神のしもべとして生きる

神のしもべとして生きる 創91829、エフェソ659  2021.10.17

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119135、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:3、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:142、説教、祈り、讃美歌:365、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

紀元1世紀、パウロがエフェソの教会に手紙を書いた当時、奴隷と呼ばれる人の数は相当多かったようです。例えばローマには90万から100万の人が住んでいて、そのうち市民が60万、それ以外が奴隷と解放奴隷と外国人だったと推計されています。ローマ帝国全体では六千万の奴隷がいたと考える人もいます。奴隷の人口が多いのは、ローマ帝国が戦争のたびごとに敵の捕虜を奴隷にしたからです。この時代、ローマ帝国の各地に造られた教会には、どちらかと言うと経済的に裕福な人より貧しい人の方が多く、奴隷で信仰を持った人がいたことは確かです。 

この時代の奴隷はみんな、私たちが想像するような、鎖でつながれ、鞭で打たれて酷使される人たちでしょうか。もちろん、そういう人もたくさんいました。その中に虐待に耐え切れず、実力で立ち上がる人もいました。紀元前73年から71年にかけて、スパルタクスという人が中心になって起こった武装蜂起はローマ帝国を震撼させました。この事件はのちに映画になったり、バレエになったりして、今も語りつがれています。

一方、同じ奴隷でも、家に属して家事労働に従事する人、また教師、会計士、医師といった人たちもいました。ローマ帝国のあらゆる分野で奴隷が働いていたようです。その中には、主人と家族から愛され、信頼されていた人もいて、奴隷がすべて悲惨な境遇にあったとは言えません。しかし、そうであっても奴隷は人格を持たない物件にすぎなかったのです。

21世紀の現在も、世界を見渡せば奴隷が4000万人いるという集計があります。日本でも、奴隷という言葉こそ使わないもののそれに近い人はたくさんいます。外国人技能研修制度の名目で酷使される人や、職場で「お前のかわりなんかいくらでもいるんだ」とののしられ、過労死するまで働かされる人は現代版の奴隷ではないでしょうか。奴隷制度は形を変えながら今なお残っているとみなすべきでしょう。だからパウロがここに書いていることは、決して大昔の、過ぎ去った出来事ではありません。

 

パウロはこの手紙の中で、奴隷たちに向かって、「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」と呼びかけていますが、これにはすぐには納得できない人が必ずいるはずです。ここで私たちは大きな問題にぶつかります。…というのは、今の時代、奴隷制度は悪だということが社会の常識になっているからです。本音のところでは奴隷制度があって良いと思っている人でも、そんなことを口に出すことは出来ません。…そうしますと、ここから、パウロは奴隷制度を認めているのか、なぜ奴隷制度に反対しないのか、という疑問が出てきます。これは決して、軽く見ることの出来ない問題です。

 

さて、ここで一つ、聖書は奴隷制度を認めているという立場で論理を組み立ててみようと思います。これは聖書を間違って読むとどれほどひどいことになるかということを示すためであり、私はこの立場に賛成する者でないことをあらかじめ申し上げておきます。

近世・近代において、奴隷の問題で広く世界に知られたのはアメリカ合衆国です。アフリカから無理やり連れて来られた黒人奴隷が人間以下の扱いを受けていたことで、奴隷制を維持している南部と奴隷制に反対する北部の間で1861年から1865年まで南北戦争が戦われ、奴隷制は廃止されましたが、黒人の問題は今も解決していません。

昔のアメリカの教会が何を教えていたのかと思って、ちょっと調べてみました。英語の資料がなかなか読めなくて不十分なのですが、アメリカ南部の多くの教会では、少なくとも南北戦争が終わるまで、聖書に基づいて奴隷制度を肯定していたものと考えられます。

実は、聖書の中から奴隷制度を認める論拠を見つけるのはさして難しくありません。まず、長老に読んで頂いた創世記9章です。大洪水を生きのびたノアの一家ににはセム、ハム、ヤフェトという3人の息子がおり、ハムの息子をカナンと言いますが、酔っぱらって寝てしまったノアを激しく怒らせることが起きました。そこでノアはカナンに対し、セムの奴隷となれと、呪いの言葉を発するのです。聖書をそのまま文字通り読むと、大洪水を生きのびたノアの子孫が世界に広がったことになっており、ハムの子孫が黒人になったと読み取れるので、ここから、神はハムやカナンの子孫、すなわち黒人を奴隷に定めたのだと結論づけることができます。

