ダビデとゴリアト

  ダビデとゴリアト  Ⅰサムエル174154、ロマ831   2021.10.31

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119137138、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:267、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

(説教)

 今日1031日は、ルターが宗教改革を始めてから504年目の記念の日にあたります。宗教改革は、高校の世界史の教科書にも登場する、世界の歴史を変えた大事件です。この出来事がめぐりめぐって日本にも波及して、私たちがこの広島長束教会で礼拝に出席しているのです。宗教改革がなければ私たちの信仰生活もありません。

 

 宗教改革は15171031日、一介の修道士であったマルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルクの教会の扉に「95か条の提題」を釘で打ちつけたときに始まりました。これは、ローマ・カトリック教会が販売していた贖宥券、一般に免罪符として知られるものに反対するものでした。

 カトリック教会は、人間が死んだのちに行くところとして天国と地獄以外に煉獄があるのだと教えています。まっすぐ天国に行けるほど素晴らしくもなく、地獄に落ちるほど悪くもない魂は、まず煉獄で苦しい日々を過ごし、償いを果たし終えてから天国に行くことが出来るのだそうです。そういたしますと、誰しも煉獄で苦しむ期間を短縮して、早く天国に行きたいと望むようになるでしょう。そこに目をつけたのでしょう、カトリック教会はこのようにふれまわりました。「キリストや聖人と呼ばれる人たちが積み上げたありあまるほどの功徳が天にたくわえられていて、それをローマ教皇は引き出すことが出来る。お金を出して免罪符を買った人は、強行のはからいで煉獄での苦しみが免除されるのだ」と。

 16世紀の初め、財政困難に陥ったローマ教皇庁は、サン・ピエトロ大聖堂の建築を理由に免罪符の販売を始めました。1514年にはドイツでの販売も始まりました。免罪符の販売人は、町をめぐって広場に入ると、教皇の偉大さを説き、煉獄での刑罰を述べて人々を怖がらせたあと、「お前さんがたがお金を箱の中に投げ入れると、その音と一緒に霊魂は煉獄から飛びたつのだ」と言って、免罪符を売って歩いたそうです。

 ルターのいるところの近くにも免罪符の販売人は来ました。人々は争ってこれを買い求めました。すると、その結果はどうなるでしょう。信者の間に罪そのものを恐れず、罪の結果としての罰を免罪符によって免れようとする傾向が強くなってきました。……こうしたこと苦々しく思っていたルターは、まず説教の中で免罪符に注意するよう警告しましたが、まもなく免罪符の販売人が持っていたマニュアルを読み、その中に「死者のために買った免罪符も有効である」と書いてあるのを見て驚かされました。これは、死んだ人のために免罪符を買ったら、その人の魂は天国に行くのだということです。その人が生前、自分の罪を悔い改めたかどうかは問題にされません。…こんなことがまかり通ったらどうなるでしょう。ルターはもはや免罪符を見逃すことは出来ませんでした。そこで免罪符について疑問と思う事項を95か条にまとめ、はりだしたのです。その第一条にはこう書いてあります。

 「われらの主でありまた教師であるイエス・キリストは『悔い改めよ』と言われたとき、信仰者の全生涯が悔い改めそのものであることを欲したもうたのである」。

 免罪符は人間の罪を何ら取り去るものではなく、罪の赦しはキリストを信じ、間違いを犯したことを悲しみ悔い改める信仰によって与えるられるべきものだ、このようなルターの考え方は今の私たちにとっては当たり前のことのように聞こえるかもしれません。しかし、それがいかに正論でも、認められるようになるまでは長い道のりがありました。そのことをお話しする前に、ルターが愛読したサムエル記から、ダビデとゴリアトの物語にふれたいと思います。

 

 時は紀元前11世紀の末です。イスラエルの民はペリシテ人と軍事的に対峙していました。ペリシテというのはいまは地上から消えてしまった民族ですが、パレスチナという言葉にその名前を残しています。イスラエルとペリシテが一つの谷をはさんで互いに陣取ったとき、ペリシテの陣地からゴリアトという兵士が進み出ました。彼は身の丈が3メートル近く、青銅で作った兜と鎧をまとい、鉄製の槍を振り回して、誰か自分と一騎打ちしようという者はいないのかと挑発するのです。しかしイスラエルの方ではゴリアトが姿を現わすたびに恐れおののき、なすすべもありませんでした。

