義に飢え渇く人々

義に飢え渇く人々   詩編4227a、マタイ5:6      2021.8.1

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119115、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:4、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:259、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ-60、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式、讃美歌205、献金・感謝)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 マタイ福音書から山上の説教の言葉を一つ一つ見てきています。「義に飢え渇く者のさいわい」を告げる言葉、これが今日の礼拝で与えられたみ言葉です。

 

いま私は、「与えられたみ言葉」という言いかたをしました。礼拝においてみ言葉が与えられるというのは、古くから教会が用いてきた言い方です。もちろん、神から与えられたという意味で用いています……。もしかしたら、私が自分で聖句を選んでおきながら、与えられたなどと言うのはおかしいんじゃないかと思う人がいるかもしれません。礼拝でマタイ福音書を取り上げることを決めたのは私と小会です。しかし、私が礼拝説教を重ねているうちに、やはりみ言葉は与えられるものだ、という実感を持つようになりました。

 礼拝の準備をし、説教を語ることをくりかえすたびに思い知らされることがあります。聖書の本文を読み、いろいろな註解書に当たり、祈り、自分の考えをまとめ、この言葉についてこういうことを語ろうと見当をつけます。しかし、実際にここで語っている時、そういう自分の思わく以上の思いが出て来ることがあります。ごくたまに自分が語ろうとは思わなかった言葉が出て来ることもあります。また自分が語った言葉によって自分自身が励まされることもあります。そういうことを通し、説教とはそれを作る人の思いを越えたところで語られていると思わせられるのです。…「義に飢え渇く人々は、幸いである」、この言葉を語る時にもそのような思いを抱かざるを得ません。この聖句が与えられたのは、マタイ福音書を最初から読んでいってたまたまここに来たからではあるのですが、実際のところ、この言葉を受けとめることも、これを語ることも、私自身の能力を超えていることなんですね。神様が私という不完全な器を通しても御言葉を正しく語り、皆がそれを受け止めることが出来ますように。

 

主イエスが初めて、義に飢え渇く人々のことを語った時、私は、その場にいたほとんどの人たちはぽかんとしてしまったのでないかと想像していますが、そのことは今の時代でも同じように言えることではないでしょうか。少なくとも、このみ言葉が自分に当てはまると自信を持って言える人はたいへん少ないはずです。…それは、いったい義に飢え渇く人々などいるのかと思ってしまうほどに、私たちはここから遠い所にいるからです。もしも、「そう思っているのはお前ぐらいのもので、私たちみんな義に飢え渇いているんだ」と言われるなら、こんな結構なことはないのですが。

 お金に飢え、欲望に渇いているのが人の常です。お酒をあびるほど飲んでみたいという人もいるでしょう。…たまに知識に飢え渇いている人もいますが、しかしながら、義に飢え渇く人となるとどうでしょうか。…自分の欠点は棚に上げて、他の人の欠点を厳しくあげつらう人ならいますが、こういう人は義に飢え渇く人と言うことは出来ません。自分自身の罪をはっきり自覚し、悔い改めを続けながらも、ほかの人々が悪いことをしているのを見た時、これと妥協せず、神様の正義が実現するために力を尽くす人がいたら「義に飢え渇く人」に近いと言うことができるのですが、そういう人は滅多にいません。

 主イエスはまずこのような私たちの現状に対して注意をうながします。……それでも、飢え渇くように何かを求めて生きる人はまだましなのかもしれません。欲のない人も心配です。こういう若者がいました。「僕は年取ったら、縁側で休みながらのんびり日なたぼっこしたいという壮大な夢を持っているんですよ」。なんか高齢者めいた言い方ですが、こんな青年が増えてきているような気がします。

 終戦直後のもののない時代には、たとえば本もわずかしかないために活字に飢えているという状況があったと思いますが、今みたいに洪水のように本が出版される時代になると、本を読みたいという気持ちがかえってなくなってしまいます。ものがあふれて整理に困り、少ないものでいかに豊かに暮らそうかという時代ですから、もう欲しいものは何もないという人が出現しても不思議はありません。いずれ「自分は何がほしいのだろう」と、自分を夢中にさせるものを求めて旅をする人が出て来るかもしれません。

 だから、何も欲しくないという人に比べたら、あれも欲しい、これもしたいと悩む心はまだ正常です。しかし、あなたの心はもういっぱいですか。まだまだ足りない部分が残っていますか。何か入れなくちゃ渇きが取れないですか、それなら結構です。では心の空洞を何によって満たしたら良いかを考えてゆきましょう。

 

 ルカによる福音書にはもう一つの山上の説教が出て来ますが、その中で6章21節を開くとこう書いてあります。「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」。マタイ福音書との違いに注意して下さい。最大の違いは義という言葉がついているかどうかです。「義に飢え渇く人々」と「今飢えている人々」、主イエスはそもそも何と言われたのか、判断がたいへん難しい問題です。マタイもルカも共に主イエスの同じ言葉を書きとめたのですが「義に飢え渇く人々」と「今飢えている人々」、これだけ違ってしまいました。

しかし食べ物がなくて飢えていることと義に飢え渇くことは、実は密接な関係があるのです。

 飢えという問題は当時の人々にとって非常に身近な問題でありました。主イエスが地上で活動した時代、ユダヤの労働者の一日の賃金はごく少ないものだったので、もしも日雇いの労働者が一日仕事がなかったら、その家庭はたちまち空腹に見舞われることになったということです。…ご存じのように水が少ない地域で、今みたいに蛇口をひねれば水が出て来るわけではありませんから、水を確保するのも大変な問題でした。

詩編42篇の詩に「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」という言葉があります。…鹿が水を求めて谷にやってきますが、これは日本の風景の中で想像しないで下さい。日本の谷はだいたい木がおいしげっていますが、この地域はそうではありません。太陽が照りつける中、鹿は谷底には水が流れていると思ったのでしょうが、いかんせん涸れた谷に水はありません。水がなければもう生きてはいけないのです。…人々が水を求める気持ちは、日本の比ではなく、こういう状況を踏まえてイエス様がここで言っていることをまとめるなら、「飢えている人々が食べ物がほしくてたまらないように、また渇きのために死にそうになっている人が水がほしくてたまらないように、義を慕い求める人々は幸いである」となるでしょう。

さて、ここで注意したいことがあります。それは、義を行う人々が幸いであると言われているのではないということです。義を行う人々が幸いであると言われているのではないということです。義とは正しさのことですが、しかし、正しいことを行う人が幸いであるというのではありません。幸いであるのは「正しさに飢え渇いている人々、義をひたすら慕い求める人々」なのです。

さらにここで言っている義、正しさというのは自分の義、自分の正しさではありません。自分は何をやっても正しいと信じ切っている人はいつの時代、どの国にもいて、自分の欠点が見えないので、自分に原因があったとしても自分が悪かったと認めることはなかなか難しいのでが、これをイエス様の時代の中で考えてみましょう。この時代、ファリサイ派とか律法学者とか呼ばれていた人々は、それこそ義人、正しい人と見なされて、自分でも納得していました。律法を忠実に守る人だったからです。掟を守って正しいことを言い、正しいことを行う、そうした正しい人になることこそ幸いであるというのが常識であって、そういう考え方は今の私たちにとっても合理的に見えるものです。

しかし、主イエスはこれとは全く反対に、自分では正しいことを行えない人、自分の中に正しさを認められない人の方が幸いであると宣言されたのです。これは、この時代の常識をひっくり返した教えにちがいありません。

有名な「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ18:9~14)を思い出してみましょう。この話では神様の前に、自分がほかの人やこの徴税人のような者でなく、信仰ひとすじに生きていますと祈った人が斥けられ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った徴税人が義とされています。ふつうは、誰からも責められることがなく、尊敬され、称賛される人、欠点がないのが欠点みたいに言われる人こそ幸いとされるわけです。社会の中で尊敬されることがなく、やっていることも軽んじられるような人が神様から義とされるということはちょっと考えられません。このたとえ話について言えば、主イエスの教えに反発する人も当然いるはずです。「もしイエス様が教えられたことが本当だったら、正しいこと、善いことをしていこうとする人はがまんできません。教会では律法主義、律法主義と言って掟をそのまま守ろうとする人を非難しますが、正しいことが出来ない、する意思もない人を神様は喜ばれるのですか」と。こういう人がいてもおかしくありません。

確かに、正しいことを出来ない人、しようともしない人がそのまま神様に良しとされて、迎えられてしまえば腹が立つのもわかりますが、この話のポイントは、ここに出て来る徴税人が自分では正しいことを行なえない、自分の中に正しさを認められないことを自覚しているがゆえに、必死になって神様からの義を求めているということです。自分の正しさに満ち足りている人よりも、むしろ自分の中に正義を欠いており、義というものが無いことに思い悩んでいる人こそ、神様の義が与えられ、神様の義に満たされるのです。
 神様から与えられる義、正しさとは、主なる神様の義です。人間の義、人間の正しさではありません。神の義、神様の正しさを求める人が幸いなのです。人間の正しさというのは相対的なもので、人間は何が正しいかという事で、いつも争っていますが、それを判断する基準は自分にとってそれが利益があるかどうかです。もちろん自分の命とか生活がかかっている時もあって、いつも大人しくしているのが良いのではなく、主張すべき時は主張しなければなりませんが、ほぼすべての人が自分から見た正しさによって主張し、争っているのです。神様から見た義、神様から見た正しさによって行動することはなかなかありません。

主イエスは、自分では正しいことを行えない人、自分の中に正しさを認められない人の方が幸いであると言われます。これは自分はどうせだめなんです、という人がいた場合、それを認めるというのではありません。自分の正しさに信用がおけないことを知っている人の中に神様の義を求める人が出て来ます。

それが飢え渇くような思いになっているかどうか、…この時に障害となるのが罪と妥協してしまう心です。私たちは大きな罪に対してはブレーキが働くことが多いのですが、小さな罪の場合、これくらいは良いだろうということで妥協してしまうことが多く、それが積もり積もって今の私たち自身を作っていると言ったら言い過ぎでしょうか。しかし、ここから抜け出る道があるはずです。

 十字架の死に至る、主イエスの歩まれた道は、自分のいかなる努力によっても心の空洞を埋めることの出来ない人間たちに、神の義を満たすためでありました。ロマ書3章22節から24節は、信者に神の義が与えられたことを語っています。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 私たちにとって、義に飢え渇くということは自分にはとても出来やしない遠い話のように思われるかもしれませんが、いつ、そのように導かれるかはわかりません。私たちは主イエスがイニシアティブをとって下さる限り、その時が来ることを信じて良いのです。

 

(祈り)

憐れみに富みたもう天の父なる神様。いま私たちは、あなたの前でもはや隠しようのない、義に欠けた自分の姿を恥じております。私たちもかつてはもう少し正義感があったように思います。しかし今はどうでしょう、現実と妥協することには巧みでも、すべてを支配なさる神様に心を向けることが少なく、あなたがもったいなくも私たちにかけた望みを日々こわしているのではないかと恐れます。

いま日本でも世界も、疫病の感染、異常気象、戦争、人心の荒廃など次から次に困難な問題が起こっています。この現実を前にして、神がいるならどうしてこんなことがあるんだ、と考えるほど傲慢になってしまっている人間の罪をおゆるし下さい。あなたの造った世界と日本、そして私たちの中にどうかみこころを行って下さい。どうぞ私たちの教会を、義に飢え渇く思いで心を合わせる群れとして下さいますように。

 

 とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。