キリストに対する畏れをもって

キリストに対する畏れをもって 創世記224、エフェソ52133  2021.8.22

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119121、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:78、説教、祈り、讃美歌:433、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 エフェソの信徒への手紙は、後半に入ってキリスト者の具体的な生き方について語るようになっています。5章では「光の子として歩みなさい」という教えの下、「酒に酔いしれてはなりません」という、私を含め多くの人にとって耳の痛い教えがあります。しかしパウロは酒飲みを断罪してはいません。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と、別の、新しい道を示してくれました。この延長線上に今日の聖句があります。…ここはよく結婚式の中で唱えられるところです。

日本キリスト教会の式文で、結婚する二人が誓約する前に読む聖句として定められたいくつかの場所の一つとして5章25節から33節があります。「夫たちよ」から始まって、「妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」で終わっています。ここでは夫と妻について語っている中で「わたしは、キリストと教会について述べているのです」という言葉が入っていて、なんだかよくわからないまま結婚したという人があるかもしれません。今日の説きあかしではっきりしますように。

 

 パウロはここで「妻たちよ」、「夫たちよ」と語っていますが、当然のことながらすべての人がこれに当てはまるわけではありません。結婚はまだ将来のことだという人、独身を選んだ人、配偶者と離婚したり死別したりして今はひとりという方などいるでしょうが、ここはいま夫や妻でない人にも大切なことを教えてくれているはずです。

 現在、夫や妻である人は、このテキストから夫や妻の正しいあり方を学び、夫婦関係の改善に役立てようと思っているかもしれません。そう思うのはもちろん良いことですが、ただ、聖書にこう書いてあるからといって「妻は夫の言うことに従うべきだ」とか「妻は夫に対し、どこまでも我慢しなければならない」などと判断してしまうとその結果はたいへんなことになります。パウロの言葉から、男性優位、男尊女卑を読み取ろうとする人がいるのですが、ここで言われていることは今も激しく議論されているところでありまして、その点も私がわかる限りでお話ししようと思っています。

 

 肝心な言葉が冒頭の21節にあります。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。仕え合うという言葉には、原文では従うという意味があります。夫と妻が互いに仕え合いなさい、従いなさいと教えているのですが、ここで大事なことはその上に、いわば冠として「キリストに対する畏れをもって」と書かれていることです。

 イエス・キリストは十字架の死とよみがえりのあと、天に昇られて、いま父なる神の右に座しておられます。「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とフィリピ書(29)に書かれています。…キリストへの畏れをもって夫と妻は互いが互いを尊重して、仕え合うのです。キリストへの畏れがないところに、本当の意味での夫婦関係はありません。お互いがお互いを見つめているだけでは、若い時はわたしの夫はいい男だわー、うちの奥さんなんて美人なんだろう、で済むかもしれませんが、いつまでもというわけにはいきません。キリストへの畏れ、このことは夫婦関係に限らず、親子関係、きょうだいの関係をはじめあらゆる人間関係において言えることです。

 キリストへの畏れのないところで、夫婦関係もあらゆる人間関係も、力関係となって支配と依存の関係になるか、利害関係となってウィン・ウィンの関係を目指すものになるかのどちらかだけです。…二人の人間がいて、両方ともキリストを見上げ、キリストに対する畏れをもって互いに仕え合うことが根本です。むろんキリストに対する畏れをもっているのが片方だけということがあるのですが、片方だけでもそうあることが関係改善のための決定的な一歩です。

 

 さて、ここまで納得して頂いた上ですが、聖書をこのまま読んでいくと、みなが納得できるとは限らない言葉にぶつかります。

 22節、「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり。自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」

 今日、実際の状況はともかく、男女平等とか女性が輝く社会とか叫ばれている時代の中で、こうした言葉が物議をかもすことは確実です。……聖書にはこのような、男性優位を認めるかのようにみえる言葉がいくつかあり、受け止め方は世代によってもいろいろです。

私が昔会った老婦人は保守的な考えを持っていました。「神様は、アダムとエバに対し、男と女の役割を定めて、男は働き、女は子を産むと書いてあるのだから、男は外で働き、女は家を守ってゆくのが当然だと。」、皆さんはどう思われますか。

 最近、私はある神学書を読んでいて目を開かれました。こう書いてあるのです。「創世記に男は女を支配すると書いてある(創316)ことをもって、神が男は女より優位に立つよう定めたという考えがあるが、これは人間が罪を犯したことでこうなったので、本来の姿ではない。本来、男女は平等で、人間社会はそのようになっていかなくてはならないのだ」と。

 この考えに沿って話してゆこうと思います。…エフェソに戻りまして、夫に対する言葉を見てみましょう。

 25節、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」ここは、夫に対して、実はたいへんなことを言われているのです。妻に対する「自分の夫に仕えなさい」という言葉よりはるかに難しいことなのです。わかりますか。…キリストが「御自分をお与えになったように」愛するということは、妻のために命を捧げなさい、ということまでなるのです。…妻に対しては、主に仕えるように夫に仕えなさい、夫は妻の頭だからと言われていますが、夫に対しては、キリストが御自分を与えたように、さらには自分の体のように妻を愛しなさいと言われています。つまり夫への要求項目が妻への要求項目より格段に厳しいのです。

