危機の時代を生きる

          危機の時代を生きる             イザヤ9720、ルカ194144    2021.7.25

 

招詞:詩編119113114、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:85、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:276、説教、祈り、讃美歌:496、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣

 

 イザヤ書の礼拝説教では先月、メシアの到来を預言するたいへん名高い箇所を学びました。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ91)、紀元前8世紀、イスラエル民族は南北二つの国に分裂し、両方とも超大国の脅威の前に存亡の危機にありました。何より大切な主なる神を信じるまことの信仰はすたれ、霊媒や口寄せによって死者のお告げを求めることが盛んに行われていた時代です。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(イザヤ822)、このような時に、イザヤの口から語られたメシア到来の預言を当時の人々はどのように聞いたのでしょうか。おそらく、それこそ夢か幻のように思えたのではないかと思います。ただ、少数ながら、その言葉を心に留めて、心の支えとした人がいたにちがいありません。

 たしかに自分の国が超大国の脅威の前に亡びるかどうかという時に、新しい王が到来するとか、その王によって「平和は絶えることがない」と言われても、すぐに信じられるものではありません。まず現実を見なさいと言われてしまうでしょう。しかし、イザヤが語ったのは神の言葉でありますから、どんな厳しい時代の中にあっても、これを信じる人を支え続けます。…こうしたことは今の時代も変わりなく、例えば戦争がなくなって平和な世界が来るとか、将来イエス様が再臨されて新しい世界が始まるとか言うと、そんなことありえないと切り捨てられてしまうのが世の常ですが、それでも神様が言われることだから信じようとする人がいるのです。…夢か幻のように思われることがすぐに実現することは普通はなく、そのため、待ち切れなくて心が折れてしまう人がいるのですが、神様が言われたことなら、それがすぐに実現しなくとも、そのことを見据えて、一歩ずつ歩んでいくことが大事です。私たちの小さな、微微たる歩みも、世界を救いに導こうとしておられる神様の御手の中にあるからです。

 

 神様が示して下さった壮大なビジョン、これがすぐに実現するということは少なく、現実にはこれでもかこれでもかというように困難が立ちはだかっています。今日の箇所がちょうどそれに当たり、聖書の読者はメシア到来の輝かしい預言のすぐあとで、またしても厳しい現実に引き戻されてしまいます。…読んでゆく前に、まず分裂国家の一つイスラエルの成り立ちについてお話しします。

 奴隷の地エジプトから解放されてカナンの地に帰ってきたイスラエルの民の中で王となったのがサウル、次がダビデ、その次がダビデの子ソロモンで、この時イスラエルの国は最盛期を迎え、その名は当時の世界中にとどろきました。しかしソロモンは年老いた時、外国人の妻たちに迷わされて主なる神を離れ、他の神々を拝むことで神の怒りを買ってしまいました。

 ここにヤロブアムという人が登場します。ある日、預言者アヒヤが道でヤロブアムに会って告げます。「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。……あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、…あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする。』」(列王記113138

 ソロモン王が死ぬと、その子レハブアムが王位を継ぎますが、その時、ヤロブアムは叛旗をひるがえし、もうひとりの王になります。ヤロブアムについていったのはイスラエル12部族の内の10部族、領土はカナンの地の北の方になります。これに対し、レハブアムのもとにいるのはユダ族とベニヤミン族だけ、領土はエルサレムとその周辺だけになってしまいました。

 もともとのイスラエルの国が南北二つに分かれたのは、神の深いお考えによるもので、ヤロブアムも神のみこころに従って、叛乱を起こしたのです。しかし、彼はその後。決定的な間違いを犯しました。それは、エルサレムに神殿がある限り、人々の心はエルサレムとレハブアム王に向かうだろう、そんなことをさせてはいけない、と考えたためです。そこで彼は金で子牛を作って、「イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」と宣言し、神殿も造ったのです。…ヤロブアムが君臨する国がイスラエル、レハブアムが君臨する国がユダと呼ばれるようになりました。このイスラエルは昔の統一国家イスラエルではないので、混乱しませんように。

