株から芽が萌えいで

株から芽が萌えいで イザヤ11110、マタイ31617 2021.10.24

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119136、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:5、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:96、説教、祈り、讃美歌:290、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 こんなことは誰にもあってほしくありませんが、人間、閉塞状況で八方ふさがりになったり、絶体絶命のピンチに陥って、どこにも出口がないような時、崩れることなく生き抜いていくために必要なものは、夢を見る力なのかもしれません。…悲惨な例を出しますが、ポーランドにアウシュビッツ強制収容所があって、第二次世界大戦の間、100万人のユダヤ人が送られてガス室で殺されてしまいましたが、この収容所で生き延びたフランクルという人は「ひとつの未来を、彼自身の未来を信じることができなかった人間は収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」と書きました。さらに「繊細な性質の人間がしばしば、頑丈な身体の人間よりも、収容所の生活をよりよく耐え得た」と、「なぜなら、彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである」とも言っています。

 心になにかしらの夢を持っている人は、どんな逆境でも、それが生きるか死ぬかの時であっても、くずれることは考えにくいのです。もちろん、その夢が妄想になってしまうとそうはいかないと思いますが。心に夢があって、これに向かって一歩でも二歩でも進んでいこうとする人のまわりには、「そんなの無理だよ」とあざ笑う人がいるものですが、そういう人の方がかえって自分が危機に陥った時、もろいのです。

 今ここには、若さを謳歌している人や、年を取ってはいても元気はつらつ、気力も体力も充実しきっている人が多いとはいえ、人間を「もうだめだ」と落ち込ませ、お先まっくらにさせてしまう要因はいくらでもあります。病気になったり死が迫っているということがそうですし、これまでのことを振り返って自分の人生これで良かったのか、という思いになることもあるでしょう。中には日本の国の行く末を思って、涙が止まらないなんて人もいるかもしれません。

実は、古代のイスラエルの人々にこうしたことすべてがおおいかぶさっていた時代があったのです。今日の箇所です。…というのは、彼らはまず国が滅びるかもしれないというところにいました。イザヤ書11章の預言が発せられたのは紀元前700年頃、ユダの国の運命は超大国アッシリアの前に風前のともしびになっていました。国が滅びてしまえば、命があるかどうかもわかりません、これからいったいどうなるんだという状況ですが、自分の人生はいったい何だったのかということもあったでしょう。…イスラエルの民を一本の木にたとえますと、すでに大きな枝も小さな枝も切り落とされ、ついに木そのものが根本から切り倒されようとしていました。木が切られてしまえば、祖国も自分たちも、あとは死あるのみではないか、こういう暗たんたる未来しか見えてきません。そこに残されたのは絶望か、あるいは何かつかのまの楽しみに逃げてゆくしかなかったのですが、こんな時に神からイザヤを通して言葉が与えられました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち‥」と。

 

先ほど讃美歌で「エサイの根より」と歌いました。有名な讃美歌です。しかしエッサイとは何でしょう。これは人名なのですが、わかりますか。よろしかったら、わかる人は手を上げて下さい。……。でもエッサイがわからなくてもどうってことはありません。そもそも有名人ではないからです。この人はダビデ王の父親ですが、王のような有名人でも社会的地位が高い人でもなく、一介の羊飼いでした。

ダビデはまだ王になっていない時、サウル王に仕えていたのですが、やがてサウル王と不仲になり、その頃サウル王がダビデのことを「エッサイの子が」と言っている場面がいくつかあり、(Ⅰサム227など)これは上から見下ろした言い方です。日本では「だれそれの子」という言い方は珍しく、あえて言うなら権兵衛さんの息子と言った感じでしょう。だから、イザヤが初めて「エッサイの株から」と告げた時、エッサイって誰だ、という人が多かったと思うのです。エッサイの名を使わずにダビデの株から若枝が、と言った方が効果的であるのはわかりきっているのに、あえて無名の人物の名前を持ってきたのです。

 イザヤが「ダビデの株」ではなく「エッサイの株」と告げたことには意味があります。もしもダビデの株から芽が出ると言えば、この当時、細々とではあっても存続していたダビデ王朝が再び勢いを盛り返すと受けとられたでしょう。しかし神は、ダビデ王朝がやがて倒れることを見据えておられました。事実、預言から約120年ののち、ユダの国とダビデ王朝は倒れてしまいます。…でも、それがすべてではありません。神は、ダビデ王朝が倒れてもダビデ王家の血を引いている者の中から若枝が育つと告げて下さったのです。それがエッサイの名を持ってきた理由です。…それは誰なのか、すべての教会がここにイエス・キリストが予告されていると考えています。そのことを証明する言葉の一つはゼカリヤ書6章12節です。「万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」。…イエス・キリストは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われました(ヨハネ221)。その神殿とはご自分の体のことで、神殿の崩壊と再建は十字架の死と復活のことだったのです。

 日本は孤立した島国で、外国に占領されていたのは戦後の6年ぐらいしかなく、イスラエルの民とは比較になりません。風前の灯のようなユダの国がついに倒れたのが紀元前586年、それ以来バビロニア、ペルシャ、マケドニア、そしてローマとずっと他民族によって支配された状態のまま、イエス様を迎えることになるのです。それはあたかも木が倒されて切株しか残っていないという悲惨な状況でしたが、神はその切り株から芽を生えさせ、若枝が育って実を結ぶことを約束して下さいました。誰もが望みを失ったそのただ中に神の救いが予告されたのです。

  絶望的な状況下にいたユダヤ人にとって、この預言はあたかも一条の光、干天の慈雨、地獄に仏ならぬ地獄にキリスト、だったでしょう。この預言を信じられなかった人は絶望のまま人生を終わったのでしょうが、しかし、信じた人はこの言葉に支えられて、その後の苦難の時代を、どんなにつらくても希望を抱いて歩むことが出来たにちがいありません。

 若枝と言い表せる方はどういうお方なのか。2節は「その上に主の霊がとどまる」と言います。主の霊とは聖霊です。…イエス・キリストはその誕生自体、マリアが聖霊によってみごもったことから起こりましたが、次に聖霊が現れるのはヨルダン川でバプテスマを受けた時です。主イエスは聖霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になりました。すると「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。ここに父なる神、子なる神、聖霊の三位一体なる神の現れがあります。こうして主イエスは伝道を開始されます。その進む道には聖霊が伴っていました。聖書には、主イエスが聖霊に導かれ、悪魔の誘惑を受けるために荒れ野に向かったこと(マタイ41)、ナザレの会堂で「主の霊がわたしの上におられる」と言って話し始められたこと(ルカ418)、また聖霊によって伝道の実りを喜ばれたこと(ルカ1021)が書いてあります。主イエスが数々の、驚くべき、歴史上唯一無二のみわざを行われた時、その上に主の霊がとどまっていたのです。

 2節のところで主の霊が三つの霊として表されています。三つ、それぞれ別の霊があるということではなく、一つの聖霊にいくつもの働きがあるということです。主の霊は知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊という働きを持っています。ただ、その中でいちばん強調されているのが「主を畏れ敬う霊」です。こののち切株から出た若枝として現れる方が君臨する時、たとえどれほどの能力を持っていようとも「主を畏れ敬う霊」が抜け落ちていたならば何にもなりません。この場合、天の父なる神を畏れ敬う霊ということになります。これがないと、世界のどこにでもいる、権力欲のとりこになった人物にしかすぎません。箴言に書いてあるように「主を畏れることは知恵の初め」(箴言17)だからです。

 イエス・キリストは主を畏れ敬う霊に満たされた方ですから、「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその実に帯びる」。この地を正しく治めるということですね。イエス・キリストは王であられます。天において今も世界を治めておられるのです。その方法は正義に基づいて行われます。「貧しい人を公平に弁護する」とあるように社会正義を実現されます。…ユダの国の亡国の危機を引き起こしたものは彼らがまことの神から離れたことにあり、そこから社会のゆがみと苦しみが生まれたのですが、その渦中で与えられたこうした言葉は人々をおおいに励ましたにちがいありません。

 ここでひとつ確認しておきましょう。イエス・キリストが王であり、世界を支配しておられることを信者は教えられていますが、誰もが知っているように、今ある世界は神のみこころに適った世界だとはとても言えません。ほんの一握りの大金持ちのまわりに貧しい人たちがあふれています。法が曲げられ、戦争や戦争につながる危機があります。私たちが生きているのが理想の社会でないとすれば、キリストが治めているはずの世界でなぜということになるでしょう。

 しかし、これは、キリストが世界を支配しておられないということではありません。キリストが十字架と復活を経て天に帰られて以来、世界は少しずつ変わっていきました。紆余曲折はあります。前に向かっていたと思ったら、後ろに下がっていたということも当然あります。けれどもキリストは彼に従う大勢の人を起こして、世界を少しずつ良い方向に向けて導いて下さっています。理想の社会の完成はやはり歴史の終局、終わりの日ということになりますが、イザヤは神様からその世界のビジョンが与えられ、いつの日かそれが実現することを告げたのです。…私たち一人ひとりの人生も小さいながらそこにつながっていまから、神のこの言葉は私たちにとっても心の支えになるのです。

 

 それでは6節以下に進みますが、これを読んで唖然としてしまった人がいるかもしれません。イザヤの口から直接これを聞いた人たちならなおさらでしょう。

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」、ここから始まる言葉は、まず第一に、戦争も争いもない平和な世界が訪れることを教えています。紀元前700年当時は戦乱に明け暮れた時代ですから、平和な世界なんて考えられません。殺すか殺されるかが当たり前の時代ですから、これは単なる夢想として受け取られた可能性も十分にあります。しかし、これは人間が考え出したものではなく、神様から示されたものですから、平和な世界はいつの日か必ず実現します。イスラエルの民はこれ以降の苦難の時代、神が示して下さった平和な世界のビジョンに支えられて歩んだことと思います。そして、今日にいたるまで、世界中の、平和を愛し、平和を実現するために力を尽くす人々の心にここの言葉が生き続けているのです。

