義のために迫害される人々は

義のために迫害される人々は 119161168、マタイ51012  2021.10.3

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119133、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:30、説教、祈り、讃美歌:380、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式 202)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 イエス・キリストは「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と教えられました。

主イエスが山上の説教の中で語られた合計8つの幸いの中で、これが8番目、最後の幸いの言葉となります。…第一の、心の貧しい人々への祝福も、「天の国はその人たちのものである」で結ばれていますから、最初と最後の祝福の言葉が、同じように「天の国はその人たちのものである」で結ばれていることになります。

私はイエス様のもともとの教えは、聖書に記録されているものより長かっただろうと考えています。一つひとつの幸いの教えに説明がついていたのに、それが書き留められなかったということではないでしょうか。ただ8番目の幸いについての説明は残され、それが11節と12節だったのでしょう。

 

義のために迫害されるというのは、どんな人であっても、あまり考えたくないことであるのは確かです。

 人生にはどうして苦しみがあるのか、人はなぜ死ななければならないのか、こうしたことは時代を越え、場所を越えて、人間が答を探し続けている問題です。ほとんど誰もが遭遇する、人生のこういった問題を考えるのが宗教の役目ですから、その答を求めて信仰に入る人が多いのは当然です。苦しみをいやし、慰めを与えてくれるお方に出会いたい、その気持ちにうそいつわりはありません。そのため、人は苦しみから解放し、幸せを与えてくれるとあらば、どんないんちき宗教でも信じてしまうものです。

しかし、他の宗教ならいざ知らず、キリスト教ではしばしば苦しみを神の祝福と説くことがあります。「義のために迫害される人々は、幸いである」というのはその最たるもので、そのため、幸せを求めて教会に来たのに、こんな言葉に出会ってつまずいてしまう人がいるかもしれません。少なくともこれは、私たちの正直な気持ちとは合致していない言葉です。けれども、私たちの気持ちに合っていようが合っていまいが、主イエスによって語られた言葉でありますし、信仰とはどういうことか、その真髄を見せてくれる教えなのです。

 

日本キリスト教会の大先輩に植村正久という方がおられますが、この先生にこんな言葉があるそうです。「世間では『腐っても鯛』という。しかし、腐った鯛ぐらい始末に困るものはない」。…ここで鯛というのは、主イエスの福音に触れて、信仰を与えられ、鯛のように値打ちのある人間にして頂いた人のことです。…ところがやがて腐ってしまう。……信仰をもっても何もならなかった、キリスト教は卒業した、などと言い始める。折角、鯛にしてもらったのに、自分で勝手に腐り始める。そういう人ほど扱いにくいものはないというのです。

腐った鯛に例えられる人たちも、もちろん初めからそうだったのではありません。救いを求める真剣な思いがあったことでしょう。しかし、信仰を持っても期待していたご利益がなかったり、キリスト者であることで周囲の人からつらく当たられたりすると、真剣な思いはやがて崩れ始め、不信仰へと変わってしまうのです。

このようなことが起こっていないかと自分に問うことは大切だと思います。自分の信仰は腐りかけているのではないか、妙な匂いがたちこめてはいないか、と自分を顧みたいものです。

私たちの信仰が取れたての果物のような新鮮さを保っているかどうかは、どこでわかるのでしょうか。それを判定する基準が聖書です。今、私たちが学んでいる「山上の説教」冒頭の「幸い」についての8つの項目も私たちの信仰の新鮮さをテストするものです。私たちの謙遜さや正義感や心の清さについて計る手がかりが、ここに与えられています。そしてそれは「幸い」ということに深く結びついているのです。…もしも、折角信仰を持って、鯛のように値打ちのある人間にして頂いたにもかかわらず腐り始めてしまったら、それは幸いを失い始めるということです。イエス様から頂いた幸いを失ってしまうということです。

そのように、一つ一つの言葉について、自分の身を振り返りつつ、うなずいたり、自分の至らなさを嘆いたりしながら、今日その最後の、迫害についてのみ言葉に至って、私も含めて、たじろいてしまう人は多いでしょう。…他の人のことなら良いのです。自分の身にふりかかったら、ということは考えたくもありません。義のために迫害される、わたしのため、つまりキリストのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる、こういう言葉は私たちが耳をふさいでおきたかった言葉でありましょう。                       

聖書に書いてある迫害の最大のことは、言うまでもなくイエス・キリストの十字架の出来事ですが、教会ではいつもこのことを語っているわりには、迫害ということに正面から向きあって来なかったように思います。

キリスト教の歴史には、古来からたびたび迫害の出来事がありました。世界に目を広げると今もなお迫害とたたかう人々がたくさんいます。例えば中国の教会では、近年、締め付けがひどくなってきて、十字架の撤去が命じられたり、教会が経営する孤児院が解散させられたりということが伝えられています。キリストを信じることで迫害を受けた人々のことを見聞きしますと、自分はそんな恐ろしい所に生まれなくて良かったと安心する人がいるのですが、そこでは私たちにたいへん大きな問いかけがなされているのではないでしょうか。

いま私たちの国では、キリスト教を信じているからといって、表立った迫害はありません。ただ、かりに迫害の時代が来たとしたら、私たちは信仰を貫いてゆくことが出来るでしょうか。私たちの信仰とは、もしかしたらひとたび嵐が来たら吹き飛んでしまうような頼りないものかもしれません。キリストを選ぶか、他の神々を選ぶかという究極の態度決定が迫られた時、キリストを裏切らないことが出来るでしょうか。しかし、ここでひとまず歴史を振りかえってみることにしましょう。

 

かつての日本がキリシタンに対して行った迫害は、当時、ヨーロッパ世界にも知れわたった世界的な大事件でした。私は以前、長崎と五島列島を旅行してキリシタンの歴史の跡を訪ねたことがありますが、そこで見たものには本当に驚かされました。…長崎にある殉教者の丘は1597年、豊臣秀吉の命令によって26人のキリシタンが十字架にかけられて殉教した所です。いわゆる26聖人の殉教です。この出来事からいくつかの話を紹介します。

――13歳のアントニオ少年は、両親がついて来て、どうか信仰を捨てるようにと泣いて頼んだけれども聞きませんでした。「父上が今私に与えようと申されるものはただ現世だけのものです。天において活かしめし給う主イエス・キリストが私のために供えて下さるものは限りなき幸せです。……お嘆き下さいますな。間もなく、私は天主様の御前に参ります。その時私は、父上のために天主様にお祈り申しましょう」、こう言って殉教しました。

12歳のルイス少年は、脇腹から背中に、槍を刺されたとき、両手を動かして「天国、天国」と叫んでいます。

武士であったパウロ三木は叫びました。「今、私はキリストの教えを広めた廉によって十字架につけられて死ぬが、斯くして宗門のために死ぬことを悦ぶものであり、また己れの死を天主様の御恩寵と考えるものである。今、最後の時に当って、我が真実を語ろう。キリシタンの道を除いて他に救いの道のないことを、私は今ここに断言し保証する。また、今ここに、日本の主権者太閤様を初め、私の死に関わりある人々を悉く赦すことを宣言する。私は太閤様に何の恨みも懐いてはいない。むしろ、私の何よりも切なる希望は、太閤様初め日本国民総てが一日も早くキリシタンに改宗することである」。讃美歌を唱えながら彼は槍に刺されました。

長崎奉行はこの光景にいたく感動し、長くとどまることが出来ずに立ち去ると、囲いの外の群衆はどっと殺到して、26人の傷口からしたたる血潮を布切れや紙にひたして、ある者はその血をすすって救いにあずかろうとしたそうです。

 

 秀吉の時代と江戸時代を通じ、一説によれば4000人以上のキリシタンが迫害の中で殉教しました。むろん信徒の誰もがそのような壮絶な最期をとげたわけではなく、踏み絵を踏んで信仰を捨ててしまった人もたくさんいたわけで、そこには絶体絶命の状況の中でのさまざまな人間ドラマがありました。いま安全地帯に住んでいる私たちが軽々しく批評できるものではありません。

 日本キリスト教会では、大会などで大勢が集まった機会に、時おり、迫害と殉教のことが話題になることがあります。私が覚えているのは、映像で、他教派の教会での、若い人が大勢集まった楽しい集まりが紹介された時、ある人が立ち上がって「こんなのは教会じゃない。われわれ信仰者の歩みは殉教への歩みだ」と発言したことがありました。このように、殉教を促すような勇ましい発言が出ることが時おりあるのですが、それを言った本人が本当にその言葉通りにできるのかどうか、これはぎりぎりの場に置かれてみないとわからないでしょう。 

 古代ローマ帝国では313年にキリスト教が解禁されるまで、キリスト教徒に対する、言葉に出来ないほどのすさまじい迫害が吹き荒れました。その中には、こんな例はごく少数だと思いますが、わざわざ殉教することを求めて、死ぬ必要もないのに死んでいった人さえいたそうです。ここまで来ると、行き過ぎと言わざるをえません。私たちは自分から迫害を求めたり、キリストのために殺されることを望むべきではありません。ただ現在の日本の状況の中で、自分たちの前に示された課題を信仰において、誠実に取り組んでいかなくてはなりません。

 