 その後のイスラエルとユダの歩みを王を中心にまとめると、ユダの方では悪い王が多かったけれども、中には良い王がいました。イスラエルの方はほとんどが悪い王で、聖書には「なになに王は主の目に悪とされることを行った」とばかり書いてあります。しかし神はユダと同じくイスラエルにも、たびたび預言者を送ってみ言葉を語らせ、厳しく導かれました。

 

 今日の箇所、イザヤ書9章7節から20節は北のイスラエルに向かって語りかけられた言葉です。そこでは同じ言葉が3回、繰り返されています。11節、「しかしなお、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ」、同じ言葉が16節にも20節にもあります。神のイスラエルへの導きがまことに厳しい言葉で示されています。お怒りはやまず、御手は伸ばされたまま、もちろんそれは、神様が体を持っているということではなく象徴的表現です。神は人々の背信に怒っておそるべきことをなさいましたが、それで終了ではないということです。

 7節、「主は御言葉をヤコブに対して送り、それはイスラエルにふりかかった。」、イスラエルもユダも先祖は同じくアブラハム、イサク、ヤコブです。神がヤコブの子孫に送った言葉が、イスラエルにも与えられました。次の節、「民はだれもかれも、エフライム、サマリアの住民も、それを認めたが、なお誇り‥」、エフライムはイスラエルの別名、サマリヤはその首都なので、イスラエルの住民は神の言葉が与えられたことを知ったのに、それを聞かず、奢り高ぶっていたことになります。

「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き、桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう」。れんがは粘土にわらを混ぜて作り、建築材としてはたいへん安いのですが、切り石となると富裕層しか買うことが出来ません。また桑の木は身近にありますが、杉の木は高級木材です。まるで「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」に通じるような言い方で、要するに、主なる神がわれわれをこらしめるために何かされようとも、われわれにはそれに負けない力があるのだということです。そこで神はこの民に対してアラムの王レツィンを起こされた。神はアラムの軍隊を東から、ペリシテの軍隊を西から出動させてイスラエルを攻撃させた。「しかしなお、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ」、神はこんなことでは満足なさいません。

 イスラエルはまだ主なる神に立ち返ることをしません。「それゆえ主は、イスラエルから頭(かしら)も尾も、しゅろの枝も葦の茎も一日のうちに断たれた」。頭については14節で、長老や尊敬される者、尾については偽りを教える者、預言者だと説明があります。一方、しゅろはこの地でいちばん背が高く、葦は低いので、しゅろの枝と葦の茎は頭と尾に対応しています。…つまり長老や尊敬される者というのは人の上に立つ人々、そして偽りを教える者、預言者、こちらは神に任じられていない預言者、偽預言者ですね。この人たちが民を迷わす者となってしまった、だから神はこの人たちを取り除かれるのです。

 一方、この国で人の上に立つ人でもなく、偽りを教える者でも偽預言者でもない人でもない一般の人々はどうなのか、その人たちは「惑わされる者となった」のです。国全体が神に背き、奈落の底に向かっていく時、国の指導者や間違ったことを教える人たちに第一の責任があります、でも普通の人たちに責任がないとはいえません。知らなかったからだ、ではすみません。だまされること、惑わされることにも罪があるのです。

 「それゆえ、主は若者たちを喜ばれず、みなしごややもめすらも憐れまれない。」、神は身分が高いとはいえない、最も苦しい立場にある人も容赦されませんでした。どの人の口も不信心なことを語るからです。こうしてイスラエルの国は神の激しい怒りにさらされますが、「しかしなお、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ」、神はまだ満足なさいません。

 18節、「万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ、民は火の燃えくさのようになり」、イスラエルは北から迫ってくる超大国アッシリアの前におびえていますが、そんな時、内部で対立が起きます。「だれも皆、自分の同胞の肉を食らう。マナセはエフライムを、エフライムはマナセを」、マナセもエフライムも共にイスラエルにいる10部族を構成する部族ですから、これはイスラエルの中が分裂状態になって争いを始めたということです。その悲惨な状況の中で、今度は「そして彼らは共にユダを襲う」ということになります。紀元前734年から732年にかけて、イスラエルはアラムと組んで、自分の兄弟であるユダの国に攻め寄せます。シリア・エフライム戦争です。

