平和を実現する人々

  平和を実現する人々   士師記622b24、マタイ59  2021.9.12

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119129、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:62、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:83、説教、祈り、讃美歌:420、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 毎年8月だけが平和を考える月ではありません。今年の原爆の日や終戦記念日は終わってしまいましたが、先の戦争で命を失った国内外の膨大な人々を追悼し、再びあやまちを繰り返さないことを誓うのにふさわしくない時というのはありません。

戦争のない平和な世界というのは人間誰しもが持っている切なる願いです。しかし戦争が絶えることはなく、人類の歴史は平和への願いが踏みにじられる歴史でもありました。今も世界には戦火の中を逃げまどう人たちがいますし、私たちがいま享受している平和もいつまで続くのかわかりません。…日本政府は近年、「わが国をめぐる安全保障環境は厳しさを増し」ということを言い続けています。たしかに日本と周囲の国々の間ではきな臭さが増していて、今の平和がまるで薄氷の上に組み立てられているように見えなくもないのです。しかも私たち一人ひとりの力は弱く、かりに世の中が戦争へ向かっていったとしても、それを押しとどめるような力はないように見えます。…こんなことを考えたくはないのですが、日本がこの先、もしも戦争に巻きこまれるようなことがあったとしたら、そんな時に私たちは信仰を失わないで生きることが出来るのでしょうか。信仰に基づく信念を守り通して行くことが出来るでしょうか。黙示録2章10節は「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」と告げていますが、この言葉にふさわしく生きるのはたいへん難しいと思わせられるのです。

 

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。今日与えられたみ言葉は、私たちが気軽に聞いていられる言葉ではありません。

 聖書にあるたくさんのみ言葉を味わう一番底の浅い方法は自分の気に入った言葉だけを取り上げることです。しかし、今やっているようにマタイ福音書を初めから終わりまで全部読んでゆこうとしますと、自分が知らないでいたかったみ言葉にも出会うことになるのです。

主イエスはここで「平和を実現する人々は幸いである」と教えられましたが、なぜここで「平和を愛する人々は、幸いである」とか「争いを好まない人々は幸いである」と言われなかったのでしょう。それくらいのところにとどめて下されば、私たちはほっと安心したでしょうに。…しかし、「平和を実現する人々は幸いである」と主は言われます。これが私たちに与えられた言葉です。争いのない所に逃げ出してゆこうというのではありません。争いを避けて通る人ではなく、その中に入って平和を実現する人々が幸いなのだと主は言われるのです。…これは肩がこりそうな言葉です。私たちはここで、建前としてはこのみことばを尊びながら、実際はそこから遠く離れて生きていることを認めざるを得ないのです。

 

 ではもう一つ、主イエスの言葉の後半部分にも注目しましょう。主イエスは平和を実現する人々を神の子と呼ばれます。平和を実現する人は神の子と呼ばれるほど尊ばれるのです。しかし、ここでこの言葉を語りかけられたのは、弟子たちと民衆でありました。失礼ながら、私たちと同じ、どこにでもいるような人間たちですが、このことが大きな意味を持っているのです。

 当時の世界で神の子と呼ばれた人がいました。誰のことだと思いますか。ローマ皇帝です。ローマ皇帝は今でいうとバイデンとプーチンと習近平と菅総理大臣を合わせたような、いやそれ以上の大きな力を持っていました。この時代、ローマ皇帝は世界の上に輝いていたのです。皇帝自身、ローマ帝国の国民が自分のことを神の子と呼び、礼拝することを要求していました。

 つまり、こういうことなんです。「平和を実現する」者であるがゆえに「神の子」と呼ばれる人が、いなかったわけではないのです。現実にいたのです。それが皇帝だったのです。…このことを国民の身になって考えてみましょう。ローマ帝国にいるふつうの人々はみんな平和を望みました。当然のことです。戦争が起こって、自分や家族が殺したり、殺されたりするのは真っ平ごめんです。でも多くの人々の願いを裏切って戦争が起こることはあります。では、戦争がない平和な世界をつくるには何が必要でしょう、そこで人々は、どんな争いにも戦争にも勝ちぬく力を持つことが必要だと考えたのです。「ローマの平和」という言葉があります。最大の権力をもって世界を支配し、敵対する何ものをも寄せつけない人物こそ平和を実現する人だと、それは皇帝しかありません。だから皇帝は神の子という名前に値する存在だったのです。

