心の清い者の幸い

心の清い者の幸い    詩編241c6、マタイ58   2021.9.5

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119123124a、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:61、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:85、説教、祈り、讃美歌:519、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

今朝、ここに与えられたのは、イエス・キリストの山上の説教の中での、第6の幸いを告げる言葉です。これまで「心の貧しい人々は、幸いである」に始まって、「悲しむ人々は、幸いである」、「柔和な人々は、幸いである」「義に飢え渇く人々は、幸いである」、「憐れみ深い人々は、幸いである」と学んできましたが、これに続く言葉を皆さんはどう受けとめられたでしょうか。

「心の清い人々は、幸いである」、これが胸に響いた人がいるでしょう。でも、何かピンとこないという人もいたでしょう。いろいろな受けとめ方があったはずです。…また、「その人たちは神を見る」、これはいったい何でしょうか。

これまでの説教で語ってきたところとも共通しますが、「心の貧しい人々は、幸いである」、「悲しむ人々は幸いである」といった一つひとつの言葉を聞いて、私はこれに当てはまる、私はなんて幸いな人間だろうと受けとめた人がいるでしょう。でも、自分はこれに全然あてはまらないし、そのようになるにはどうしたらいいかわからないという人もいたはずです。今日の聖句に関して言えば、自分は心が清いなど到底言えないという人がいるでしょうし、自分の心がどれほどよごれているか、突きつけられた人もいると思うのです。…なかなか面倒な話なので、一つひとつ、もつれた糸をほどくようにお話ししてゆこうと思います。

 

 イエス様は「心の清い人々は、幸いである」とおっしゃいましたが、人の心が清いかどうかというのは、どうすればわかるでしょう。…顔や表情を見ればわかると考える人が多いと思います。心の清い人は、外から見ても清らかに見えるとふつう思われています。実際、そのような人がいるでしょう。でも、いっけん清らかな、良い人が実際はとんでもない悪い人だったということがないわけではありません。逆に、いっけんこわそうな人が実はとても清らかな人だったという場合もありますから、人間の目は必ずしもあてになりません。

 少し前、日本の卓球選手でたいへん人気があった女の子がいました。今でも人気があると思いますが。卓球が強いだけでなく、とてもかわいらしく、清らかに見えたので、日本だけでなく、台湾や中国でもファンが多かったのですが、最近、スキャンダルを起こして、離婚もしてしまいました。彼女のファンは大ショックだったと思います。…あの人だけは、いつまでもかわいらしく、清らかであってほしいと思っていたのに、まるで泥でよごされてしまったような感じでしょう。

 このようなことは、つまり自分ではないほかの人に憧れて、その人に心の清さを求めるということがよくあります。でも完全な人間というのはいないので、憧れの人が大失敗をして、幻滅してしまうことが時々起こります。人間ほどあてにならないものはありません。

 しかしその時、じゃああんたは何なんだということもあるのです。ほかの人のことをあれこれ言う前に、自分もほめられたものではないことがわかる、…よその人には見えないかもしれない、誰も私のことを良い人だと思っているかもしれないけど、実は、私はこんなひどいことを考えていたのだとか、誰も見ていないところでこんな悪いことをしていたんだ、ということが突きつけられることがあるのです。…でも、こういう経験をすることは良いことなんです。皆さんは、ほかの人の悪いところはよく見えているのに、自分の悪いところが見えない人にはならないで下さい。自分の悪いところが見えないと、これを直してゆこうという気持ちが起きないので、悪いところがそのまま残ってしまうのです。

 