 イスラエルで、マナセの部族とエフライムの部族の争いが起こったことも、今度はユダを攻めていったことも、すべてこの国の中でつもりつもった罪が招きよせた結果にほかなりません。「しかしなお、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ」、神はまだ満足なさいません。ここで窮地になったユダは、超大国アッシリアと組んで活路を切り開こうとし、それが結果的に紀元前722年のイスラエルの滅亡とそれから長く続くユダにとっての苦難を招くことになるのです。

 

 さて、今から2700年年以上前に中近東で起こったことを、私たちがいま生きている世界の中で想像することは困難です。だいいち時代が違います。その当時の国は国王が治め、また国王がその国民の信仰に関して大きな力を持っていますから、王が正しい信仰を持っている時は良いのですが、もしも堕落して、ほかの神々を拝むようになると、悪影響が全社会に波及してゆくことになります。本当の信仰がないところに正しい国造りもありません。

今の日本は政教分離ですから、政治家がどの宗教を信仰するかということが直接、国政全体に影響していくことは滅多にありません。しかし、いくら政教分離だといっても、宗教は国のありさまと関わりがないとは言えず、信仰者が政治や世の動きに無関心であって良いということはありません。

かつてマルクスは「宗教はアヘンである」と言って、それ以来、宗教と共産主義の間で激しい対立が生じましたが、これは簡単に決着がつくような問題ではありません。おそらくマルクスの前には深刻な社会問題があって、彼がそれと闘っていた時、宗教者が心の問題ばかり追求して、現実の社会問題に無関心であるのを見て、そう言ったのでしょう。つまり現実の社会から目をそらしているから宗教はいけないんだと。…そこで彼らはその道を進み、現実に社会主義国を打ち立て、その多くが宗教信仰を弾圧しました。するとどうなったか、神を退けた結果、今度は個人崇拝が起きたり、「人民の敵」と呼ばれた人への容赦ない迫害とか、強制収容所とか、多くの悲惨な出来事が起こりました。これは宗教を弾圧し、神を追放したことと関係してないはずがないと思われます。

 共産主義を持ちださなくても、いま日本でばりばり働いている人や市民運動をしている人の多くは宗教に関心を持ちません。信仰より、目の前にある問題を解決することが急務だと思っているからです。…逆に教会でもお寺でも、熱心な信仰者の中に、ただひたすら心の安らぎや聖化、仏教で言えば悟りを求めた結果、社会がどうなっても関係ないという人がいて、こちらの方も問題です。…つまり信仰の道を歩むことは社会がどうなろうが関係ないということではなく、またその逆に、社会でばりばり働いている人が信仰に励む人をひま人と見なすのも間違いで、信仰生活と社会生活の不幸な分裂は克服されなければなりません。

 超大国の脅威が迫る中、国王以下大多数の人が不信仰であったイスラエルに、神は預言者を送って悔い改めを迫りました。エリヤとかアモスとかがそうですし、イザヤの言葉も伝わったはずです。聖書からそれらの言葉を探せばすぐわかることですが、神はそこで、信仰者がひとりだけ心の安らぎを求めるようなことを教えてはいません。社会における正義の実践を訴えているのです。それこそ宮沢賢治が言ったように、世界がぜんたい幸福にならなければ個人の幸福はありえません。…今この時代も、輝く未来に憧れながら、現実にはそれとはほど遠い状況の中にあります。コロナや異常気象の問題を初めとして先が見えないような危機の時代の中に私たちはおりますが、これも神のお怒りの現れであるならば、神のお怒りをとく道がどこかにあるはずです。…今もこの世界を導いておられる神の前に目を見開いて、私たちの生きる道を見出してゆきましょう。

 

(祈り)

天の父なる神様。

昔のイスラエルの民は「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と言われても、それが起こるまで700年以上も待ちました。私たちの上にはイエス・キリストが与えられていると言っても、それは簡単につかむとることのできる恵みではないでしょう。

もしも簡単に手に入れることができる恵みなら、簡単に捨ててしまうこともありますが、私たちはイエス様から頂いた恵みを決してどぶに投げ捨てるようなことはいたしません。それがどれほどの犠牲を払って勝ち取られたものか、知っているからです。

 

大昔、神様に背きがちな神の民を、私たちが想像できないほどの忍耐をもって正しい道に導かれた神様が、私たちの上にもかけがえのない導き手であり続けますことを願います。主の御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。