 しかし、ここには大きな謎があります。狼は小羊と共に宿りとか、子牛と若獅子を小さい子供が導くというのは私たちの頭を混乱させます。…おそらくここでは、人間と自然が和解したすばらしい世界が示されているのでしょう。他の生物を苦しめ、地球環境を破壊する人間の愚かな行いに終止符が打たれ、人間も動物もすべて神様をたたえて生きる素晴らしい未来の世界の情景です。

 「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」ですが、皆さんはエデンの園で蛇が人間をだまして罪に引きずりこんだことを思い出して下さい。あの蛇はサタンでした。終わりの日にサタンが退治されて、罪が滅ぼされることで、蛇と小さな子どもだって仲良くなることができる、と解釈することができましょう。

 もっとも、これだけでは済みません。そもそもエデンの園の話が謎だらけですから、この話も謎だらけです。皆さんは蛇がエデンの園で人間の言葉を話すことが出来たと思いますか、これにつながる問題があるのです。

 聖書を一字一句そのまま信じる逐語霊感説に立つ人は、創世記の最初の部分を読み込んでこう主張しています。「大洪水が起こるまで人は木の実や畑でなるものだけを食べていて肉食をしなかった。動物も他の動物を食べることはしなかった。それが大洪水のあと、神は人間に『動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい(創9:3)』と言って肉食を許可した。動物が他の動物を食べることもその時から始まった」と。そして、その観点からイザヤ書11章を読むと、「終わりの日、世界は大洪水の前の平和な世界に戻る。動物が他の動物を襲って食べることもなくなり、小さい子どもが猛獣や蛇と一緒にいても何の害も受けない。神の言葉はそのまま実現するのだ」となるのです。

 ただ、私が創世記の初めの部分を調べてみたところ、大洪水の前、アダムとエバの息子、アベルは羊飼いで、神様に羊を捧げています。羊の肉がおいしいから捧げたのでしょう。だったら、その当時、人間が羊の肉を食べなかったとはちょっと信じられません。動物が大洪水のあと初めて他の動物を食べるようになったというのも証拠になる言葉がありません。…そもそも、猛獣や蛇が人間にとって無害な存在に変わるものでしょうか。神様に不可能はないのですが‥‥。ということで、不信仰だと言われるかもしれませんが「狼は羊と共に宿り」といったことが文字通り起こるのかどうか、分からないとしか言えません。人智では想像もできない神の驚くべきみわざを伝える時、このような言い方しか出来なかったということではないでしょうか。

 私は、聖書の言葉をわからなくてもそのまますべて信じなさいと言うつもりはありません。文字通り信じている人も、疑っている人も、わからないという人もみなその思いを神様の前に祈りにおいて吐き出す時、何らかの導きが与えられることでしょう、

 

 イエス・キリストを満たした聖霊が、この方を信じる者たちに与えられ私たちをも満たして下さることを感謝します。聖霊の導きのもと、私たちはイザヤが伝えた預言がいつの日か必ず実現すること、私たちが人生で体験する喜びも悲しみも、みな神様が示して下さるこのビジョンにつながっていることを信じるのです。その時、いつも変わらないように見える毎日の生活の中に新しい世界が見えてきます。自分の中から出て来た夢は実現しないで、挫折することがあります。しかし神様から来たものは、必ず実現し、世界を、そして私たちをその世界に向けて導いていくのです。

 「大地は主を知る知識で満たされる」、このような世界が早く来ますように。イエス・キリストの栄光がすべてのものを照らす輝く未来を仰ぎ見つつ生きる、私たちの毎日が祝福されますように。

 

(祈り)

 天の父なる神様。神様はイザヤを自分の罪とその結果のために絶望しているユダの人々に遣わされて、絶望するのはまだ早い、今の苦しみの先に希望があるのだと教えて下さいました。神様がご自分にそむく人間たちに対し、忍耐に忍耐を重ねたにもかかわらず、これほどの恵みを示して下さったことについて、もはや言うべき言葉がありません。

 神様、私たちの心と体をどうか神様への深い感謝の内に再び立ちあがらせて下さい。もしも信仰の確信を失い、この世にのまれそうになっている魂を見出したら、信仰の初心を思い起こさせて下さい。苦しみの中にあえぎ、夢も希望もないという人にこそ、神様に根拠がある夢を見せてあげて下さい。たしかな希望によってその人を生かして下さい。切り倒されても死なない若枝イエス・キリストにはその力があるからです。

 

とうとき主の御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。