そんなとき羊飼いの少年ダビデが、戦いに出ている3人の兄に食べ物を届けるためにイスラエルの陣営にやってきました。ダビデは味方の軍勢がゴリアトの前におびえているのを見て歯がゆく、憤りました。そのことがサウル王にも伝わって、その前に呼び出された時、ダビデは言いました。「自分はライオンや熊が羊を襲って奪い取ったとき、追いかけて打ちかかり、羊を取り戻します。ライオンも熊も倒してきたのですから、あのペリシテ人もそのようにしてみせましょう」。

こうしてダビデはゴリアトの前にひとり立ちました。ダビデは剣も持たず、武器として持っていたのは5つの滑らかな石と石投げ紐だけでした。ゴリアトはダビデは見てあざ笑いますが、ダビデは言います。「わたしは、お前を討ち、お前の首をはねる。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう」。

ゴリアトがイスラエルの軍隊に挑戦したことは、すなわち神に向かって挑戦したことでありました。ゴリアトの強大な力はイスラエルの軍勢をふるえあがらせました。しかしダビデにとっては、この男でさえ羊を狙っている獣のような者にしか過ぎなかったのです。……ダビデが石投げ紐を使って飛ばした石はゴリアトの額に命中しました。ゴリアトは倒れました。全地に神がいますことを認めさせるというダビデの目的は果たされたのです。

 

ダビデとゴリアトの戦いは、今では時代遅れになった大昔の戦闘に過ぎないのでしょうか。そうではありません。神の民の前にはとうてい崩すことが出来ないと思われた高い壁が立ちはだかっていましが、ダビデは真の神を信じる信仰によって、これを打ち崩したのです。こんなことは聖書の中だけの出来事ではありません。疑う人はルターの生涯を見て下さい。

ルターが「95か条の提題」を発表したことは、たいへん勇気ある行動でした。ルターはまず免罪符をめぐって討論会を開くことを望みましたが、討論を申

し出る人は現れませんでした。ルターはまた自分の意見を教会に送り、それはローマにまで転送されましたが、回答は得られませんでした。第一段階でルターの問題提起は黙殺されたのです。

ところが、まもなくルターの予想していなかったことが起こりました。ルターの意見が紙に写され、各地の大学を中心に伝えられていったのです。すると、それまで免罪符を有難がっていた人々の間に大きな反響を呼び起こしました。そうなるとカトリック教会の方でも黙ってはいません。2か月後、ルターへの反論を発表しましたが、このことは、ルターの身に危険が及ぶということでもありました。この時代、教会から異端者と宣告されると、火あぶりの刑を受けることがあったのです。

1519年7月、ドイツのライプチヒでルターとカトリック教会代表エック博士との間で神学討論会が開かれました。このときエック博士はルターが間違った信仰を持っていることを実証しようといろいろ質問しましたが、ルターがしっかり答えるので、そこで、フスという人についてたくみに話を持ってゆきました。フスは15世紀のチェコの人で、カトリック教会によって異端者として火あぶりになった有名な人物でした。今日では偉大な先覚者として尊敬されている人ですが。エック博士はルターからついに「フスの意見の全部が全部、間違いではない」という言葉を引き出しました。これを聞いて聴衆は恐ろしさのあまり息をこらしたということです。ルターは危険思想の持ち主だ、ということが強く印象づけられました。

そこで、これに力を得たローマ教皇は、ルターを破門をもって脅しました。教皇が出した宣言は「主よ、起きて、主の事件を裁いて下さい。一匹のいのししが主のぶどう園に侵入しました」に始まり、「もしルターが60日の間に意見を変えないなら、教会から追放されるだろう」というものでした。続いてルターの書いたものが公衆の面前で燃やされました。……この知らせはルターに大きな衝撃をもたらしました。自分の運命が一歩一歩、死に向かっていることを知った時のルターの気持ちを推し量ってみて下さい。…しかし、その中でもルターは屈しませんでした。ローマ教皇の宣言を読んで教皇こそキリストに反していると確信したルターは、これを人々の前で焼き捨てました。ついにカトリック教会と袂を分かったのです。

