者たちに対抗する悪魔を筆頭とする悪の勢力を意識しているからです。ここではそれが「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」と書かれています。

パウロはこの手紙の中で、たびたびこうした悪の勢力について言及していました。2章1節と2節では「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」として、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」とあります。6章12節の「天にいる悪の諸霊」と2章2節の「かの空中に勢力を持つ者」は意味が取りにくく、議論があるところですが、おそらく悪魔を筆頭とする悪の勢力が地に属さない、悪い意味での霊的な存在だということを示しているものと思われます。…それらは、キリストの名のもとに集まる人々をなんとかして滅ぼしてしまおうと徘徊しており、その最大の標的になるのが「教会」にほかなりません。使徒ペトロも「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Ⅰペトロ5:8)と警告しています。ですから私たちも、主の偉大な力を頂いて、悪魔の勢力に対し、備えていなければならないのです。

悪魔がその手下と共に攻撃してくる、これは多くの場合、正面か向かって来るのではなく「策略」によってもたらされます。だから「悪魔の策略」と書いてあるのですが、これには理由があります。…悪魔は敗北者だからです。敗残兵と言っても良いでしょう。

悪魔が実際にどこから出現したかは難しい問題です。神が悪魔を創造されたわけでもないのに出現したからです。ヨブ記には、天において神の前に神の使いたちが集まっていた時にサタンも来たと書いてありますから、こういうところから、悪魔が堕落した天使であるという説には一定の説得力があります。…悪魔はヨブのことで神様と争いましたが敗れました。…主イエスが出現した時、3度にわたる誘惑をもってイエス様を堕落させようとして失敗しました。悪魔の4番目の誘惑が十字架で、悪魔はイエス様を十字架に追いやって滅ぼそうとしたところが、イエス様は死んで死に打ち勝たれたので、これは悪魔にとって決定的な敗北となったのです。「神は、…キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェソ12021)。ちょうど柔道で袈裟固めをやられて敗北が決定したのに、足だけばたばたしているような選手のような状況に悪魔があると思って下さい。

ただ、悪魔の息の根が完全に止められるまでにはまだ少し時間があります。そのため、瀕死の状態にある悪魔が私たち信者を攻撃する時、自分を実際以上に大きく見せ、まるで自分の方が強いようなふりをするものです。主イエスが十字架上で人間たちの罪を背負って死んで下さったことの事実と意味をゆがめ、うそをつき、人々の目をそこからそらしてしまおうとします。そして、教会とキリスト者に対して、イエス様抜きで人生を生きていけるかのような幻想をふりまくのです。…これが悪魔の策略であり、私たちはこれに乗っかってしまってはなりません。…この時、悪魔を必要以上にこわがることはありません。悪魔は敗北し、決定的な傷を負っているのです。しかし、悪魔をあなどったり、軽く見ることはできません。敗残兵とはいえ、この世で一定の力を持っているからです。

悪魔に対し、いわば戦略的には軽視し、戦術的には重視するということが私たちに求められます。そのために命じられているのが、神の武具を身につけるということにほかなりません。私たちの戦いは、パウロが言うように血肉を相手にするものではないので、銃を手に取るというようなことではありません。一方、主の偉大な力をいただくとは罪と死に打ち勝った力をいただき、その力によって生きるということですが、それはすべて神様にお委ねして何もしないことでもありません。主の偉大な力を受け取った上での人間の主導的、積極的な役割というのがあり、それを果たすために神の武具を身につけなさいと言われているのです。

 神の武具を身につけるとき、まず真理を帯として腰に締めます。帯でもベルトでもゴムでも良いのですが、私たちキリスト者が悪魔との戦いに臨むときは、偽りに対抗する真理を腰に締めなければなりません。間違ったうわさ話、偽り、デマ、フェイクニュースに対し、立ち向かうことができるのは真理によってです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われた真理そのものであるイエス様によって立ち上がるのです。
 パウロは次に、胸当てとして
「正義」を身につけなさいと勧めます。胸は体の最も大事な部分の一つだということから考えて、私たちが自分の最も大切なところを、不正義でもって守り、すべてをだめにしてしまうことへの警告です。

人を不正義へと誘う、打算やおそれから解放するのは正義にほかなりません。

パウロは続けて、「平和の福音を告げる準備を履物としなさい」と告げます。平和とはここでは神との平和と隣人との平和、今日では隣人との平和の中に自然との平和も含まれるようになってきました。罪を悔い改め神様と和解できたから平和があり、これを基盤にすえて隣人との、また自然との平和があるのです。この良い知らせを、平和を得られず不安の中にある人たちに伝えていかなければなりません。

「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです」。

敵の矢をふせぐために盾がありますが、信仰はこのように私たちに襲いかかる悪魔の誘惑やら侮辱やら攻撃なりをしりぞける、防御のための最強の武器となるのです。信仰を盾として取る、これはつまるところ神を上に望み見て、キリストの十字架を仰ぎ見よということです。その時、敵の放つものはことごとく消え失せてしまうのです。

そして「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。防御ばかりではない、今度は攻撃に出るのです。積極的に打って出るのです。その時に必要なのが救いの兜と霊の剣、これは聖書のことを言っているのです。

さらに祈りがありますが、これは次回の礼拝説教でお話しします。

私たち日本キリスト教会は、救世軍のように軍隊組織にならうことはなく、軍服も着ませんが、しかし信仰を貫くのが戦いであるということは決しておろそかにしてはなりません。第2テモテ書2章3節には「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」という言葉があります。

見たところ、ここにいる者たちは私も含め、社会的な地位が高い者は少なく、お金持ちも少なく、歳を取っている者が多く、能力的にも優秀とは言えないように思います。しかも、信仰がしっかりしているかどうか‥。しかし、神様はこんな私たちを集めて、大切な役割を与え、それこそ兵士としてこの世に派遣なさるのです。私たちがそのために、これから高い社会的地位についたりお金持ちになったりすることは、ちょっと難しいのですが、今から心機一転、主に依り頼み、偉大な力を頂いて、それによって神の武具を身に着け、悪魔の策略を打ち破り、この世で神の栄光を現わしていくことは全く可能なのです。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。どうぞあなたの力によって、私たちを力づけて下さい。

 神様が一人ひとりに定めて下さった命の日々の中を私たちは生きています。この中にはもしかしたら早くに神様に召され、神様の元に行きたいという人もいるかもしれませんが、その場所にたどりつく前、最後の最後までたたかいがあり、困難が立ちふさがっているかもしれません。どうか各自が自分に与えられた課題を立派に果たし、充実したいのちの日々を過ごすことが出来るよう、主の偉大な力によって強めて下さい。その恵みの中で、私たちが互いに祈りの中で覚え合い、励ましあうようにして下さい。

 

 とうとき主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。