 パウロが書いたことを今日の人権感覚によって批判するのは簡単ですが、ここで時代背景を考えてみましょう。当時としては、パウロの言葉はたいへん斬新で画期的な言葉であったにちがいありません。…この時代、女性の地位は今日よりずっと低かったので、夫が妻を離縁するのも離縁状ひとつ書くことですみました。福音書(マタイ19310)では、夫が妻を離縁することについて質問されたイエス様は、離縁をしてはならない、神が一つにしたものを離してはならないと教えられています。するとそれを聞いた弟子たちは「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と、今の人権感覚からするとびっくりするようなことを言っているのです。

 夫は妻を簡単に離縁できた、そのような時代の中で発せられたパウロの言葉です。私たちは、妻たちに自分の夫に仕えなさいと書いてあるのが引っかかってしまうのですが、夫に対しては命をかけて妻を愛せと言われています。この言葉は新しい夫婦関係を指し示すもので、この二人の上に、キリストに対する畏れが冠としてかぶせられているのです。

 

 聖書の言葉が、今日の常識や感覚で読んだ時に、人権をないがしろにする言葉だとして糾弾されることが時おり起こります。批判する側は今日の箇所のようなところをとらえて、聖書は古臭くて、反動的だと言います。これに対し、聖書の権威を絶対に損なってはならないと考える人がいて、聖書を一字一句、文字通り信じるべきだと主張します、今日のところでは「聖書にこう書いてあるのだから、妻は何があっても夫に従いなさい」となるでしょう。こうした論争は時折り炎上するのでるが、ここで立ち止まって下さい。パウロは女性を一気に、完全に解放すべしというようなことは言っていませんが、そのかわり、女性を永遠に男性の下に置くようなことを認めているのではないのです。私は、パウロは、彼が生きた時代状況の中で、夫と妻の関係、ひいては男女の関係を平等ということに向けて、少しずつでも改善していく、その道すじをつけたのだと、その意味でその言葉を尊重しなければならないと考えています。

 

 こうして、まとめに入りますが、夫と妻の関係は、それ自体が神と人間の関係を写したものであるべきなのです。神が人間を愛する、その愛をもって夫と妻は愛しあうのでなければなりません。…皆さんは、こんなことを言うと堅苦しく思われるかもしれませんが、そうではありません。

以前、この教会で雅歌を学びました。聖書にこんなすてきな話があるのかと思えるほどで、男女の愛がエロティックと言っていいほどに謳歌されています。神の愛というと私たちはすぐ十字架を思い浮かべます。もちろんそれは正しいのですが、雅歌に描かれた男女のおおらかな愛もやはり神の愛を写したものなのです。神様は狂おしいほどの情熱で人間たちを愛して下さっておられるのです。

このことがキリストと教会の関係に現れています。教会はキリストを頭(かしら)とする、キリストの体で、私たちはその一枝一枝です。イエス・キリストと教会は頭(あたま)と体のように結びついています。一体なのです。そのことは夫婦の間にも言えることで、夫婦も頭と体のように結びついていますから、31節においても創世記の言葉を引用して「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われているのです。

私たちはキリストと教会の関係が、夫と妻の関係と同じだなどと、思ったこともなかったでしょう。だからエフェソ書の言葉がわからなかったのですが、神の人間に対する愛を理解し、キリストと教会が一つの体であることを知ることによって初めて見えてくるのです。…私たちがもしも神の愛も、教会がキリストの体であることも見えてないとしたら、教会は頭(かしら)であるキリストから離れて、人間中心のあり方になってしまうでしょう。この世にあるほかのあらゆる団体と何ら変わらないことになってしまうでしょう。そうなると、教会に集まる人がうちに帰って夫として、妻として、そのほかいろいろありますが家族との間で生きる時、それぞれの関係は神様から来たものとは違うことになるわけですね。その家族がいつまでもうまくやっていけるかは疑問です。

26節を読みます。「キリストがそうなさったのは、言葉と共に水で洗うことによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」

キリストがそうなさったのは、教会のため御自分をお与えになったことを言っています。言葉とはキリストが語って下さった福音、水で洗うとは洗礼です。キリストが行って下さったすべてのことは教会を清めて聖なるものとするため。教会が清められる時そこに集まる一人ひとりも清められます。その喜びの中に、夫と妻の間も、その他あらゆる人間関係もあるのですから、ここまで来て、パウロがキリストと教会について教えていることがそのまま、夫婦関係やその他の人間関係を祝福していることがわかるようになるのです。神様を賛美します。

 

(祈り)

 恵みに富み給う主イエス・キリストの父なる神様。あなたは私たちを愛し、 顧み、守り切って下さいます。キリストが教会を愛して下さったその愛によって、私たちの中で夫婦や家族、その他の人間関係を育てて下さっていることを教えられて感謝いたします。イエス・キリストが私たちのような者の救いのために、全てを捧げて、仕えて下さったことを思いながら、私たちも私たちと接する家族や全ての人に対し、仕えていくことが出来ますように。そのことを通して、神様の限りない恩寵に与って行けますように。多くの人々 がこの恵みの中に入れられて行きますように。

 

とうとき主イエス・キリストの御名を通して、この祈りをお捧げいたします。アーメン。