そしてもう一つ、ルターを語る際にヴォルムスの国会のことを欠かすわけには行きません。1521年、当時の神聖ローマ帝国の皇帝は、ドイツのヴォルムスで行われる国会でルターを査問するために呼び出しました。ルターは皇帝から安全を保障する通行証を受け取ってから出発しました。ヴォルムスの国会でルターの反対者はルターにつめよりました。「あなたは自分の書いたものを撤回しますか、それともしませんか」。ルターは答えました。「私は何も取り消すことはできないし、取り消そうとも思いません。自分の良心に反して、行動することは、安全でも、正しいことでもないからです。わたしは、ここに立っています。ほかにはなにもできません。神様、私をお助け下さい。アーメン」。

翌日、皇帝はルターに対し異端宣告を下しました。それから15日後、会期を終えて帰る途中のルター一行の前に武装した集団が襲いかかって、ルターは連れ去られました。ドイツ中が大騒ぎになりました。しかし、これはフリードリヒ大公という人のさしがねでありまして、誘拐事件という大芝居を打ってルターを自分の城の中に保護し、暗殺される危険から救ったのでした。ルターはこの隠れ家で、新約聖書のドイツ語訳という大事業を成しとげ、それはやがて活版印刷術という当時のニューメディアによって、ヨーロッパ世界に広く伝えられてゆきました。…ルターはこのようにして生きのび、プロテスタント教会を建設したのです。まことに驚くべき生涯ではありませんか。

 

ロマ書8章31節に聖書全体をつらぬくこの言葉があります。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」。よく知られている言葉で、誰でもこの意味はわかります。しかし、その言葉通りに生きている人の何と少ないことでしょうか。

ダビデは「全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう」と宣言しました。もしもダビデが他の人たちと同じように臆病風に吹かれてしまったら、イスラエルには神がおられない、と証明されることになったでしょう。そしてルターが強大なカトリック教会の前に自分の意見を封印してしまったら、やはり「教会には神はおられない」ということになってしまったでしょう。……しかしダビデにもルターにも神がついておられ、二人は神の力によって勝利しました。これはただ肝っ玉がすわっていてものごとを大胆不敵になしとげたということではありません。神のみこころに自分の思いが一致していることを喜び、それに勇気を得た結果、心の中から恐れが取り払われたのです。

多くの人は神が自分についておられるのにそのことに確信が持てません。神を見失って、いったい神様はどこにいるのかと思ってしまい、そのためによけいに不幸を抱え込むことになるのです。

しかし、神はおられます。ダビデをゴリアトに打ち勝たせ、ルターの前に立ちはだかるあらゆる困難を克服させた神はプロテスタント教会を立てて、そこに私たちを集めて下さいました。

宗教改革から500年が過ぎ、時代は大きく変わりました。つい4年前にはこの近くの長束修道院で、カトリックとプロテスタントが合同で、宗教改革を記念する集いを開催するまでになりました。しかし、先人たちのたたかいが忘れ去られてはなりません、宗教改革記念日は私たちの信仰の原点を思い起こす日、そして神様によって勇気を与えられる時です。

私たちの教会は改革され続ける教会です。イエス・キリストが立てた最初の教会を目指して、……広島長束教会もその中にいるのです。

 

(祈り)

 父なる神様。

 私たちは神様によって救われた群れ、イエス・キリストがとうとい命を差し出して救って下さった者たちです。私たちは一人だけで神様を信じぬくことは出来ません。みな教会によって信仰を養われています。教会なくして信仰なし、この教会を神様が祝福し、導き、改革して下さったことを今日、心から感謝いたします。はるか昔のダビデ、そしてマルティン・ルターの不屈の戦いによる勝利を、どうか私たち自身の勝利として下さい。私たちは偉大な先人たちに比べとるに足りない小さな者ですが、どうかそれぞれが生きている場で、信仰によってつちかわれた勇気を発揮することが出来ますように。弱い私たちをイエス様によって強くして下さい。

 神様、広島長束教会のために祈ります。私たちは礼拝に出席する人数が少ないことを悲しんでおりますが、何よりもいまここにいる一人一人をほんものの信仰によって生かして下さい。この世の不信仰に勝たせて下さい。

 

 神様、今日は大切な国政選挙の日です。どうか世界の平和と人々の幸いを願い、日本の国を正しい道へと導こうとなさる神様のみこころが、この選挙に現れますように。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。アーメン。