 ここにおいていくつかのことを申し述べたいと思います。

 今の時代、私たちの前には情報があふれるほど送られてきますが、その中にはフェイクニュースも多く混じっていて、どれが正しい情報なのか見極めるのがなかなか大変になっています。迫害をめぐってもそうです。…正しいことのために迫害されることは確かにありますが、ただ、迫害を言い立てている人たちが必ずしも正しいとは言えません。…オウム真理教に警察の手が入った時、彼らは「これは迫害だ」と言っていたはずです。…また、いろいろな案件で、それまで既得権益を持っていた人が批判を受けた時に逆差別だ、迫害だと言うことも多くなっています。…私たちが正しいことから逃げて、間違いを犯していながら、それを批判される時に逆差別だ、迫害だと言ってしまうならナンセンスです。…もしかすると私たちは、自分でも知らない内に迫害する側に回ってしまっているかもしれません。常に、神のみ前で自分が置かれている位置を確かめることが必要です。

 では、主の言葉で迫害される原因となった「義のために」とは何でしょうか。これはすぐあとに「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」という説明がありますから、第一に言えることはイエス様を信じることで他の人々から受ける苦しみです。…私は小学校六年生の時、マルクス主義的な考えを持っていた理科の先生から「この中で宗教信じているやつはいるか」と言われ、クラスの中でただ一人手を上げたことがありました。…教会に行っていることでからかわれることもよくありました。…皆さんも多かれ少なかれそのような経験があるのではないでしょうか。…私が以前勤めていた教会では、自分がキリスト者だということを隠していた人がいました。日本中いろいろな地域がありますから、そういう気持ちになるのもわからないわけではありませんが、信仰のことはカミングアウトした方が案外うまくいくものです。

 よく、今の日本には信教の自由があって迫害はないと言われるのですが、いっけん小さなことのように見えても実は重大なことが、特に他の宗教との関わりにおいていくつも起こっています。自分が納めた自治会費が神社に回っていて、それを指摘したら、まるで日本人ではないかのように批判された、などということです。一つひとつ祈りつつ、神様に対しても隣人に対しても誠実な態度でもって対処していかなければなりません。迫害だ、殉教だ、と叫ぶのはそれからあとで十分です。

 ドイツで、ナチスに抵抗して絞首刑になった牧師ボンヘッファーは、「イエスの弟子たちが直接彼の名に対する信仰告白のためではなく、ある正しい事柄のために苦しみを受ける場合でも、イエスはその弟子たちを祝福し給う」と書いています(「山上の説教」)。これは、社会の中で不当に差別されている人を支えて自分も差別されるとか、企業が行っている悪事を内部告発していじめられる、といった苦しみです。いっけんキリストのために苦しみを受けることとは別なように見えますが、「義のために」とは「正しいことのために」ということです。正しいことのために苦しみを受けるのは、キリストのために苦しみを受けることでもあるのです。

 

私たちが神に従って生きてゆこうとするとき、必ずそれを妨げようとするものにぶつかります。たとえ迫害のようなことがなくても、甘い声を出して誘惑してくるものがあるでしょう。こちらを取るか、あちらを選ぶか、迷い悩むことは一生続くかもしれません。気持ちが引き裂かれるようなこともあるでしょう。しかし、神は私たちが自分の魂を悪魔に売り渡すことから守り、真理に生きる喜びへと招いて下さいます。

主イエスは言われました。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」。たとい人からどんなにつらい苦しみを受けようとも、神様が見ておられ、大きな報酬をもって報いて下さることを信じて良いのです。私たちにこの先どんなことが起こるかわかりませんが、神様の真実により頼んで、おびえることなく、差し迫った問題から逃げてしまうこともなく、苦しみをはるかに越える幸いに生きたいと思います。

 

(祈り)

天の父なる神様。私たちをあなたの真理によって生かして下さい。

主イエスは十字架の上でご自分の命を捧げ、そのことによって私たちは救われました。そして主イエスが建てた教会は、その後多くの殉教者や迫害を受けた人たちによって守られてきました。どうか2000年来の信仰の先達たちの情熱が、時をへても失われることなく、今この時代に生き続けますように。神様は、切株からも新しい芽を育てて下さる方だからです。

神様、あなたはある人を特別に迫害の渦中に置き、またある人を殉教者として選ぶことがございます。しかし、ここにいる私たちは、そういうことは想像するだけで恐ろしいのです。どうか、私たちを試みにあわせず、悪より救い出して下さい。…ただ、いっけん小さなことでも自分の信仰が問われることは、いくつもあるでしょう。神様、私たちをまず小さなことから始めて、神様の前に忠実な者として下さい。

今日からやっと始まった対面での礼拝を、どうか続けさせて下さい。

この祈りをとうとき主イエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン。