主に結ばれた家族の幸い

主に結ばれた家族の幸い 出2012、エフェソ614   2021.9.26

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119130-131、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:434、説教、祈り、讃美歌:510、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:545a、祝福と派遣、後奏

 

 エフェソ書の説教もいよいよ終盤にさしかかってきました。今日の箇所は親と子に関することです。私たちは日曜日に礼拝するという信仰生活をしていますが、私たちの生活にはそれ以外に社会生活があります。職場で働いたり、学校で勉強したり、ほかにもいろいろな人と関わっていくという社会生活がありますね。そして家庭生活があります。誰もがお父さんとお母さんから生まれてきました。一人っ子でなければ兄弟や姉妹がいます。結婚する人、しない人、お父さん、お母さんなどが健在な人、天に送ってしまった人などいろいろなケースがありますが、血がつながっている家族との関係は生きている限り続きます。

 聖書には、神が創造された最初の人間、アダムとエバが結婚し、二人の息子、カインとアベルと一緒に家庭を築いたことが書かれています。神はここに、神の恵みがあふれる家庭が出来ることを期待されたのです。この家庭はのちに、兄息子が神様に背いて大変なことが起こってしまいますが、今日は取り上げません。神の導きとそこに信頼する家族があってはじめて幸せにあふれた家庭が出来上がるのです。

 

 今日のエフェソ書は、まず「子供たち」と呼びかけたあと、「主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。」と語りかけます。ここで子供たちと言うのは、文字通り、年齢が大人になっていない人のことです。だから今、中学生だったり高校生だったりする人は自分のこととして聞いて下さい。もう子供ではないという人も、自分には関係ないというのではなく、大切なこととして聞いて下さいますように。

 ここで教えられている両親に従いなさいとは、ひとくちに言って親孝行です。それは正しいことなのです。そのあとが「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です」。これは先ほど読んだ出エジプト記に出てきましたね。お父さん、お母さんを敬うから従うのです。

モーセに率いられて奴隷の地エジプトから解放されたイスラエルの民に、シナイ山で神様から、2枚の石の板に書かれた十戒が与えられました。十戒はとても大切なので、その言葉を復習しておきましょう。「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。あなたの父母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。」大切な、この十の戒めの5番目に「あなたの父母を敬え」が入っているのです。

 

父母を敬えとか両親に従いなさいというのは、聖書から教えられなくても世

界中あらゆるところで教えられてきました。今の日本では、それほど厳しく言われません。親孝行が社会の中でだんだん薄れてきているのかもしれませんが、昔は違いました

 中国と朝鮮と日本は昔から親孝行の「孝」が尊ばれる国でした。歴史始まって以来、親孝行な人はたくさんいたでしょうが、「孝」ということを人間生活の根本として尊び、広めたのが儒教です。儒教は孔子というすぐれた人物によって始まりました。彼はまず自分の身を修めることから家、そして国を治めるに至ることを説きました。社会の中で人を指導し、監督することの出来る者は、まず自らを厳しく修めることの出来る者でなければならない、この儒教の倫理において、もっとも身近な人間関係が親に対する子の関係でありまして、「孝」が倫理道徳の基本になるのです。

 日本は儒教の影響が非常に強いです。江戸時代二百六十年の間、幕府が日本の国を治めた原理は儒教に基づいていました。江戸幕府が採用したのは、儒教の中の朱子学という学問ですが、その後、陽明学というのが起こりました。この教えに基づき、儒教の中心としての「孝」の精神を徹底させたのが、近江聖人として知られた中江藤樹という人でした。

 中江藤樹は1608年生まれ、学問と人間の徳は一つでなければならないということから、「孝」を実践しました。故郷から離れた愛媛の大名の下で働いていましたが、しかし殿様に仕える身では母親に仕えることが出来ないというので脱藩し、27歳の若さで故郷の村に帰り、専ら母親に仕えることに専念したといいます。これが儒教の精神の実践であったわけです。この人が近江聖人と呼ばれたのは、その人徳が近郊の農民や町人にあまねく及んだためです。その村で馬子、馬を引く人が武士を乗せて運んだあと、ふと見ると大切なお金が馬の鞍に置き忘れてありました。この時、馬子はお金を取ってしまおうとは毛頭考えず、客を宿まで訪ねていって届けました。中江藤樹先生の教えに従って、お礼も受け取らないと言うのです。つまり中江藤樹の感化が近隣のすべての人に及んでいたということですね。

 ただ、これは儒教の良い面だけを取り上げたもので、「孝」が強調されるあまり行き過ぎになることがしばしば起こりました。親の言うことは絶対でそれに反対することはできません。親が決めた相手と結婚するというのもその一つです。武士の間では、もしも親が殺されたりすると親の仇を殺すために一生を費やすなんてことも起こりました。中国では、秦の始皇帝の長男が父親からというにせ手紙で死を命じられたために自殺しています、親孝行があまりに強調された結果、たいへんな人権侵害が起こっていたのです。

 

 それでは儒教から来た「孝」の教えは、聖書が教えている「あなたの父母を

敬え」や「両親に従いなさい」ということと、どこが同じでどこが違うのでし

ょうか。…人間の生き方の根本に父、母を大切にするということでは同じです

が、ここには何と言っても根本的な違いがあることを言っておかなければなり

ません。

 十戒の言葉はすべて神の言葉です。神様の命令です。いっぽう儒教には神様はおりません。もう一度エフェソ書を見てみましょう。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」。「主に結ばれる者として」、これが大切なのです。このところがかりに「子供たち、両親に従いなさい」とだけ書いてあったなら、こんなのいやだなあ、押しつけがましいなあと思う人がいるでしょう。でも「主に結ばれている者」だから、私たちは喜んで「両親に従う」ことが出来るのです。

 父親と母親なしに生れた人はおりません。お父さんもお母さんも知らないという不幸な人はいます。しかし、だからといって、父母がいないわけではありません。お父さん、お母さんにもそのまたお父さん、お母さんがいて、これをずっとさかのぼっていくとすべて命あるものを創造した神様にたどりつきます。皆さんは主の祈りの中で「天にましますわれらの父よ」と祈っているでしょう。神様こそ本当のお父さんなのです。

 どんな人も、必ず父と母を通して生まれ、その背後に創造者にして父なる神様がおられます。…命を持ったすべての存在は神から生まれます。人は神から生まれ、神に帰ってゆきます。神様のこのご支配の中に、自分の父親と母親がいます。人は神に結ばれ、神に従っているからこそ、神様が準備し、用意して下さった自分の両親をとうとぶべきです。だから両親を敬い、両親に従うことは、とりも直さず、父親と母親を通して表わされた神様を信じ、とうとぶことになるのです。

 古代のイスラエルの民において、両親は子供を愛し、育てるのはもちろん、その信仰生活についても責任を持っていました。エフェソ書の4節は、父親に向かって「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と言います。両親は子供を産んで育てることだけで父母なのではなく、子供を神の戒めと責任によって養育する責任があるから父母なのでした。そのため子供が両親を敬うことはそのまま神様への服従と結びついていたのです。親の権威というのは、信仰者としての生き方を子供に伝えるところにありました。…現代の日本にこれをそのまま持っていくことは出来ません。両親が信仰を持たない人であっても従ってゆくのは当然です。しかし信仰者が今度は親となって子供に向かい合うときに、子供に神様を指し示し、信仰を受け継ぐ者とさせてゆくという大きな役割が与えられていることも、神様は教えておられるのです。

 

 しかしながら、これらのことを聞いて、井上牧師はずいぶん保守的なことを言ってるな、キリスト教はそんなに保守的で封建的な教えだったかと思われる方があるかもしれません。

 やっかいなのは、父母を敬い、従うことは、とりも直さず神様を信じ、とうとぶことになるのですと言っても、とてもそんなことが信じられないような現実があるからです。ここにいらっしゃる皆さんはそれぞれ良いご両親を持っている、あるいは持っていたと思いますが、世の中にはひどい親を持っている人がいます。暴力をふるう、自分の子を捨てて逃げてしまう、…こんな親に対しても、敬い、従わなければならないのでしょうか。

 そこでもう一度エフェソ書6章4節を見ますと「父親たち、子供を怒らせてはなりません」と書いてあります。これは親に対する歯止めです。聖書は子供に対して諭すだけではなく親に対しても教えています。一方ばかり見ては偏ってしまいます。

 私たちは何より、神様のみこころを問いつつ歩まなければなりません。両親に従うことが良いこととは思えない、それどころか悪いこととしか思えない、そんなことが起こる場合があります。例えば、親が子供に対して泥棒をしてこいとか、売春しろとか言った場合です。教会に行くなと言われることもあります。……両親への服従がまっとうされるためには、一つなくてはならない条件があるのです。それは十戒の第一の戒めに抵触しない限りにおいてということです。「父母を敬え」ということは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めを守って、はじめて行うことが出来るのです。…自分の勝手で親に逆らうというのではありません、親の言うことを聞くと神様に背いてしまうという場合、ぎりぎりのところで神様に従うために親の言うことは聞けないということがあるのです。

 社会には、子供の親になったのにその責任を果たさない人がいます。孤児院で聞いた話では、そこの子供たちに両親がいないわけではなく、両親がいるのに養育を放棄してしまったケースが多いということです。しかしこの子供たちも父親と母親から生まれたという事実を否定することは出来ません。そしてこのような育ち方をした人には別の形で人生の道が備えられています。たとえどんなにひどい親を持ったとしても、その親のために祈ることが大切です。父母を敬うという十戒の教えは、だめな親に対しても求められていることなのです。

 このようにして、両親に従い、両親を敬う人に対して、神様の約束が与えられています。3節、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上に長く生きることができる」と。これは神様からの祝福の言葉です。人が長生きするためにきちんとした食生活を送ったり、運動を心がけることは大切ですが、ここではそれと同じかそれ以上に大切なことが教えられています。円満な家庭生活を送る人に恵みがついてくるのです。

 これに対し、いくら親孝行な人でも若死にすることがあるじゃないかと言う人もいるでしょう。これについて宗教改革者カルヴァンはジュネーブ教会信仰問答という本の中で、「神がわれわれに地上のもろもろの幸いを約束されることは、すべてそれがわれわれの霊的救いのためになる限りにおいてです」(問答191)と答えています。神様のなさることはきわめがたく、特別な事情で早くに天に召されてしまう人がいるとしても、私たちは両親を大切にする人が幸福になり、地上に長く生きることができると信じて良いのです。

 

 イエス様はマタイ福音書1037節で「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」と、びっくりするようなことを教えられました。いくらお父さん、お母さんが大切でも、神であるイエス様より大切であってはならないのです。

 しかしイエス様は、十字架につけられていた時、そばにお母さんのマリアと弟子ヨハネがいるのを見て、マリアに「ご覧なさい。あなたの子です」と、そして今度はヨハネに「見なさい。あなたの母です」と言われました。その時からヨハネはマリアを自分の家に引き取りました(ヨハネ192527)。イエス様は人生の最後の時にも、自分のお母さんのことを考えておられた、このようにして信仰と親孝行を一致されたことを見習いたいと思います。

 

(祈り)

 

天の父なる神様。誰もがよく知っていて、誰もが十分に果たすことが出来ていない戒めが与えられました。父母に対して良き息子、娘でいることが出来ない私たち、そして自分の子供に対して良い親であることが出来ない私たちをどうか憐れんで下さい。血のつながった家族の間でもうまくゆかないことがよくあります。それは神様への畏れの気持ちが足りないからでしょう。どうか主に結ばれた家族の幸いを私たちひとりひとりにお与え下さい。私たち、そして私たちの愛するすべての人の心の中のいたみや悩みをすべてご存じである神様の慰めと励ましをお願いいたします。この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。