 ではここで、「心の清い人々は、幸いである」を考えるために、聖書で「清い」とか「清くない」とはどういうことなのかを見ておきましょう。

 旧約聖書では、どういうものが清くて、どういうものが汚(けが)れているかということがたくさん書かれています。たとえば食べ物についてのリストがあって、こういうものは清いから食べていい、こういうものは汚れているから食べていけないというのです(レビ記11章)。それによると、牛や羊は食べていいけどブタは汚れているから食べてはいけない。魚は食べていいけどうろこのないもの、例えばエビ、タコ、イカは食べていけない。カラスは食べていけない。昆虫を食べてはいけないけどいなごは食べていいなど。…なぜブタとかタコとかが汚れているのか、なぜそれを食べていけないのかと言われても、わかりません。神様がそうおっしゃったからという以外に答えようがないのです。

 しかし、こうした掟はのちに廃止されました。新約聖書では、使徒ペトロの前に、汚れたとされる動物が運ばれてきて、神様が「これを食べなさい」と言われます。ペトロが、とんでもありません、私は汚れた物は何一つ食べたことがありませんと答えると、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声が天から聞こえたのです。

 それ以来、汚れていると言われたものでも食べていいことになったので、私たちはブタもタコも食べています。カラスでも昆虫でも、食べたかったら食べて良いことになりました。食べ物についてはこうして問題が解決したのですが、でも、まだまだ難しい問題が残っています。

 さっき詩編の24編を読みました。「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」という質問がありました。これに対する答えは「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」となります。主なる神様の前に立つことができるためには清い心を持っていなくてはなりません。

 そのため、イエス様が地上におられた時代にも、清い心を真剣に求めて神様に認めてもらおうとする人たちがいたのです。それが、皆さんも聞いたことがあるでしょう、ファリサイ派とか律法学者とか呼ばれる人たちです。この人たちはとにかくきちんとしていました。律法で定められていることを一つひとつすべて、完全に守ろうとしました。礼拝にも勉強することにも熱心でした。食べてよい食べ物だけ食べて、汚れたとされた動物を食べることはありませんでした。そのほかにもいろいろたくさんありました。…汚れた世の中でせめて自分たちだけは清い生活をしようとしたのです。そのこと自体はとても良いことだったのですが‥。

 ファリサイ派とか律法学者とか呼ばれる人たちは、自分は清い心を持っているとみなして、その清い心をどこまでも守らなければならないと考えました。そのため、汚れたものとは関わらないようにしました。自分に汚れがふりかかってこないようにと考えたからです。……私たちにもこのようなことはありますね。例えば、道路を歩いていてそこに犬のうんちが落っこっていたら、踏まないよう注意するのは当然です。…でも、あの人たちは汚れているから一切つきあわないにしよう、となってしまうとどうでしょうか。ファリサイ派や律法学者の人たちはまさにそのことをしたのです。…羊飼いは毎日羊の世話ばかりで礼拝に行くことが出来ないから相手にしない。外国人も遊女も汚らわしい連中だ。徴税人は外国人の手先だから見たくもない。…つまり、この人たちは汚れている、だけどわれわれは違う、われわれは清い、われわれはどこまでも自分たちの清い心を守りぬかなければいけないと、…皆さんはどう思いますか。

 自分たちだけは清い、だけどあの人たちは汚れている、それは本当でしょうか。ファリサイ派や律法学者のように、安全地帯に住んでいる人たちだけが清いのでしょうか。その他の人たちはみんな汚れているのでしょうか。…そんなことはありません。ファリサイ派や律法学者のようにとりすましていることが出来ず、泥水の中をのたうちまわって生きているような人も清いのです、神様の救いを求めている限り。そして自分は清い心を持っているなんて思っている人に限って、心の中をのぞいてみれば汚いものばかりということが多いのです。

 

 さて広島長束教会の日曜学校では、コロナで礼拝が中止になる前、交読文で詩編51編の一部を読んでいました。覚えていますか。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。」。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」。「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたはあなどられません」。

 これを書いたのはイスラエルの王様ダビデです。ダビデは勇気と知恵があり、とても立派な人だったのですが、皆さんはこの詩がどういう時に作られたか知っていますか。

 ある日、ダビデ王は宮殿の屋上を散歩していて、その場所から、美しい女性が水浴びしているのが見えて、心を奪われました。調べてみるとその女性はバト・シェバといって、ダビデの部下である軍人ウリヤの妻でした。そこでダビデ王は命令を出して、ウリヤをもっとも危険な戦場に送って死なせました。邪魔者がいなくなったのでこれ幸いと、王はバト・シェバを呼びよせて自分の妻にしたのです。

 ダビデ王は美しい女性と結婚するためにその夫を殺してしまったのです。王ははじめ、自分がどんなにひどいことをしたのかわからなかったのですが、神様が預言者を送って叱責されたことで自分がたいへんな罪を犯したことに気づき、涙を流して悔い改めの祈りをささげました。それが詩編51編なのです。

 ダビデはその詩を「神よ、わたしを憐れんでください」という言葉から始めます。神様の憐みがなければ、人は誰もみ前から退けられ、滅ぼされるしかないからです。

 交読文には入っていませんが、ダビデはこうも言っています。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。」…あなたに罪を犯したと言っていますが、罪は究極的には神様に対する罪です。ダビデが殺したウリヤという人も神様のものなのですから。

 たいへんな罪を犯し、汚れてしまったダビデの心、これをダビデが自分の力で清めることはできません。だから、こう祈っています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と。ダビデはここで、自分の罪を消して下さいと祈っていますが、それだけでなく「清い心を創造してください」とも祈っています。清い心もダビデが自分で作りだすことはできません。神様が創造して下さらなければ、出来上がらないからです。…こうしてダビデの罪は赦されましたが、このことはどんな人にも言えることなのです。ファリサイ派や律法学者はダビデと同じ罪を犯すことはなかったと思いますが、自分の力に頼って清い心を創造しようとし、その結果、清い心とは似ても似つかぬものを作ってしまいました。私たちも清い心を自分で作ることはできません。

「心の清い人々は、幸いである」。イエス様が幸いとされたのは、神様が清い心を創造される人でありました。神様はどんなところのどんな人に対しても清い心を創造することがお出来になります。「自分なんか厳しい社会の中でのたうちまわるように生きていて、悪いとわかっていることもしなければならないことがある。清い心なんてとてもとても」という人も、神様との出会いから道が開けるのです。

最後に「神を見る」ということを考えてみましょう。神を見るということは信仰者にとって最大の願いです。これほど晴れがましいことはありません。でも最大の恐怖でもあるのです。…イエス様がお生まれになった晩、夜通し羊の晩をしていた羊飼いたちは、突然天使が現れ、主の栄光が輝いたので非常に恐れました。神を見た者は死ぬと言われていたからです。…そうです。誰でも太陽を見続けたら目がつぶれてしまうように、罪ある人間が神様を見ることは出来ません。しかし神様によって罪が消され。清い心が創造されるならそうはなりません。そのためには自分の罪を見つめて、罪を悔い改めることが何より大切です。その時、私たちが思ってもみない別の世界が開けるということを信じて、祈り求めてゆきましょう。

 

(祈り)

恵み深い天の父なる神様。

イエス様が「心の清い人々は、幸いである」と言われたことを、私たち多くは複雑な思いでもって受けとめてました。心清らかに生きている人がいるでしょう。でも、そんな心どこにいったんだという人もいるのではないでしょうか。また、自分の心がよごれきっていることを知って、愕然としている人がいるかもしれません。

神様、私たちの中の多くは、心の清い人々への幸いを告げる言葉にはとてもふさわしくない者たちです。イエス様を見上げる時、このことがわかります。しかしながら今日、自分が罪びとであって、神様に清い心を創造して頂かなくては生きていけない者であると知ったことを、感謝いたします。

神様、この祈りを聞いている人の中で、特に、生き馬の目を抜くような厳しい社会の中、罪を犯しても生き抜いていくべきか、それとも正しさに生きることで滅びてしまうか、究極の選択を迫られている人がいたら、その人をこそ守り、支えて下さい。

 

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン。