憐れみ深い人々の祝福

  憐れみ深い人々の祝福  詩編25:6~11、マタイ57  2021.8.8

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119117、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:11、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:82、説教、祈り、讃美歌:501、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏、報告

 

 イエス・キリストの山上の説教について、話し始めてからこれで6回目になりました。今日の礼拝説教のタイトルは「憐れみ深い人々の祝福」、これは看板に書いて頂いて外にも掲げてありますが、通りすがりの人の注意を引くようなことはなかなかないと思います。教会は旧態依然、同じようなことを言っているんだなと思われているかもしれません。それは私たちにも言えることで、何と言いましょうか、聴き飽きてしまった音楽をもう一度聴くような感じなんですね。タイトルを見ただけで、もう説教の内容が予想できそうです。しかし一流の演奏家なら、またあれかと思えるような作品でも新しいいのちを吹き込むことができるのです。この説教も神の助けを頂いてそのようになることを願っています。

 

まず、こんなこと当たり前のことじゃないか、わざわざ教会で教えられなくてもわかっているという人がいたら、そういう考えは取り除けて下さるように。

その人にとって憐れみ深いことが当然のことになっているのは素晴らしいことですが。いくら憐れみ深い人であっても、時には意地悪になることがあるし、憐れみ深くしたくても出来ないこともあります。…もちろん憐れみ深いとはとても言えない人もたくさんいるわけです。憐れみ深いことがすべての人に言えるようになるまでは、イエス様に教えて頂かなければなりません。

 実は、この、日本語の「憐れみ」という言葉がイエス様が言われた通りの言葉と言えるかどうかという問題があります。日本語の「憐れみ」は、あまり良い響きのする言葉とは言えないように思います。憐れみとは、ある人をかわいそうに思って何かしてあげようとすることです。例えば物乞いをする人がいて、そこを通りがかった人がお金を差し出すというように。この場合、どうしても、憐れみをかけてあげる人が上位にいて、自分より下にいる人にお金を恵んであげるという構図になってしまいますが、これに類したことはたくさんありますね。

 何かの災害に遭ってたいへんな状況のある人たちに、寄付金をささげようかという場合、そんな人のこと知らんというより寄付金を出す方が良いのは確かですが、その時の心の持ちようが問題です。「本当はたくさん差し上げたいのですが、うちの経済状態ではこれしか持ちだせません。どうか悪く思わんで下さい」と言うのと、お金が有り余っている中で申し訳程度にちょっと出すのとでは全然違うのです。神様はそういう時の心のあり方もちゃんとご覧になっておられます。

 ここに困った状態にある人と、その人を助けることが出来る人がいるとして、助ける方は気持ちよく助け、受け取る方が気持ち良く受け取って、困った時はお互い様ということなら良いのですが、助ける方が「俺は助けてやったんだ」と優越感を持ち、困った状態にある方が人に助けられることでプライドが傷ついてしまう、そのため助けを受け付けないということもよく起こります。時々、大災害にあった国が他国からの援助を謝絶するということがあって、これも国家のプライドに関係するのでしょう。

 ですから「憐れみ深い人々は、幸いである」ということが、そのような意味で理解されてしまうとたいへん不幸なことになります。

 新約聖書はギリシャ語で書かれていて、「憐れみ」と訳されたギリシャ語の言葉があるのですが、その言葉はへブル語とアラム語を原語としていているのだそうです。そのへブル語がヘセドという言葉で、これが英語にも訳しにくい言葉なのです。一つの単語では表しきれないのです。…へブル語のヘセドというのは、他の人の心の中にまで入ってその人の立場で物を見、その人の身になって考え、その人が感じるように感じることです。それは、ただ気の向くままに同情することではありません。はっきりした思いと意志も必要です。真剣に相手の立場に自分の身を置いて、相手と同じ気持ちで物を見たり、感じるようにすることにほかなりません。

 

そこでまず旧約聖書から実例を見たいと思います。今申したように、日本語の「憐れみ」という訳語が元の言葉の意味を伝えるには不十分だということを頭に置いた上で聞いて下さい。

神と人間の間には当たり前ですが、厳然とした上下関係があります。ですから、神が優越感をもって人間に対峙することがあってもいいはずだとは思いませんか。神様が人間に言うことを聞け、そうすればご褒美をあげるぞと、そうして人間がホイホイ神様についていくということがあっても良いはずなのに、実はそうはなってはいません。

ホセア書という書物、教会で読んだことがあまりないかもしれませんが、かなりショッキングな書です。その1章2節を読みます、「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ』」

 こんな命令に従える人がいますか。…預言者ホセアはこうして、とんでもない女性と結婚するのですが、この結婚がホセアにとってどれほどの苦しみであったか、想像に難くありません。相手の女性にとってもそうだったかもしれません。…神様はなぜ、こんな命令をされたのかと思いますが、2節の終わりにその理由が書いてあります。「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

 おわかりでしょうか。神とイスラエル民族の関係は結婚にたとえられます。神を夫にたとえるとイスラエルの民は妻になります。神様はこの民を愛して結婚したのに、彼らはとんでもない女で夫を裏切り、不倫に走るのです。主なる神を裏切り、バアルの神やアシュトレトの神といったほかの神々の魅力のとりこになることですが、そのたびに神は激しく悩み、苦しまれた、そのことを人間に理解させるために、預言者ホセアに淫行の女との結婚を命じられたのです。