 今の私たちも似たようなものです。テレビドラマでも、悪人がやりたい放題をしている時に弱い人間は無力ですが、そんな時、強い人間が現れて悪人を叩き斬ってしまったり、叩き斬らないまでもぐうの音も出ないほど追いつめてしまったりすると拍手喝采でしょう、そういう英雄を待ち望む心が私たちの中にあります。

 力ある者こそ神の子にふさわしい、なぜなら平和を実現してくれるから、誰もがそう信じていたのです。…しかしイエス様はここで、皇帝に向かって語っておられたのではありません。イエス様の前にいたのは、弟子たちと民衆です。権力など何も持っていない普通の人々です。特別に頭が良いわけでもなく、お年寄りも病気の人も、女性も子どももいたでしょう。…ということは、イエス様は神の子という、皇帝にのみふさわしいと思われていた称号を普通の人たちに与えたことになりはしませんか。…あなたがたも平和を実現する人たちなのだ、あなたがたも神の子なのだと。ここに主の言葉の持つ新しさがあります。皇帝とか為政者などではなく、ごく普通の人たちが平和の担い手として立てられたのです。 

 

 イエス・キリストがもたらした平和を語る前に旧約聖書に少しふれたいと思います。旧約聖書を読んでゆきますと、誰もがそこに戦争の話がとても多いことに気がつかれると思います。そういう箇所を読んで、聖書にどうして戦争の話が多いのかと残念に思う人は少なくありません。

 旧約の時代、神様が自ら先頭に立って戦いを導かれたことをどう考えるは、とても難しい問題です。しかしながら神様は、戦争という最も恐ろしい出来事を通しても救いの歴史を導かれました。戦乱の続く世の中で与えられた神様のみこころがイザヤ書9章に示されています。1節:「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。4節:「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。地上から戦争と争いを根絶しようとするのが神のご意思なのです。そのために神は何をなさったか。5節:「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。

 血なまぐさい出来事がえんえんと積み重なったその上に、平和の君たるイエス・キリストが現れました。主イエスは自ら剣を取ることはなく、その反対に戦争を克服する道を開かれました。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ2652)と言われた主は、まさに平和を実現するために持っておられるものすべてを捧げられましたが、その究極のことが十字架だったのです。主の十字架の前には累々たる死体が横たわっています。戦争で死んだ人々の無念、悲しみ、苦しみ、絶望……すべて人間の罪の結果です。しかし主イエスはご自分のとうとい命を捧げることで、人間の心に巣くう争いと戦争への思いを滅ぼしてしまわれたのです。

話は少し飛びます。「ロミオとジュリエット」の話を皆さんご存じだと思いますが、その最後はこんな話でした。敵同士の家に生まれたロミオとジュリエットが愛し合ったために悲劇が起こりますが、二人が死んでしまった後、ついに敵対し合う両家は和解するのです。自分たちの愚かさが他にかけがえのない息子と娘を死なせてしまったという涙と共に。…言わば死んだ二人が両家を仲直りさせたのですが、これは主イエスの十字架を理解するためのヒントの一つになるでしょう。聖書には「神は、キリストの十字架の血によって平和を打ち立て」た(コロ120)という言葉があります。罪のない方が人間の罪の身代わりとなって死ぬことによってしか、争いと戦争を根絶する方法はありませんでした。神に反抗し、戦争を繰り返している人間たちは、自分たちの罪が神のひとり子まで死なせてしまったことを突きつけられ、そこから再出発するしかないのです。人がイエス・キリストを信じて神と和解する時、人と人、また人と自然の間に平和がもたらされます。

 

神はイエス・キリストによって世界を支配しておられます。ですから現実の社会に起こる出来事にも神の深いみこころがあらわれていることは間違いありません。戦争にのめりこんでゆく人間社会の大きな暗い流れがある一方で、平和な世界を実現しようとする神様のみこころが現実の世界を変えてゆくのです。…とはいえ、この信仰でもって生きていくことは容易ではありません。誰もが知っているように、世界には「神様がおられるなら、どうしてこんなことに」としか思えないような現実が頻発しているのです。

