誇る者は主を誇れ

誇る者は主を誇れ   イザヤ10519、Ⅰコリ12631 2021.8.29

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119122、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:Ⅱ-1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:73、説教、祈り、讃美歌:448、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 人はだれでも、良いことであれ悪いことであれ、周囲に影響を与えながら生きているものです。まわりにたいへん大きな影響を与える人も、その影響がごく小さいという人もいますが、どちらにしても、いてもいなくても全く変わりないという人はおりません。

 今日、イザヤ書からお話しするのは周囲に絶大な影響を与えた国とその人々です。紀元前8世紀の昔、アッシリアという国がありました。この国は超大国でありまして、ここと戦争して勝てた国はなく、世界征服を目指して突き進んでいたのです。これまでの礼拝でも、南下するアッシリアが、アラムと北王国イスラエルの連合軍を破り、南王国ユダにまで迫ってきたことを学びましたが、その国に対して神が言われた言葉を学びます。…傲慢な人であっても、謙遜な人であっても、ここから大切なことをくみ取ることが出来ますように。

 

 神が世界の諸民族の中からただ一つ選んで、育てられたのがイスラエルの民であることは聖書の中で何回も教えられています。…では神様はこの民をどんな時にも守って下さったでしょうか。そうではありません。神様はイスラエルの民が本当の信仰を失い、ほかの神々のもとに走って、堕落していくのを見てお怒りになりました。そうしてどうされたか、イスラエルの神でありながら他の民族を動かして、イスラエルの民が築いた二つの国を攻撃されました。懲らしめられたのです。このような理由で、神様によって用いられたのがアッシリアです。

 アッシリアは兵士がたいへん多かったというだけでありません。石で築いた城壁などたちどころに破壊できる装置も戦場に運んでいたということで、強力な武器を持っており、こうして中近東を席捲しました。神様が考えられた通りになったのですが、ここに来てアッシリアの人々に高ぶりの罪が現れます。

5節をご覧下さい。これは神様の言葉です。「災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。」アッシリアのことが「わたしの怒りの鞭、憤りの杖」と言われています。つまり、この国は神様の道具にすぎなかったのです。神に従おうとしないイスラエルの民を懲らしめ、悔い改めさせるための神様の道具がアッシリアなのです。…神様はイスラエルの民を懲らしめるためにアッシリアを用い、アッシリアの手によってイスラエルを襲い、踏みつけにされました。神様はアッシリアに対し、征服した民の財産を奪い取れと命じられました。しかしアッシリアの心の中にあるのは、むしろすべてを滅ぼしつくすことでしかありませんでした。

 彼らの心にあったのは、滅ぼすことでした。もう懲らしめるというレベルではありません。それを越えていたのです。…アッシリアがいかに残虐であったかは有名で、敵の目をえぐり取ったり、鼻を削いだり、あるいは生きたまま穴に埋めたりといったことを言う人がいますが、私は確認できませんでした。ただ確かなことは、彼らはいろいろな所に戦勝記念碑を建てました。そこに捕虜が命乞いしているところを掘り、それが今に残っています。さらに征服した民族を他の場所に強制移住させています。

アッシリアは「王たちは、すべて、わたしの役人ではないか」と言います。各地にいる王たちは、いずれは征服される、みんな俺の下にいる役人ではないかと言うわけです。「カルノはカルケミシュと同じではないか。ハマトも必ずアルパドのようになり、サマリアは必ずダマスコのようになる」。知らない地名がいろいろ並んでいますが、要するに、いまそこにある国も、以前、自分が滅ぼした国と同じになるということです。「そして、サマリアとその偶像にしたように、わたしは必ずエルサレムとその彫像に対して行う。」アッシリアの最終目的地はエルサレムのようです。おれはエルサレムに襲いかかり、そこにある神々を破壊し、アッシリアの神々をかかげるということでしょう。

 アッシリアは自分の力に酔い、高ぶりの罪の中にありました。その実例の一つがイザヤ書36章に書いてあります。これは紀元前701年のことで、ヒゼキヤ王が統治している南王国ユダにアッシリアが攻めよせてきました。アッシリアはユダの砦のある町をことごとく占領し、ついにエルサレムを包囲しました。この時、アッシリアの高官ラブ・シャケという人は大声で呼ばわりました。

「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちを救い出すことはできない」、こう言った上で、それまでアッシリアに滅ぼされた国の神々の名前をあげて、主なる神様をあざ笑います。王はこう言われる、「ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セフィルハイムの神々はどこに行ったのか。サマリアをわたしの手から救い出した神々があっただろうか。これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」

ハマトは前720年、アルパデは前740年、セフィルハイムは前725年、サマリヤは前722年に陥落しています。これまで戦った国はみなそれぞれ守護神を持っていたけれども、どれもわが軍の攻撃から身を守ることができなかった。お前たちの神も同じだ、わがアッシリアに抵抗できるはずがないのだと豪語したのです。ユダの人々はこの時、黙ってひと言も答えませんでしたが、心の中は悔しさで煮えたぎっていたことでしょう。

主なる神はたしかにアッシリアをイスラエルの民の前に攻め上らせました。

しかし、それはアッシリアがおごり高ぶることを許されたということではありません。12節に書いてあるように、「主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。」

 神様はアッシリアを罰せられます。それは、アッシリアの王が「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った」と言っているからです。…アッシリアのこれまでの軍事的勝利というのは、果たして自分の力で成し遂げたことなのでしょうか。そうではありません。主なる神が支えておられたからこその勝利にすぎないのに、彼らはそれを自分の手柄にしてしまっていて、その報いを今刈り取ろうとしているのです。……このようなことは人類の歴史の中でどこでも起こっていて、どんな超大国であっても、どんなに力の強い人であっても、永遠に栄えるということはないのです。昔の日本にも有名な言葉がありました。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表わす。驕れる者久しからず、ただ春の夢の如し。猛き人もついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」と。神様は高慢な者たちを罰せずにはおかれません。

 

 それでは、神様が高慢な者たちを罰せられる、その根本的な理由は何なのか、15節を見て下さい。「斧がそれを振るう者に対して自分を誇り、のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし、杖が木でない者を持ちあげようとするに等しい。」

 (子どもたちは鞭ってわかりますか。)アッシリアは自分はすごい、自分は大したものだとうぬぼれていますが、それは滑稽なことです。哀れなことなのです。なぜかといえば、アッシリアはただの道具でしかないからです。

 斧やのこぎりはあくまでも道具にすぎません。それがどんなにすぐれた性能をもっていようと、自分を使っている人間を動かそうとか、指図しようとしたとしたらそれはおかしなことでしかないでしょう。アッシリアもそれと同じで、自分の力に酔っているのですが、元を正せばその力も神様から頂いてないものはなく、いざ神様の支えがなければもろくもくずれ去るようなものでしかないのです。

  同じようなことは誰の上にも起きます。私たちもアッシリアのように高慢になってしまっていることがあるのです。…あなたが口に出して言わなくても、心の中で誇りに思っていることは何でしょう。ある人は自分は頭がいいと思っています。健康が取り柄だと思っている人もいます。職場で上に、上にと昇りつめてそれで得意になっている人がいるでしょう。また、鏡を見るたびに、私はなんて美しいんだと、自分に見とれている人がいるかもしれません。

 才能も健康も、偉くなったことも、美貌も、みな自分の力で獲得したものですか。…中には自分の力だけでここまでなったんだという人がいるかもしれませんが、そもそも健康が与えられなかったら活動することは困難だし、この人が成功するためには多くの人の助けがあったことでしょう。…あなたが今あるのは神様の道具として用いられたからです。

 このことは、一方で、いま自信を喪失して、自分には何の取り柄もないと思っている人にも教えるところがあるはずです。自分はだめだとすっかり落ち込んでいる人というのも、自分の力に全面的に頼っているからそうなるのです。神様はどんな人にも何か、良い賜物を与えて下さっていますから、神様の力によって自分を取り戻し、新しい一歩を踏み出して下さい。

 

 誰もが神様の道具として、この世での何らかの役割を与えられています。道具は自分をすごいと思ったり、逆に卑下してしまうことがあるのですが、その道具を使う方がすごいのです。だから道具である私たちはみな、道具を使いこなす主なる神様をこそ見上げなければなりません。

 第一コリント書126節から31節までお読みします。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。ところが、神は、知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

 自分の力に酔い、自分を誇ったアッシリアはやがて凋落していくことを、私たちは聖書を読む中で知ることになります。太古の昔から今日まで、どんな超大国であっても永遠に栄えた国はなく、大日本帝国も、いっとき世界の中で燦然と輝いたソビエト連邦も崩壊してしまいました。これからの世界がどうなるのか予測は難しいのですが、主なる神様のみこころに反した国は滅びるということだけは言えましょう。

 国家も、人類全体も、私たち一人ひとりも神様の道具なのです。道具にすぎない者たちが神様と自分たちのあるべき関係を忘れて右往左往しているのが今の現状ではないでしょうか。だから、どんな国も自分たちは神の導きの下にあることを自覚して、神様の前に謙虚になるべきです。間違っても国家を神様の上に置いてはなりません。

 人類全体ということで言えば、近い将来、AIが人間を支配してしまうだろうという人がいますが、AIは人間が作った人間のための道具ですから、これに人間が支配されるようなことがあってはなりません。AIに就職先を決めてもらう、AIに結婚相手も決めてもらうということがあればおかしいでしょう。AIは人間の道具であり、人間は神の道具なのです。

私たちが仕事の上で成功したなら、家庭生活がうまくいったなら、それはすべて神様のお陰です。信仰生活の上での進歩も神様の導きによるもので、自分で誇るべきことは何もありません。すべての祝福は主の恵みによるものですし、その反対に主が自分に不幸を与えているように見える時も、このことを通して神様があなたを引き上げて下さろうとしていることを見出して下さい。私たちが主の御手に握られ、そこから離れないならば、私たち自身がどんなにみすぼらしい道具であっても、いかようにも使っていただき、驚くべき働きを担うことが許されるのです。ですから、まず自分が神様の道具であるという自覚を持たなければなりません。自分ではなく主なる神を誇るのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりです。

 

(祈り)

恵み深い天の父なる神様。

神様から与えられたものを自分の手柄にして驕り高ぶる人がいる一方、自分がやることなすことがうまくいかないとすっかり自信喪失して不満をため込んでしまう人がいます。実際には驕り高ぶっている人は少数で、自信喪失して不満をため込んでいる人の方が多いと思いますが、この二つはコインの裏表のようなもので、いま自信喪失している人がひとたび環境が変わって生活がうまくいくと、とたんに高慢になってしまうでしょう。

神様、いま自分の状況がどうあるかに関わりなく、心を清く、静かに保ち、ただ神様のみむねが自分の中で実現することを祈り、求める者にして下さい。神様の道具として用いられることこそ、本当の人間の幸せなのですから。

 

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン。