兄弟に腹を立てる者よ

 兄弟に腹を立てる者よ  出エジプト2013、マタイ52126 2021.11.14

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119141、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:19、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:166、説教、祈り、讃美歌:403、信仰告白(使徒信条)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

人を殺してはいけないということは誰でも知っています。でも、なぜそれがいけないのか、本当の理由は、案外わからないものです。何年か前、「どうして人を殺してはいけないの」と子どもから聞かれた大人が答えにつまったという話もありました。人をして、殺人を思いとどまらせるものには、これを恐ろしいと思う感情がありますし、また人を殺した結果としての刑罰を恐れることもありますが、それ以上に私たちはきちんと向き合うことが必要です。

人生なにが起こるかわかりません。軍隊に入れば、自分の仕事として人を殺さなければならないということがあります。そういうことがないとしても、何かのことでかーっとなって、思わずそこにいた人に手をかけるということもあるかもしれません。

 私たちは殺人事件のニュースを見聞きすると、ショックを受けたり、怒ったり、悲しんだりするものですが、そんな時、自分はそんなことをする人間ではないと思っています。もちろん殺人事件の加害者が自分と精神的によく似た人間であっては困るのですが、この人たちが自分とは全く違う世界の人間だと言い切ることはできないでしょう。実際に殺人を行ってしまう人は少数ですが、しかしその背後には大勢の殺人予備軍がいます。実際に行うことはなくても、心の中で殺人を認めている人は多いのです。

 たとえば殺人事件で、たしかに犯人は悪いけど被害者にも落ち度があるから仕方がないと考えたり、あんな人間は殺されて当然だと思ったり、ということがあります。…日本の死刑制度について、ある人が「死刑制度を考える時は当事者意識が大切だ」ということを言っていました。…もしもあなたが死刑を認めるのだったら、自分が死刑執行人だったらということを想像してみて下さい。あなたは死刑囚を殺せますか、殺せませんか、と。…死刑執行という汚れ仕事を特定の人たちに任せて無関心なまま、死刑制度を認めるも認めないもないということです。

 

このように殺人は私たちと全く関係ないことではないのですが、では、聖書はこうした問題についてどのように解き明かしているのでしょうか。

イエス・キリストはこの時、「あなたがたも聞いているとおり」と言って話し始められました。この時代、自分の家に聖書を持っている人はほとんどいません。会堂に置いてある聖書の言葉をみんなで聞くのです。だから「あなたがたも聞いているとおり」なのです。…「あなたがたも聞いているとおり、昔の人々は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている、」…「殺すな」というのは、言うまでもなくモーセの十戒にある6番目の戒めです。次の「人を殺した者は裁きを受ける」というのは、そのままの言葉では旧約聖書のどこにも出てきませんが、出エジプト記、申命記、民数記に書いてあることを要約したものだと考えられています。

「しかし、わたしは言っておく」、これはたいへんに大胆な言葉です。主イエスは神聖な文書である旧約聖書を引用した上で、これに対し、ご自分の教えを示されたのですから。聞いていた人たちは仰天したのではないでしょうか。主イエスは最も神聖な書物の足りないところを指摘し、ご自身の知恵をもって、これに新しい解釈を加える権利がある者として語っておられます。まさに権威ある者として語られたのです。こんなことはそれまでなかったし、これからも起こることのないまさに空前絶後の出来事でありました。

 22節を読みます。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。……「裁きを受ける」、「最高法院に引き渡される」、「火の地獄に投げ込まれる」と、だんだんその結果が大ごとになっていきますが、それをもたらしたのは兄弟に対する罪です。ここで兄弟というのは、血を分けた者だけではありません。兄弟という言葉には多様で幅広い意味がありますが、この時は、家族、親族、さらにユダヤ人すべてを指していたものと思われます。私たちにとっては同じ神様を信じる仲間です。…そして「兄弟に腹を立てる」ですが、怒る時、それを声に出す場合も出さない場合もありますね。声に出さずとも怒っている場合も含め、心の中で、兄弟のだれかに対し憎らしいと思って腹を立てることが罪なのです。たとえ殺人をしなくても、です。

 続いて「兄弟に『ばか』と言う者は、…『愚か者』と言う者は…」というところです。いったいばかと愚か者はどう違うんだということにもなりますが、原文では初めの言葉は「からっぽな者、うつろな生き方をする者」、あとの言葉は「道徳的に愚かな人」といったニュアンスの違いがあります。いずれにしても、主イエスがおっしゃっていることは明白です。兄弟を怒ったり、ののしることは殺人という行動にまでならなくても、またそれを口にだすかどうかにもかかわりなく、心の中でのことで誰も知らないことだったとしても、すでに殺人罪として、裁判に持ちこまれ、最高法院に引っ張り出され、確実に神のさばきの場に連れてゆかれる、れっきとした罪だということです。

 聖書が「殺すな」と戒めている時に、それを杓子定規に解釈して、殺しさえしなければいい、最後の一線を越えなければ良いんだと言う考え方――それが、律法学者やファリサイ派ばかりでなく、私たちも陥りがちな重大な誤りなのです。…心に沸き起こる邪悪な思いが、意図しなくても現実に殺人を呼び起こすことがあります。この世で殺人がなくならないのは多くの人の心に邪悪な思いがあって、殺人行為を下支えしているからなのです。…もちろん、心の中であの人に死んでほしいと願っても、それを法律が裁くことは出来ませんが、神は人間の心の中を見ておられます。神は外側だけに現れた罪だけではなく、心に現れた罪を、それが殺人事件となって現れる前に、すでにお怒りになっておられるのです。

 いまの日本では、パワハラやいじめなどで命を断つ人がなくなりません。小学生まで死んでいて、これは自殺というより他殺ですね。そんなニュースに私たちは慣れっこになっているかもしれませんが、こうしたことは当たり前のことではなく、世界から日本を見た時、この点に限っては、日本ってなんて恐ろしい国なのかと思われているのではないでしょうか。このような犠牲者が一人でもいる限り、日本は平和ではありません。私たちは、人を罵ったり、毒を含んだ言葉を吐くことによって、誰かを死に追いやるほど苦しめていないか、自らをかえりみる必要があります。その人も神様が創造された人なのです。…私たちは「殺すな」という戒め一つ取り上げてみても、百点満点がもらえるとは自信をもって言うことが出来ない者たちなのです。

 

 そこで主イエスは続く2324節で、隣人との関係で魂の危険に陥った人がどうすれば良いかを具体的に語って下さっています。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。…この時代、祭壇はエルサレム神殿にしかありませんから、これは地方で行われる礼拝ではなく、都エルサレムで行うもっとも厳粛で、晴れがましい礼拝のこととなります。

 自分の中のどす黒い思いや口から出た言葉が原因になって、いつ、誰が、そのために苦しみ、死んでしまうかわかりません。そんな状態のまま礼拝するとしたら、神様にいったいどんな思いをささげることになるのでしょう。必要なことはその人と仲直りすることです。

 ただ、このケースはこちら側に問題がある場合とは限りません。…「兄弟が自分に反感を持っている」、この時、もしも自分に非があって相手から反感を持たれているのなら、自分の方ですぐに罪を悔い改め、謝って、仲直りを申し込むべきです。…しかし、明らかに相手に非があり責任がある時も、自分の方から謝るべきだということになるでしょうか。そんなことはありません。そんなことまで主イエスは教えておられるわけではありません。…もしも相手に罪があり責任があって、その兄弟と仲直りしようとする場合、こちらの方からその人をいさめ、警告することが必要になります。マタイ福音書1815節にこう書いてあるからです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。なかなかうまく行かない場合も多いのですが、こうするほかないのです。

 ただ、私たちも、礼拝に出かける時に,誰かが自分に反感を持っていることを思い出したなら、主イエスが言われた通りにすべきなのでしょうか。日曜日の朝にそんな時間があるとは思えません。

 この時代のユダヤ人たちは、毎週、土曜日に礼拝を守っていました。金曜日の午後3時になったら仕事をやめて、祈りと瞑想をもって、翌日の礼拝にそなえたのだそうです。主イエスの言葉にはこういう時代背景があります。何かとせわしない現代にこれをそのまま行うわけには行きませんが、一週間を振り返って、自分と関わりのあった人のことを思い起こし、トラブルがあれば出来るだけ解決し、すみきった心で礼拝にのぞんでいただきたいものです。…主イエスがここで告げておられるのは、人間と人間の関係が破れ、それが修復されていないままで、神と人間の関係の修復がありますかということです。もしもあの人は嫌いだ、顔を合わせたくないと思いながら教会の礼拝に出席するとしたら、そこに神様からの祝福はないでしょう。

 礼拝とは牧師の話をただ拝聴することではなく、そこには、自分と対立していた人々とやわらいだ喜びと感謝をささげにくるということがあっていいのです。おのおのが聖なる神の前に自分の罪を悔い、罪ゆるされた喜びからお互いの罪もゆるしあって仲直りする場が教会でありたいと思います。

 

 さて主イエスは最後に、仲直りを早くせよと命じておられます。「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の1クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。

 2324節は、隣人が自分に反感を持っている場合でしたが、今度は事態が緊迫していて、相手はいまにも自分を訴訟に訴えようとしているように見えます。その上、裁判ではこちらが負けるとわかっているような不利な状況です。

 ここでは、訴える人と訴えられる人が一緒に連れだって裁判所へと歩いて行っています。今日では、原告と被告が一緒に裁判所に行くというのはちょっと考えにくいのですが、昔はそういうことがよくあったそうです。この二人の間に、金銭の貸し借りか何かについての解決出来ない問題があったのでしょうか。

 ここで主イエスは、争いの種はなるべく早く解決しなさいと言っているように見えるのですが、実は、ここにはもっと深い意味があります。ここは23節の言いまわしとは全く違います。23節は仮定法を使っていて、「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら」という話でしたが、25節は仮定法ではありません。「あなたは早く訴える人と仲良くなりなさい。一緒に歩いている間に」。これはどういうことでしょうか。

 ルカ福音書12章の57節から59節には「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと…」という言葉が入っています。マタイとたいへんよく似た話です。ただそれは、最後の裁きへと向かっていく人間のために語られているのです。ここから考えてゆきますと、マタイの方も「あなた」と言われているのは主イエスの言葉を聞いているすべての人で、私たちは誰もが、判決を受けにゆく途中なのだと考えるとすっきりします。……つまり、これはこの世の中での裁判ではありません。最後の審判の場に向かって人生の旅の途上にあるすべての人に向かって、語りかけられている、と読むべきです。

 あなたを訴える人とは誰なのか、それを神です。主イエスはこう言われているのでしょう。「あなたがたは命がある間に神と仲直りしなさい。なぜなら、いつか命の終わりが来て、みんな、神様の裁きの前に立たされるからである」と。…今はまだチャンスがあります。神様と和解出来る時間が残っています。私たちは、死がいつ訪れても平安であることが出来るよう、心がけながら生活していかなければなりませんが、ただ、私たちが自分でどれほど努力したとしても、死ぬ前に神様と和解することは簡単ではありません。しかしながら、私たちの前に、また私たちと共に、イエス・キリストがおられます。イエス様は人間の身代わりになって、それこそ「最後の1クォドランス」まで支払って下さいました。

神はイエス・キリストを用いて、これほどまでのことをして下さいました。神様はご自分が創造された人間がすべて、命をまっとうすることを望んでおられるので、その人が殺したり、殺されることを禁じておられるだけでなく、誰もがイエス様のもとに立ち帰ることを願って、教会を通し、宣教のわざを進めておられます。

ここにおいて私たちは、殺すことはもとより、腹を立ててもいけないという兄弟の範囲を、共にイエス様を信じる者同士からさらに大きく、すべての人に広げていくべきです。そもそも人種、言語、性別、宗教そのほか人と人の間にどれだけの違いがあろうとも、みな一つの神様から造られたということでは何らかわりがないからです。

 

(祈り)

 

天の父なる神様。今日この場で礼拝の恵みにあずかっていることを感謝いたします。あなたのみことばの前にたじろぐ私たちです。信仰に生きていると自分では思い込んでいながら、心の中に罪の領域を日々たくわえていて、隠そうとしても隠し切れず、あなたの前に化けの皮がはがされることの多い者です。 神様、どうか、そんな私たちをあなたのあわれみの中で生かして下さい。誰かを憎み、死んでしまえと思うほど心が汚れたままで人生を終えることがありませんように。神様の前に兄弟が姉妹が、仲直りする喜びを味わわせ、そのことで、みこころが実現しますように。主のみ名によって祈ります。アーメン。