またエフェソ書の今日の箇所からも、パウロは奴隷制が存在することを前提に教えているので、パウロは奴隷制に反対していないということが導き出されます。

従って、奴隷制は神が認められた制度となってしまうのです。そこで誰かが「黒人奴隷にも人権を!」なんて言うと、「あなたの言うことは聖書に反している、神に背いている」という反論が帰ってきただろうことは十分に想像できます。

私たちキリスト者の信仰の唯一の規範が聖書だということに異を唱える人はいません。しかし、聖書を一字一句そのまま信じようとする人たちともっと考えて読もうと言う人たちの間でこれまで幾多の論争が続いてきました。…奴隷制の次に来たのが進化論を巡る問題で、今アメリカには聖書と進化論のどちらを信じるのかと二者択一を迫る人々がいます。…3番目が女性についてで、パウロが「婦人たちは、教会では黙っていなさい」(Ⅰコリ1434)と書いたために、女性教職を一切認めない教会もあれば、日本キリスト教会のように認める教会もあります。…そして今、LGBTについて、聖書で同性愛等は禁じられているとしてこれを一切認めない教会と、そのように生れついた人の人間としての尊厳を回復しようという教会の間でたいへん難しい、激しい論争が起きています。そのために分裂した教会がいくつも出ています。

聖書の言葉、一字一句をそのまま信じることでおかしな結論が導き出された場合、それまでとは違う解釈に踏み切ると聖書の権威が揺らぐかもしれません。そのため教会は悩むのです。…奴隷制度に話を戻します。かつては聖書は奴隷制を認めているという教会が多かったのですが、今日ではどれほど変な教会であってもそこまでは言いません。ここに至るまでいったい何があったのか、…おそらく聖書を全体的にとらえたことで前進できたのでしょう。自分にとって都合の良い聖句だけを持って来るのではなく、聖書全体を見渡すなら、神の民イスラエルの歴史の中心に出エジプトの出来事があったことを無視するわけにはいきません。…神はイスラエルの民がエジプトで奴隷として虐待されていたことを許されません。彼らを救い出して自由への旅を導かれましたが、この事実は、奴隷制を認めるすべての論拠を掘り崩すものです。ですから、聖書が奴隷制度を認めているということは絶対にありません。このことを確認した上で、パウロが教えたことを検討してみましょう。

 

ある人は、パウロが奴隷制の是非について触れなかったのは、福音はそのような社会問題と何の関係もないからだと考えます。人がキリストに出会って救われたかどうかが重要で、身分とか階級とかいうことは救いとは無関係だ、とパウロが見なしたと言うのです。…またある人は、奴隷制度は当時の社会では当たり前のことであって、パウロも時代の子として疑うことはなかったと考えます。しかしながら、パウロが奴隷制度に対して無関心だったり、疑わなかったとは考えられません。彼は誇り高いユダヤ人のひとりとして、出エジプトの出来事をよく知っていましたし、世界中を歩きまわって虐げられた人々を見なかったはずはありません。聖書にフィレモンへの手紙という短い文書があります。これは主人のもとから逃げた奴隷のことで、パウロが主人に対し、彼をあたたかく迎えてほしいと訴えた手紙です。パウロは実際に奴隷のために力を尽くしているのです。

だだ、パウロは奴隷制度を否定する言葉を残していませんし、また奴隷に向かい、主人に反対し、鎖を切って立ち上がれとは言いません。この点を歯がゆいと見る人は多く、「パウロはなぜ、奴隷に武器をとって戦うよう勧めないのか」と言いたいところでしょう。けれども、パウロはまさにこのところで奴隷制度を改革する手段を示しているのです。