 そして、どうなったか、神はホセア書11章7節でこう述べておられます。「ああ、エフライムよ。お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。……わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」

 夫婦関係が危機に陥ることは現実に起こることですが、これほど激しいのを経験した方がいるでしょうか。私たちは、「神は愛である」ということを教えられていますが、上辺だけしかとらえていない感じがします。旧約の神様は怖い神様だけど新約の神様は優しい神様だと思ったりします。自分にとって都合の良い、甘っちょろい神様を考えることがあるのですが、そんな考えは捨てて下さい。厳しい神はこれほどの憐れみに生きる神であり、それゆえに愛の神であるのです。

 

 ホセア書に現れた胸を焼かれるほどの憐みは、イエス・キリストも大切にされていたものです。そのことはマタイ福音書9章1213節の主イエスの言葉にも現れています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

主イエスが引用された言葉「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」、これはホセア書6章6節からの引用です。この場所を開いてみると「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」と書いてあり、使われている単語が少し違いますが大きな問題ではありません。神様が喜ばれることは、本当の意味での憐みであって、形ばかりで心のない動物の犠牲ではないということです。これを私たちに当てはめてみると、いくらたくさんの献金を捧げたところで心が入っていなければむなしく、むしろ助けを必要としている隣人を思い、その人の重荷や苦しみを共に担う、そのような憐れみを神は重んじられるということになるでしょう。…これは献金をしなくて良いということではありません。心を込めて行う献金を神様はみこころのままに用いて下さいます。そして、そのような気持ちで献金をする人は、隣人との関係においても、本当の意味での憐れみが発揮されるのです。

神こそまず第一に憐れみ深いお方です。出エジプト記34章の中で、神は御自らこのように宣言なさっています。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。…」(出エジプト記34:6、7節)。

何より神こそが憐れみ深い方であられます。そして、その憐れみが目に見える形で、人となって現れたのが私たちの主、イエス・キリストです。イエス・キリストは、その存在自体が私たち罪びとに向けられた神の憐れみにほかなりません。そのことが世界に示されたのが十字架の出来事で、私たちはみな十字架のもとで、神の憐みを受けていますから、自分自身も憐れみ深い人間になることができるのです。

このことを教えられるために、主イエスがお語りになったたとえ話があります。マタイ福音書1821節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」です。皆さんは何回も聞かれたかもしれませんが、改めて聞いてみましょう。王が借金の決済を始めました。ある家来の借金は一万タラントン、1タラントンとは労働者の一日分の給与1デナリオンを六千倍した金額なので、一万タラントンこれは6000万デナリオンというとんでもない額になります。王はこの家来に、自分も妻も子も、持ち物も全部売って返済するよう命じました。しかしそれはできません。家来はひれ伏して、どうか待って下さいとしきりに願ったので、王は「憐れに思って」彼を赦し、巨額の借金を帳消しにしてあげました。この家来がどんなに喜んだか言うまでもありませんが、その喜びも消えない内に、外に出ると仲間に会いました。その人はこの家来から100デナリオンの借金をしている人でした。すると巨額の借金を帳消しにしてもらったばかりの男が、僅か百デナリオンの借金をしている仲間を赦すことが出来ず、彼をつかまえて牢に連れてゆき、借金を返すまで承知しなかったのです。

報告を受けた王は彼を呼び出して言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」王のこの時の言葉、「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」、これが今私たちに語りかけられている言葉です。

私たちは既に大きな憐れみの中に置かれているのです。…私たちがもともと罪の中にあったということが実感できない人がいるかもしれません。自分の意志でもないのにこの世に生まれさせられ、罪びとだと言われる。自分は法に触れることはしていないし、社会的責任もきちんと果たしている、…それでも罪びとなのです。神様に対して。しかし神様はその状態から私たちを救い上げて下さいます。

私たちは自分では決して償うことができない罪、負債を、キリストの十字架の死によって赦され、帳消しにされた者たちです。借金を帳消しにする時に、貸していた者が損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さったことが主イエス・キリストの十字架の死にほかなりません。そこに神の深い憐れみの出来事があるのです。その憐れみを受けた私たちが、自分にわずかばかりの負債がある人、罪のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となることにちがいありません。

人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、自分にとって利益がないように思われるかもしれませんが、そのような場面においてこそ私たち自身の憐れみ深さが問われていくのです。そこでなお、憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみを与えられていることを知る者だけが出来ることなのです。そこに私たちの幸いがあるのです。

 

(祈り)

憐れみに富みたもう天の父なる神様。神様からあふれる憐れみを受け取りながらも、そのことを忘れがちで、隣人に対し本当に憐れみ深くできているのかと、自分をふりかえるたびに恥ずかしくなる私たちをどうかお赦し下さい。

今おそらく多くの人々が、それぞれに苦しみ、悩みがあって、中には心の中に行き場のない不満をつのらせている人もいるかもしれません。しかし神様、私たちが心を静めて神様に向かい合い、神様は自分に日々これほどの恵みを与えて下さっているのかと、神様の恵みに気づく者として下さい。コロナ禍の中、暗いトンネルを歩いているような世界も、神様の憐みが与えられることによってこそ、希望に生きることが出来るようになります。本当の意味での憐れみがまずイエス様を信じる私たちやキリスト信徒の中に起こされ、喜びが不幸に打ち勝つことを見せて下さいますように。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。