先月末、アメリカはアフガニスタンから軍隊を撤退させ、20年に及ぶ戦争を終結させました。…戦争の発端は2001年の9・11同時多発テロで、アメリカは犯人をかくまっているとしてアフガニスタンを攻撃したわけです。大義名分はテロとの戦いということでしたが、復讐の思いもあったでしょう。キリスト教国とされるアメリカでも聖書の「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(ロマ1219)という言葉は聞こえなかったのです。もしもアメリカの大統領が軍事行動を起こさなかったら、国じゅうで臆病者として糾弾されたことでしょう。やられたらやり返すというのがキリスト者を含めて当然のことになっていて、その部分を取り分けた上で、個人個人の信仰生活が営まれていたのです。…あの戦争は結局何だったのかということが今問われていますが、報復が報復を呼ぶ、復讐の連鎖は当面終わることはありません。

私は今日の説教を作るにあたって、初めイエス様の十字架によって平和がもたらされたということを結論にしようと思ったのですが、今の状況の中で私たちがどう生きるべきかということを語らないわけにはいかなくて、このような話をしています。

日本をめぐる状況もたいへん厳しくなっています。いま沖縄県では県民が選挙で何度も反対の声を示したにもかかわらず、辺野古で米軍基地が建設されつつありますが、そればかりでありません。石垣島や宮古島などに自衛隊のミサイル部隊が配備されるなど軍事要塞化も進められています。中国の脅威に備えなければならないということで、そうなっているのでう。確かに中国の動きを安心して見ていることは出来ません。

いまいちばん心配されているのは中国が台湾に軍事侵攻することで、戦争が起こって、日本にいる米軍が出動したら日本はどうなるのか。いやおうなしに戦争に巻き込まれ、中国からミサイルが打ち込まれることも想定しなくてはなりません。そこで、そうはさせないぞということで出て来たのが、軍備増強と敵基地攻撃論だと考えられます。やられる前にやってしまえということです。

このように、とても安心していられないような事態が起きかねないのが今の状況ですが、ここで確認したいことがあります。

それはまず、いくら軍備を増強したところで感染症を防ぐことはできないということです。「国を守れ」と言うのなら、まずコロナで自宅療養ということをなくし、医療に人材と資金をつぎこむべきではないでしょうか。

また国と国との関係は軍事力や経済力だけで決まってしまうのではありません。外交がものをいうことが多く、国際世論を味方につけるのも大切です。…そして、今日のみ言葉に沿って言うなら、権力者とか一部の人たちだけで戦争という重大な決定がなされてはたまったものではない、ということです。そうではなく、どこにでもいる普通の人たちが平和の担い手となることを神様は望んでおられるのです。…最近、黒い雨訴訟が被爆者がほぼ望むかたちで結審しましたが、そこには世論の後押しがありました。日本でも中国でもアメリカでも、平和を望む圧倒的多数の普通の人々の声があれば、いくら権力者が戦争をしたくてもそうは問屋が卸しません。

平和を実現する方法は、聖書が語るメッセージを正しく読み取ることから始まります。これまでの歴史の中で、聖書のメッセージを曲げて受け取ったり、気にいらないところを無視するようなことが普通に行われてきましたが、今こそ目を覚ましましょう。一人の力は小さくても、一人が声を出すことによって仲間が加わり、大きな力になってゆくのです。平和を実現し、神の子と呼ばれるようになる、それはまさに主イエスを信じる私たちに差し出された道なのです。

 

(祈り)

天の父なる神様。主イエス・キリストが打ち立てて下さった平和の中に、私たちをしっかり立たせて下さい。イエス様はご自分をののしり、殺した人々に対して「父よ、彼らをおゆるし下さい」と言われました。人と人との憎しみを十字架にかけて滅ぼされた主に従うことによって、私たちの心にも平和を与えて下さい。

 

昔の日本人は自分の住んでいる村がすべてでした。江戸時代にはそれが藩へと拡大し、明治になって日本全土が目に入るようになりました。しかし神様、私たちの生きる世界はもっと広いのです。宇宙船から地球を見た人は、青い地球が一つのものであり、戦争など絶対にしてはいけないことを実感するそうです。そのような大きな視野を持ちつつ、ふだんの生活の中で小さくとも平和をもたらす言葉と行いを積み重ねてゆくことが出来ますように。あなたの平和で世界と私たちを導いて下さい。主の御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。