 奴隷制度は決して見逃してはいけないもので、虐げられた人たちの立場に立って、非暴力の手段でたたかう人はいつの時代にも必要です。しかし、そのために暴力に訴え、武器をとって戦うことが正しいかどうかは大変難しい問題です。アメリカでは1859年、白人のジョン・ブラウンという人が奴隷制打倒を目指して武装蜂起をして絞首刑になり、続いて南北戦争で、大勢の北軍の兵士たちが奴隷の解放のために命を捧げました。1960年代にも、キング牧師の非暴力路線に反対して実力で闘おうとするマルコムXなどの人が出ましたが、こうしたことについては、神様のご判断に委ねなければならないところが多いと思われます。

 

パウロは全く別の角度からこの問題に切り込んでいます。「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののいて、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」

 どうしてこのようなことが言えるのでしょう、パウロには、心が奴隷状態である人は自由ではないとわかっていたのです。奴隷の身分であってもなくても、不自由な人はいます。億万長者でも不幸な人はいます。…罪の奴隷という言葉がありますが、人間をむしばむ罪に取り込まれている限り、人は罪の奴隷で、いつまでも不自由で不幸な状態のままいなければなりません。これに対し、キリストの奴隷であることは罪から解放されることですから、自由で幸福なのです。キリストの奴隷というと戒律にしばられるみたいで不自由だと思う人がいますが、そうではありません。…人はつまるところ、キリストの奴隷になるか罪の奴隷になるかしかなく、キリストの奴隷である限り、その身が奴隷であっても、本当の自由と幸せがあるのです。

 パウロは奴隷に対し、キリストの奴隷、キリストに従う者としての生きる喜びを教えます。キリストに従うように、主人に対し、真心を込めて仕える、そこから主人と奴隷の間に正しい、良い関係が生まれてきます。もちろん、乱暴で無慈悲な主人もいるでしょうが、善をもって悪に勝つのです、忍耐のいることでありますが。…このようなことは決して無益ではなく、それがやがてつもりつもって、奴隷によって成り立っている社会を少しずつ変えてゆきます。人の心、人と人との関係がキリストによって変わってゆく時、初めて社会が変わるのです。これに対し、武装蜂起のようなことは、ここからさらに悪を呼び込むので、社会をかえって暗転させることが多いと考えられます。

 昔の人と同様、私たちも神様の配剤によって今いる場所に置かれています。だからパウロが教えているように、心からキリストに仕えている時、自分の上に国の指導者や会社の上司を初め、頭が上がらないどんな人がいたとしても自由ですし、そこから自分が置かれている状況を改善する道が示されるのです。

 皆さんはパウロの言葉の中で「恐れおののき」という言葉に引っかかるかもしれませんが、フィリピ書2章12節は「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と書いてあります。神に対し恐れおののくことは救いの達成に必要不可欠です。そのような思いで、自分の上に立つ人に接する、これは卑屈になることではありません。神様が主人を立てられたゆえに主人を尊ぶのです。…そうして9節に書いてある主人に対する教えは、主人に対しても、天にその主人がおられることに気づかせます。奴隷の主人も、より高い権威に対して責任を持つ神のしもべ、キリストの奴隷にならなければいけません。

 神様は古代の奴隷制社会を一挙に変えようとはなさいませんでした。現代社会もまだ人々が完全に解放された社会ではありませんが、一挙に革命を起こして旧社会を転覆したとしても、さらに悪い結果が起こる可能性ががあります。神様が社会の悲惨な状況に対しなぜ沈黙しているかのように見えるかはわかりませんが、理想の社会に向かって一歩一歩進んでゆくその過程こそ重要なのです。奴隷も主人も、あらゆる人がキリストに従うことが、だからいっけんかたつむりのようにのろい歩みのように見えても、最も着実な歩みであることを覚えておきましょう。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。私たちはこれまで、自分が神様のしもべ、キリストの奴隷であることを忘れ、常に人より高い地位や華やかな生活を手に入れることを求めて、無益な競争にあけくれておりました。どうか、こんな私たちが、神様の召しに従った歩みをすることが出来ますように。まことの献身の道を教えて下さい。上に上にと上りつめようとするより、むしろ服従に生きようとすることによって、神様の豊かな恵みに生きる者となりますように。

 

 とうとき主イエス・キリストのみ名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。