残りの者の帰還

残りの者の帰還 イザヤ102034、マタイ71314 2021.9.26

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119132、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:9、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:54、説教、祈り、讃美歌:270、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 預言者イザヤが活動していた頃、イスラエル民族が置かれていたのは、国が亡びるかどうかの瀬戸際としか言いようのない時代でした。当時、イスラエル民族はイスラエルとユダという二つの国に分裂していましたが、超大国アッシリアの軍隊が分裂国家の一つイスラエルに迫って首都のサマリアを3年間包囲して、ついにこれを滅ぼしました。それが紀元前722年。アッシリアはその後やはりもう一つの国ユダに迫って、エルサレムを包囲します。それが701年のことになります。エルサレムは城壁で囲まれた都市で、城壁のまわりがすべてアッシリアの大軍なのです。アッシリアがいかに残酷かということは知れ渡っていました。彼らが征服した国の人々を寛大に扱うということはまず考えられません。ユダの人々はいよいよ亡国ということを覚悟せざるをえなくなりました。…こうしたことは、戦後生まれの方には、私もその一人ですが、なかなか想像できないことなのです。

 日本は1931年に満州事変という謀略事件を起こしてから1945年の敗戦まで、15年にわたって戦争をしていました。戦時中、国民のほとんどは日本の勝利を疑わず、大本営が発表する「日本勝った、日本勝った」というニュースを信じていたのですが、やがて死んで帰ってくる兵士が増え始め、さらに日本全土が空襲を受けるようになると、亡国ということが誰の目にも見えてきたと思います。1945年8月15日の終戦に至るまで、日本人の間だけでも想像を超える悲惨な出来事がありました。さまざまな理由で命を失った兵士たちは言うに及ばず、米軍の捕虜になるのを拒んで断崖から飛び降りて死んだ人たちがいました。日本が無条件降伏することを拒んで最後のひとりまで戦おうとした軍人たちもいました。…そこには、日本は必ず勝つと教えられてきたのに、今起こっていることはいったい何なのだということがあったに違いありません。おもてだって言うことは出来ないものの、神の国日本はどうしたのだ、どうして神風が吹かないのか、日本はこの先いったいどうなるのかという思いがあったでしょう。

 古代のイスラエル民族が体験した戦争と日本人が体験した先の戦争を単純に結びつけることは出来ません。時代も状況も、与えられた条件もずいぶん違っていますから。しかし、それまで信じていたものががらがらと崩れ落ちてゆくという点では共通だったように思われます。

 信仰心ということから見た時、ユダの国の人々は主なる神様を礼拝することにそれほど熱心だったとは言えません。もしも人々が信仰に熱心だったら、神の怒りを受けることはなく、この時のような苦境に陥ることもなかったでしょう。その点では、かつての日本人の方が、信仰する神様が全然違っていたものの熱心さについては上回っていたのです。

ただイスラエルの人々がいくら不信仰でも、自分の国が滅びようとしているのを他人事のように平然と眺めているわけにはいきません。「神様は世界の中からただ一つ、われわれだけを選ばれたはずだ、神様はアブラハム様にあなたの子孫は夜空の星のように多くなると言われたではないか。それなのに、われわれは滅ぼされようとしている。神様の約束はいったいどうなっているんだ」、絶望から生まれたこのような叫びが国中に満ちていたと考えられるのです。

 

 イザヤは、絶望しているこの人々に向かって神の言葉を取り次ぎました。「その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。」これが驚くべきことを語っていることを皆さんは気がつかれましたか。

 イザヤの言葉でキーワードになるのが「残りの者」ですが、もっと良い訳がなかったのかと思います。といってもなかなか出てこないのですが。「残りの者」、これは「残り物」ではありません。…食事の時に誰も箸をつけずに残されたものがあると、作った方はがっかりしてしまいますね。でも、実はそれがいちばんおいしいのかもしれません。そこで「残り物には福がある」と言うことがあるのですが、それとは違うのです。みんなに無視されて残った物ではありません。…国の滅亡が迫ってきた時、ユダの人々は自分たちは根絶やしにされるだろうと思っていたのです。アッシリアに征服されたら皆殺しになるかもしれない、みんな奴隷にされて死ぬまでこき使われるかもしれないと。…事実、すでに征服されたイスラエルの人々はアッシリアに連れてゆかれて、行方知らずになってしまいました。イスラエル12部族の内の10部族が消えてしまったのです。日本に例えると、北海道から岡山県までの人たちがみんな消えてしまったようなことで、ユダの人々は自分たちもそうなると心配し、おびえていたのですが、イザヤが告げたのは全く違うことでした。

