愛は律法を完成する

  愛は律法を完成する エレミヤ313134、マタイ51720  2021.11.7

     

(順序)

前奏、招詞:詩編119140、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:11、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:83、説教、祈り、讃美歌:284、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式、讃美歌Ⅱ—179番、献金・感謝)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

イエス・キリストの山上の説教は古来、数限りない人々の心を揺り動かし、生きる力を与えてきました。皆さんもそうでしょう。山上の説教が世界に与えた影響ははかりしれないものがあり、たとえばロシアの文豪トルストイはこれを小さな聖書と読んで愛読し、また非暴力不服従運動で有名なインドのマハトマ・ガンジーも、ヒンドゥー教徒ではありましたがこれを大切にしていたと伝えられています。…ところが先日、内村鑑三が書いたものを読んでいたら、山上の説教の読み方について、トルストイは間違っていると言うのです。「トルストイ伯のキリスト教の解釈の根本的誤謬は、イエスの教訓の重心を、彼の宣べたまいし律法におきて、福音を見そこなったのである。」と。これだけでは何だかよくわかりませんが、そこには根本的誤謬というたいへん強い言葉が使われていました。内村先生、何を言っているんだろうと、私はとまどってしまったのですが、今になって少し見当がついてきました。それはトルストイが、たぶんガンジーも、聖書の中から山上の説教だけ特別に取り出してたたえているということです。山上の説教さえあればほかはなくても良いぐらいになっていたようです。その時、聖書のほかの部分は見えません。イエス様の十字架も復活も山上の説教の前に隠れてしまう、そんな読み方では表面的な見方しかできなかったということだろうと思われます。…このように、山上の説教が聖書全体の中でどのような位置を占めるかについても論争があるのですが、長束教会では、イエス様の十字架と復活を踏まえた上で山上の説教を語ってゆこうと思います。

 

私たちは5章の3節から12節までのところで、主イエスの祝福の言葉を聞きました。そして13節から16節で、主イエスの弟子とはどういう者なのかということを聞きました。それが地の塩、世の光だったのです。ただし、それらの言葉は、「山上の説教」全体の中ではまだ初めの部分です。「山上の説教」は7章の終わりまで続いていて、これを一つの大きな山にたとえると、私たちは一合目をようやく過ぎたかどうかと言うところでしょう。

 主イエスはここで、「わたしが来たのは律法や預言者を廃するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われます。律法や預言者を廃するとか完成するとか言われても、いったい何のこっちゃと思われる方がいると思いますが、ここの律法や預言者というのは旧約聖書の全体を指していると考えて下さい。旧約聖書の内容を目次から見ると、最初の5つの書物が律法の言葉、なになに書というのが預言者の言葉、それ以外の書物もありますが、まとめて「律法と預言者」という言い方がされていたのです。…イエス様はここで聖書の中でも特に律法のことを強調されています。旧約聖書の最初の5つの書物に入っている、律法について教えておられるのです。

 律法とは神の戒めです。律法がイエス様が地上におられた時代にどれほど重要なものであったか、教会ではよく知られています。この時代の信仰は、一言で言って「律法の宗教」と言っても良いようなものでした。

律法の中心はモーセの十戒になります。「あなたは私の他に何ものをも神としてはならない」、「刻んだ像を造ってはならない」、「主の名をみだりにとなえてはならない」、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」、「父と母をうやまえ」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽証してはならない」、「むさぼってはならない」、これが十戒です。…もっとも律法はこのほかにもたくさんあるのです。出エジプト記やレビ記などに様々な規定があって、「なになにしてはならない」、「なになにをしなさい」、こうしたものを全部数えた人がいて、その人によると613もあるそうです。これらも全部、律法に数えられます。

しかしそれで全部が網羅されているわけではありません。時の流れと共に新しい問題が起こってきます。そこで、旧約聖書には書いてない、さらに細かな規定が作られました。律法を専門に研究して教える人が出現します。それが律法学者です。律法学者の多くはファリサイ派に属しておりました。

 この律法の専門家が人々に対し、これは律法に適った行為だ、これは律法に反した行為だというふうに決めてゆきます、例えば十戒の第四条、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」を実生活に適用してみます。聖書には、安息日に働いてはならないと書いてあります(出2010)。そこでまず、働くとは何かと考え、安息日に荷物を運ぶことは律法違反になりました。…では、自分の子供を抱いて歩くことはどうなのか、…この日にランプをある場所から他の場所に移しても良いのか、…入歯をしたまま歩くことも荷物運びと同じ律法違反になるのだろうか、といったさまざまな問題が出て来ます。律法学者たちは来る日も来る日も討議して、こうした問題を考え、一般の人々に教えていったのです。

イエス様が地上におられた時代、律法学者を中心とする人たちは、神の意思は律法の中にすべて示されていると信じ、それを破るまい踏みはずすまいとして、戦々恐々として生きている人たちでした。

 こういうことを聞いていると、私たちはなんてばかばかしいと思ってしまいそうですが、昔のユダヤ人がすべてこうだったのではありません。そもそもモーセの十戒が与えられてからおよそ700年ぐらいは、まじめに律法を守ろうとする人はそう多くはなかったと思われます。紀元前586年に国が滅び、バビロン捕囚という苦難の時代になってからファリサイ派が出現し、われわれは神様に背いたためにこんな目にあっている、だから心の底から神様に帰ろうではないかということで、律法を大切にしようという動きが出て来たのです。だから律法をとうとぶことは、もともと正当な意義があったのです。

 ただイエス様が地上におられた時代、ユダヤ人が全部が全部、律法を重んじていたとは思えません。一般の人たちは律法をそれほど重んじなかったはずです。そもそも膨大な数の戒めをいつも気にとめながら生きてゆくことは出来なかったでしょう。もっとも、これをきちんと守ろうとしている律法学者やファリサイ派の人たちに対してはすごいなあ、と尊敬する気持ちはあったでしょう。一方、徴税人、遊女、そして異邦人といった人々は律法の外にいる人たちで、神様から頂く救いから締め出されている人たちだと思われていました。

 つまり、律法をすべて真剣に守りぬいてゆこうとする人たちが第一のグループだとすると、十分に守ることができない普通の人々が第二のグループ、そして律法の恵みが及ばないと考えられていた第三のグループの人々がいたと考えられます。

 

 話は変わりますが、最近アフガニスタンで政権を獲得したタリバンは、国際社会に対してイスラム法にのっとって国を治めるという言葉を繰り返していますが、おそらくこれは、彼らなりに律法を中心に国を運営していくという意思表示だと思われます。このように今も律法を中心にして生きている人々があり、欧米のキリスト教世界でも律法の影響が強いのではないかと思いますが、日本の場合、大昔から今日まで、もともと律法とは縁が薄い風土で、たいがいの人は教会に来て初めて律法という言葉を聞くことになります。皆さんも耳慣れないことがあるとは思いますが、がまんして聞いて下さい。

 古代のユダヤでは律法をたいへんに重んじる人々がいて、たとえ自分たちだけでも律法を守りぬこうとしていました。律法を守れるかどうかが生きるか死ぬかと言えるほど真剣な問題だったのです。律法は、彼らにとって、神の意思がそこに示されたもの、人間の救いがかかっているものであり、一点一画の変更も許されないものだったからです。このように、律法のただ一つの条項もゆるがせにせず、厳格に守って生きる生きかたを律法主義と言います。……これに対し、主イエスの立ち位置はどこにあったかと言いますと、福音書にいろいろ書いてあるように、主イエスは律法主義とたたかわれました。こののち主イエスが安息日に病人を癒したり、汚れているとされた人々と一緒に食事したりすることが起こり、これに対し、律法に反していると、律法学者たちが猛反発することになります。

 それでは、主イエスは律法を破壊するために来られたのでしょうか。そう思われることが多いのですが、しかし主はここで「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と言われます。これは私たちにとっても意外な言葉です。主は律法学者やファリサイ派の人々と同じところに立っているのでしょうか。

 主イエスが言われていることの意味を知るために、私たちは、主のこれに続く言葉、「律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」の「完成するためである」がどういうことかを理解しなければなりません。そのためには、マタイ福音書2234節から40節に書いてあることを見る必要があります。この部分をかいつまんで言います、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問された主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」を第一の掟、「隣人を自分のように愛しなさい」を第二の掟とした上で「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と答えておられるのです。…この箇所が語っていることは、いずれ説教で詳しく取り上げることになりますが、今日は簡単に律法の中心は神への愛、隣人への愛だと言っておきましょう。そうしますと5章17節で言われた「廃止するためではなく、完成するためである」が目指しているものは、この二つの愛であると言うことにならないでしょうか。

 律法の完成とは神への愛、隣人への愛という二つの愛が実現することです。しかし、ここでさらに重要なことは、主イエスは律法の完成としての愛を単に教えるだけの方ではないということです。主イエスは、十字架にきわまるその地上の生涯において、神への愛と隣人への愛を貫かれました。このお方において、神を愛し、隣人を愛せよという律法が完成されたのです。

主イエスは、その生涯の中でしばしば律法に違反するかのように見える振る舞いをされました。しかし、むしろそのことによって、律法の精神は生かされました。その意味で「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」のです。

 

 それでは5章20節の「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とはどういうことなのでしょうか。…ここでの「律法学者やファリサイ派の人々の義」というのは、すでにお話しした通り、複雑な律法の規定の一つ一つを全部、踏み外すことなく守ってゆくことです。その場合、神と一人一人の信仰者の関係は、お金の貸し手と借り手の関係のようなものであったと言うことが出来ます。人間は、神様から莫大なお金を借りていて、いつも厳しい取り立てにあっている。人間は一生懸命に借金を払おうとするけれども、借金はいっこうに減ってゆきません。ここで義というのは、私たちが借金取りに責め立てられながら苦心惨憺して払ってゆく借金のようなものになってしまいます。いくら善いことをしても、まだ足りないところがあるんじゃないか、ただ一つの間違いによっても自分の前に天国の門は閉ざされてしまうのではないか、…そういうところには平安がありません。

 そのような事態が、イエス・キリストの到来によって根本的、決定的に変わりました。……神と人間の関係は、もはや借金取りと債務者のような緊張関係ではありません。神と人間の間、つまり神と私たちの間にイエス・キリストが立っておられます。そして、コロサイの信徒への手紙2章13節と14節が語っていることが起こっています。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」。

 神と私たちの関係は、もはや根本的に変わったのです。私たちの前に、イエス・キリストが立っておられるからです。「義なるイエス・キリスト」(Ⅰヨハネ21)が立っておられます。……それならば、その時、主イエスがここで言われた「あなたがたの義」とは、もはや神様の前にあくせくと積み立ててゆく返済金のような義ではありません。それはただ一人、義である方、律法を完成された方であるイエス・キリストとの交わりの中に入れられた者たちの義、この方の義に与る者の義であるのです。

 神と私たちの間に、律法の完成者である主イエスが立っているということは、私たちが律法を無視して生きていて良いということではありません。律法学者のように、煩雑な規定を一つ一つ全部守らなければ救われないということではないので、日曜日に礼拝を守っていれば荷物を運んでも問題はありませんが、実はそれは律法学者やファリサイ派がしていることよりもっと難しいことかもしれません。そのことについては、これから続く礼拝説教でお話しすることにしています。  

 私たちが良い行いをしようとする、それはそうしないと天国に行けないと言うような恐怖の念からではなく、イエス・キリストによって救われた喜びから来るものであるべきです。イエス様とは比べものになりませんが、神様は、私たちが、律法の完成者である主イエスを仰いで、その後に従って歩くことを期待しておられるのです。どうか私たちの前にその一筋の道が見えてきますように。

 

(祈り)

 天の父なる神様。いま一つの信仰のもと、思いを一つ、望みを一つにして、みことばを聞き終えた私たちを聖霊でもって満たし、主イエスが律法を完成するために来られたことについての確信を与えて下さいますように。ユダヤから見て異邦人の地である日本に住む私たちは、主イエスが律法主義とたたかいつつ律法を完成させようとなさったことについて、あまりよくのみこめません。いわば律法主義が陥った落とし穴を通らずに、いきなり光輝く世界を示されて、とまどっているのですが、どうか私たちそれぞれが置かれているところから、全世界をつらぬく神様の御導きに対して目を開く者として下さい。主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。