地の塩、世の光

地の塩、世の光   イザヤ書4959、マタイ51316     2021.10.10

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119134、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:Ⅱ―144、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:Ⅱ―80、説教、祈り、讃美歌:309、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

イエス・キリストは山上の説教を、キリスト者に与えられた8つの祝福をもって始められました。最初が「心の貧しい人々は、幸いである」で、これに続くのが「天の国はその人たちのものである」。最後の8番目が「義のために迫害される人々は、幸いである」、これも同じように「天の国はその人たちのものである」という言葉で結ばれていました。

主イエスのお話は2000年の時を超えていま私たちに届けられています。今日の箇所で、10節を見てまず気がつくことは、ここから「あなたがたは」と、呼び方が変わったことです。「こういう人たちは幸いである」という一連の教えが終わって、今度は「あなたがたは」となった、イエス様の前にいるすべての人が、私たちも含めて、ここにあてはまるのです。

「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」。この箇所に、ある人が表題をつけました。それは「弟子たる者の本質」というものです。まさにそのことが言われています。ここでは、主イエスの弟子であるとはどういうことなのかが説かれているのです。

 今ここには主イエスの弟子と言われてもピンとこない人がいるかもしれませんが、ピンとこようがこまいが、イエス様の教えを通して恵みを受けている人はみな主イエスの弟子なのです。

 

 山上の説教と言いますが、私が30年前、現地に行って見たのは、山というより丘のような場所でした。主イエスは弟子たちと群衆を前にして、この時代、マイクなんかありませんから、大きな声をはりあげてお話しになりました。「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」、言われた方の人たちは、なぜこの自分がと思って驚いたでしょう。

 主イエスはここで4つのたとえを語っておられますが、2番目、3番目、4番目のたとえは一つにまとめられます。…最初に出て来るのが13節の「塩」の譬え、二番目が14節の「光」の譬え、三番目がやはり14節の「山の上にある町」の譬え、四番目が15節の「ともし火」の譬えです。…これらについて考えてゆきますが、その前に私たちは、それらが単独では存在していないこと、つまり人々がいて塩があり、世があって光があり、見る人がいて町があって、照らされるものがあってともし火がある、ということを確認しておきましょう。塩や光などにたとえられるの弟子たちの本質は、周囲の状況との関係の中で語られているのです。

 もう少しお話しします。キリスト教に限りませんが、信仰を持つ人の中で、その信仰が自分ひとりだけで完結している人が時々います。以前、テレビで見たのですが、ギリシャ正教の世界で、地面から高くそびえたった塔の中で何十年も過ごしている人がいました。誰とも会わないでただ一人、祈りと修行に励んでいるということです。これは極端な例かもしれませんが。その場所で得たものを何かの形で社会に還元しているのでしょうか。もしも、そんなことを一切しないまま、信仰にもとづく行為が完結してしまうとすると、それはいったい何の意味があるのかということになります。

カトリック教会などには修道院があり、祈りと労働の清い生活が営まれています、そこでやっていることが意味がないとは決して言いませんが、…修道院に入っていたマルティン・ルターはそこを出て、外の世界に飛び出しました。自分がいるべき場所はこの世、多くの人がいる世界であると確信したからです。

すなわち主イエスの前にいる人たちが「地の塩」であると言われた時、それは地の中の塩なのです。「世の光」であると言われた時、それは世の中の光なのです。また、弟子たちが「山の上にある町」に譬えられて、その町が「隠れることができない」と言われる場合も、その町を人々が山の麓から見上げていることが前提になっています。15節の「燭台の上のともし火」も同様で、ここでも「家の中のものすべてを照らす」という言葉が示しているように、「家の中のものすべて」との関係における「ともし火」の働きが問題になっているのです。……従って、この13節から16節までの箇所は、主イエスの弟子たちが置かれた場所、生きている世界の中での本質であると、言わなければなりません。

 主イエスが「あなたがたは地の塩である」と言われた時、「地」と言うのは、この世、人間世界のことです。主イエスはご自分の話を聞いているすべての人に向かって「あなたがたは人間世界にとっての塩だ」と言われるのです。

「人間世界にとっての塩」とは何でしょう。塩の働きは、昔も今もあまり変わりません。それは汚れを清める働きとか、腐敗を防ぐ働きとか、食べ物に味をつける働きとかをさしています。そこから、人間世界にとっての塩と言う時、世の汚れに染まず、身を清く保つことばかりでなく世の中の悪に立ち向かい、社会の腐敗を防ぐ働きが期待されています。…さらに、人生に味をつける働きも言われています。これは皆さんにはちょっと意外かもしれません。クリスチャンに会ってみたら、なんか病的で陰鬱な印象を受けた、これではどうかと思います。初めはそうであっても良いのですが、そこから生まれ変わることが期待されています。悩み多い世の中にあって、クリスチャンには清らかな明るさや喜びがなくてはいけない、それが人生に味をつけることなのです。

 しかし、もしもその働きが損なわれてしまったとしたらどうでしょう。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」。塩の塩気そのものが、保持されているかどうかが問題となってきます。

塩気がなくなった塩とは何でしょう。現代人は、塩が塩気を失うことがあるのかと思います。しかし、この時代の塩は今のような質の良いものではありません。不純物の多い岩塩を持ってきたので、その中に、土と混じり合った塩があって、しかもそれが空気中の湿気と混じって溶けてしまったりしていると、使いものにならないので、捨てられるだけでした。「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。…これは実に厳しいことばです。

「地の塩」についての教えは、次の「世の光」の譬えによって一層明確になります。主イエスは「あなたがたは世の光である」と言われます。主イエスの弟子たちが「世の光」であるということは、弟子たちが世を照らす光であり、世に対して輝く光であるということです。もしも世を照らさない光や世に対して輝かない光があれば、それは塩気がなくなった塩と同じで、外に投げ捨てられるしかありません。

ところで「あなたがたは地の塩である、世の光である」という言葉で驚かされるのは、その断定的な言い方です。

 もしも主イエスが「あなたがたは地の塩になりなさい、世の光になりなさい」と、命令の言葉を口に出されたのであれば、私たちはそれがどんなに難しいことであったとしても、それほどは驚かないでしょう。…また、もしもこの言葉が「あなたがたは、やがて地の塩になるだろう、世の光になるだろう」であったなら、私たちはこれを自分たちへの励ましの言葉として受け取って、安心するでしょう。しかし、主イエスはそのような意味でお語りになったのではありません。主イエスはそれがもう既定の事実であるかのように、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と断言されます。私たちの側の信仰の深さ、能力のあるなし、意志のありようなどは問題にされていないのです。

 さらにまた私たちを驚かせることがあります。「世の光」という言葉を聞いて思い出すことはありませんか。そうです。主イエスはご自分のことを「世の光」と言われているのです。ヨハネ福音書8章12節に「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」というお言葉があります。主イエスこそが世の光と呼ばれるにふさわしい方であることは。皆さん賛成していただけるでしょうが、この私たちが「世の光」だとは!主イエスは、世の光と言う呼び名に全くふさわしくない者を「世の光」と呼ばれたのです。

 主イエスはなぜ、私たちを、そんなもったいない名前で呼ばれたのでしょう。それは、山上の説教の場にいた人たちと、その教えにふれる後の世代の人間みんなが、主イエスの目に、まさに「地の塩、世の光」として映っていたからにほかなりません。私たちが自分自身の目にどのように映っているとしても、また他の人の目にどのように映っているとしても、そのようなことを越えて、しかも将来の出来事としてではなく、現在すでに私たちは「地の塩、世の光」なのだ、とイエス様は言って下さるのです。主イエスがそのように言われる以上、私たちは、自分が自分の目にどう映るとしても、「地の塩、世の光」とされ、そのような名前で呼ばれる者であることを受け入れましょう。

 

私たちがすでに「地の塩・世の光」であるならば、私たちは自分がすでにそうであるところの生きかたをすることが出来るはずです。

私たちは主イエスから「地の塩、世の光」と呼ばれる者である以上、世の人々の前に隠された者たちでいることは出来ません。そのようなことは不可能です。そこで次に山の上にある町が取り上げられます。…広島にいても山の上にある町が見えます。山の上にある町は、隠れることが出来ません。町が山の上にある以上、昼も夜も、人々の目から隠れていることは出来ません。このように主イエスに従う人は、人々の目にしっかり映っているのです。私たちが自覚していても、していなくても。

同じことは、さらに15節の「燭台の上のともし火」についても言えます。燭台の上のともし火は、家の中のものすべてを照らします。その働きをやめることは出来ません。だからキリスト者も、この世の中に置かれて、この世を照らす働きをやめることは出来ません。……しかし、ともし火を燭台の上ではなく、升の下に置こうとする人がいます。升というのは穀物の量をはかるもので容積が8リットル以上もある大きなものでした。升の下に置くとは升をともし火にかぶせることで、これでは火は消えてしまいます。これは、例えてみると、教会を押しつぶそうとする力がこわくなって、聖書の言葉を水で薄めて、ありきたりのことしか言えなくなった教会とか、主イエスの光を誰にも見えないように隠してしまった教会だとは言えませんか。…日曜日に礼拝に出席してはいても、ふだん世間の中で自分がキリスト者だということを隠して生きている人も、主イエスからいただいた光を持ち腐れにしてしまっている人ですから、これにあたります。けれども、ともし火がそのあるべき所に置かれている限り、つまり燭台の上にある限り、それは家の中のものすべてを照らし続けます。

 16節になって初めて私たちは、主イエスが命令法を用いてお語りになるのを聞きます。それまで、なになにであると言われていたのが、なになになさいとなります。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。

これまでの「あなたがたは地の塩である、世の光である」とか「山の上にある町は、隠れることができない」というのは、命令の言葉ではありませんでした。ここでどうして急に命令が出て来るのでしょうか。しかし、その答はおのずと明らかです。ここで主イエスが語られた命令は、つまるところ、私たちがすでにあるところであれ、と言うことにほかなりません。「あなたがたはすでに地の塩・世の光なのだから、地の塩・世の光でありなさい。山の上にある町、またともし火であるのだから、その通りになりなさい」と。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」、この翻訳では、光を人々の前で輝かすのは、私たち自身であるように読めなくもありません。私たち自身の努力によって、私たちの光を輝かせることを言っているのでしょうか。しかし、原文はそういう言い方にはなっていません。原文をそのまま訳すとこうなります。「このようにあなたがたのよい働きを人々が見て、そして天にいますところのあなたがたの父を賛美するために、人々の前にあなたがたの光が輝け」と。「あなたがたの光が輝け」。命令されているのは実は私たちでなく光なのです。私たちが自分の光を輝かすのではありません。ここのところはちょっとややこしいのですが、まことの光である主イエスから、私たちを通って発せられる光が輝け、と言われているのです。

 主イエスに従う者は、まことの光が自分たちを通して輝くことを妨げてはなりません。この光は、私たちの「行い」を、さして立派とも思えない「行い」も「立派な行い」に変えずにはおかない光です。そのようにして、まことの光に照らされた弟子たちの「立派な行い」を見て、人々が天にいます父なる神をあがめるようになることを、主イエスは求めておられるのです。

 まことの光は、主イエスの弟子たちを通して人々の前で輝きます。だから私たちも、この世界で始まった神の救いのわざに用いられ、この世で神のメッセージを表わす者とされるのです。それが塩として地に置かれ、光として世に置かれ、山の上の町となり、燭台の上のともし火となった私たちなのです。

 

(祈り)

み言葉を与え、み言葉の中に生かしめ、み言葉を語らしめて下さる主イエス・キリストの父なる神様。あなたが主イエスを通して私たちに、身にあまる言葉をかけて下さったことを感謝いたします。み名を賛美いたします。地の塩、世の光と呼ばれるにはあまりにも欠けの多い私たちです。私たちをあなたのみわざのために用いようとするあなたのみこころが、裏切られることがありませんよう、神様、光であるイエス様を私たちの内に輝かせて下さい。私たちの小さなしぐさがあなたのみ栄えをあらわし、私たちの口から出るひとことでも、あなたの恵みを宿す言葉となりますように。私たちは自分が人々からあがめられようなどとは思いませんが、私たちを通して神様があがめられることがあるならば、無上の幸せと思います。どうか私たちを主イエス・キリストのみ名にふさわしい者へとお導き下さい。 

主イエス・キリストを通して、この祈りをみ前にお捧げ致します。アーメン。