 22節、「あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る」。イスラエルの民の全員が命を全うするわけではありません。やはり、恐れられている破局は起こります。人々はさんざん痛めつけられるでしょう。しかし、苦しみの時期を生きのびる者たちがいます。その数は多いとは言えません、でも、その者たちだけは帰ってくる。それが「残りの者」です。…だから、イスラエルの民は滅びない。神様が約束を破って、ご自分の民を捨ててしまわれたのではないということです。

 「残りの者」が帰ってくるのはいつでしょう。20節に「その日には」と書いてあります。10章の前半は神がアッシリアに下す裁きを語っています。アッシリアは、神が不信仰なイスラエルの民を罰するために立てられました。5節では神の「怒りの鞭」、「憤りの杖」と呼ばれています。神様の道具にすぎません。ところがこの国は戦争の勝利に酔って、奢り高ぶっていました。神様に言わせたら、私が作った道具のくせに思い上がるなということで、そこからアッシリアに罰が下ることが予告されていました。…ですから20節の「その日」とは、まず、アッシリアに神の罰が下り、イスラエルの民で生き延びた人たちが神のみもとに帰ってくる日なのです。22節で言うように「滅びは定められ、正義がみなぎる」。…まず定められた滅びがアッシリアに向けて行われ、超大国が崩れ落ちます。神様はそのことを全世界が見ている中で行われます。いくらアッシリアであっても砂上の楼閣、張り子の虎にすぎないということを告知されます。「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな」と。そうして、その例を二つあげ、神様が約束を破ってイスラエルの民を捨てられたのでないことを証しされます。

 第一の例がエジプトです。「たとえ、エジプトがしたように、彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。やがて、わたしの憤りが尽きるときが来る。わたしの怒りは彼らの滅びに向けられる」。そして26節後半、「またエジプトでなされたように、杖を海の上に伸ばされる」。神は、エジプトで約400年間、奴隷として虐待されたイスラエルの民を救い出されました。背後にエジプト軍が迫ってきて絶体絶命の中、この民のために海を開いて、自由な世界へと連れ出されました。今あなたたちの前におられるのは、あの時と同じ神様なのだということです。

 第二の例としてあげられたのがギデオンです。「万軍の主は、彼らに対して鞭を振るわれる。かつて、オレブの岩でミディアン人を打たれたように」。

 これは士師記7章にある、神の導きの下、イスラエルの民が他の民族に勝利した話ですが、ただの戦争物語ではありません。ミディアン人が攻め寄せて来た時、これに立ち向かったのがギデオンと彼に従う民でした。神はギデオンに命じられます。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」。そこでギデオンは、恐れおののいている者は皆帰れ、と命じました。すると2万2千人が帰り、1万人が残りました。しかし神はこれでも多すぎると言われます。ギデオンは神の仰せに従って、民を水辺に連れて行き、どういうかっこうで水を飲むかを観察しました。そこには口を直接水面につけて飲んだ人と、膝をついて、手で水をすくって飲んだ人とがいました。皆さんはこういう場合、どちらを選びますか。神様は口を水面につけて飲んだ者を不合格とし、膝をついて、手で水をすくって飲んだ300人だけを兵士として採用し、戦争に勝利したのです。…兵士の数が多いことだけが戦争勝利の条件ではないのです。これはイスラエル民族の歴史に刻まれた偉大な勝利の日でありました。

 だから、神様は決して約束を破られることはない。エジプト人から、またミディアン人からあなたがたを救って下さった神様は、アッシリアからも救って下さる、とイザヤは言うのです。「その日が来れば、あなたの肩から重荷は取り去られ、首に置かれた軛は砕かれる」、軛ってわかりますか、牛を働かせる時につけているものです。これが砕かれるというのは、今あなたがたを悩ませ、苦しませているものが取り払われるという宣言にほかなりません。

 ユダの人々の前に、この時、アッシリアの脅威が差し迫っていました。彼らは北から、いくつもの場所を経由して押し寄せてきます。「娘シオンの山、エルサレムの丘に向かって進軍の手を振り上げる」というところまで来ています。…しかしながら、「見よ、万軍の主なる神は、斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される」。世界の覇者アッシリアは神のみ前に滅び去ります。イスラエルの民の全員が助かることはありません。死ぬ人も、大変な苦しみを蒙る人もいるでしょう。しかし、木を切り倒しても切株から芽が生えてくるように、そこから再び蘇ってくる「残りの者」たちがいるのです。

 

 神様が告げて下さる未来が、お前たちは一人残らずいなくなるというのと、残りの者が帰ってくると言うのでは天と地ほどに違います。ユダの人々はイザヤが取り次いでくれる言葉を、苦しみの中でも心の糧にしたことでしょう。

 その後の歴史は、神の言葉通りになったと言えますが、それは非常に長い期間においてでした。世界征服を目指したアッシリアはついにエレサレムを攻略することが出来ず、やがて歴史から消え去ってゆきます。ユダの国はそのあと100年以上、持ちこたえますが、紀元前586年、アッシリアに代わって世界の覇者となったバビロニアによって滅ぼされ、人々はバビロンに連れてゆかれます。しかし、その時代に、自分たちが主なる神様に背いたためにこの苦しみが襲ったのだと自覚し、悔い改めが起こります。旧約聖書の多くの書物が編纂されたのもこの時期です。こうして、バビロン捕囚を生きのびた「残りの者」がやがて約束のカナンの地に戻ってきて、神殿を再建し、新しい信仰の歩みを始めます。イエス様による信仰の改革も、この歴史の流れの上にあるのです。

 質の良い鉄は火で精錬されることで出来上がります。信仰の歩みもこれに似て、試練が襲ってくる時、いいかげんな信仰しか持っていない人は脱落してしまいますが、苦しみに耐えて勝利する人によって受け継がれていくのです。アッシリアやバビロンが攻めてきた時に耐え抜いた人たちが「残りの者」として帰ってきましたが、イエス様が生きておられた時、十字架のイエス様を信じられなくなった人が脱落し、イエス様を信じ抜いた人だけが新たな「残りの者」として信仰を伝えていったのです。だから私たちも21世紀に生きる「残りの者」として、あらゆる誘惑とたたかいながら信仰を守り通さなければなりませんが、その時に注意しておくべきことがひとつあります。

 試練に襲われると信仰から脱落してしまう人が出ますが、私たちはその人たちより偉いということはないのです。私たちの人生もこの先、どんなことが起こってくるかわかりません。その中で信仰を守り通すことが出来たとしても、それは自分が偉いからではなく、ただ神の憐みによって守られていたからにすぎません。滅びに通じる門は広々としてそこから入る人が多いですが、命に通じる門は狭く、その道は細いのです。私たち皆が常にイエス様を通して、主なる、父なる神様に帰り、真実をもって頼ることで、何より大切な信仰を守り通すことが出来ますように。

 

(祈り)

天の父なる神様。神様は預言者イザヤをユダの人々に遣わされて、絶望するのはまだ早い、苦しみの中にも希望があるのだと知らせて下さいました。

今の私たちはどうでしょう。希望に満ちて生きている人もいますが、苦しみの中にある人がいます。ぼんやりした不安の中にいて、そうした思いを目の前の楽しみによって気を紛らわせているだけの人もたくさんいます。神様、信仰に生きることはいっけん時代に合わないことのように見えるかもしれませんが、そこにこそ本当の希望があることを示して下さい。このことを教会が、今の時代の中で、誰にもわかる言葉で語ることが出来ますように。

 

神様がいつまでも、私たちのかけがえのない導き手であり続けますように。とうとき主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。