御霊に満たされる

御霊に満たされる  詩編7148、エフェソ51520  2021.7.18

 

招詞:詩編119112、讃詠:545b、交読文:Ⅰヨハネ4712、讃美歌:30

聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:177、説教、祈り、讃美歌:500、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式、讃美歌Ⅱ-179、献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣

 

 広島長束教会ではひと月前、パウロが書いたエフェソの信徒への手紙から「光の子として歩みなさい」ということを学びました。今日はその続きです。

 

 光あるところに闇があります。光が闇より良く、光が闇にまさっていることは人間の常識から言っても当然で、まるでモグラのように光を避けて、光の差さない方、差さない方へと逃げてゆくような人がいたら、それは私たちが信頼できる人ではありません。

 とはいえ、聖書から、あなたがたは「光の子として歩みなさい」と呼びかけられると、とまどう人が必ず出て来ます。自分は闇に属する人間ではないと思ってはいても、光の子という言い方に気がひけてしまうからです。

 こういうことに関連して、聖書が示している人間理解はたいへんに深いものがあります。パウロは聖書の別の箇所でこう書いています。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ7:1924)。こんな悲痛な告白をしたパウロですが、次の瞬間、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ロマ725)と言うのです。なぜこのような急展開があるのか、それはイエス・キリストが彼を救って下さったからです。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがない」(ロマ81)からです。ここから、あなたがたも「光の子として歩みなさい」という教えまで、ごくわずかです。

 光の子として歩みなさいということを私たちに当てはめてみるとこうなります。私たちはもともと、みんな闇の世界の住人でありました。常にアンテナが神様が見えないところに向かっていて、神様がおいでになるとギャーッと言って逃げ出すような人間だったのです。そんな私たちが「光の子として歩みなさい」と言われるようになったのはどうしてか。…それは光の子となるよう、努力しなさいということではありません。すでに光の子となっているのだから、その名にふさわしく歩みなさいということなのです。…これを聞いて皆さんは、たった今、闇の世界の住人だと言われたばかりなのに、なぜ、と思うでしょう。それは闇の世界の住人であった者たちが、礼拝を通してイエス様と結ばれることで光の子になったからです。光の子、こんな名前を与えられるなんてと思ってしまうのですが、神様がこの名前で呼んで下さった以上、名前負けしないことが期待されているのです。

 

 それでは、光の子として歩むというのは、もう少し具体的に言うとどういうことになるのでしょうか。パウロはすでに10節で、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」と書いていますが、それが今、15節以下でさらに詳しく説明されています。

 15節から17節まで、こう書いてあります。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」

 人が愚かな者であるか、賢い者であるかの違いはどこにありますか。世の中には悪知恵にたけた人がいます。しかし、いくら頭の働きが良くても、その人は主イエスの前で賢い者とは言えません。逆に勉強は出来なかったけれども、信仰熱心で親切な人は、主イエスの前では愚かな者ではなく、賢い者なのです。人間ひとりひとり、能力の種類が違っていますし、それが大きい小さいの違いもあるのですが、与えられたものを神と隣人のために正しく用いる人こそ賢い者なのです。

 賢い者、この人は細かく気を配ることに努めます。他の人のことを思いやる、自分のことばかり考えず、他の人の身になって考える、自分がすることがもしも大きな災いを引き起こす危険があるならそれを避けようとします。もしも気配りを軽んじて、自分が、自分が、と自分の利益だけを追い求めているなら、それは主イエスのみこころにかなわないばかりか、そのことがもたらす災いがまわりまわって自分のところに帰ってくるでしょう。

 細かく気を配ることと関係あるのが「時をよく用いなさい」ということです。一年は365日、一日は24時間あり、時間は誰にも平等に与えられています、もしも野球選手がバッターとしてマウンドに立った時、ピッチャーが絶好球を投げてきたのにそれを見逃してしまったとしたら、こんなもったいないことはありませんが、これに類することは案外多いのです。チャンスが巡ってきたらこれを見逃してはなりません。…もっとも、パウロは「時をよく用いなさい」のあとに「今は悪い時代なのです」という言葉をつけ加えています。これがどういう意味なのか、いろいろな考え方があるようですが、やはり今が悪い時代だからこそ貴重なチャンスの機会を見逃してはいけないということでしょう。今が良い時代で、黙っていてもすべてがうまい具合に進んで行くならともかく、私たちを神様から引き離そうとする誘惑がいつ、どこで来るのかわからないわけですから、神様が与えて下さった時というものを有効に用いるべきです。いま、この礼拝の時もそうなのです。

 

 次が13節、14節の言葉です。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」という言葉があって、これに対応するかたちで「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」とまとめられています。

 酒については、今この礼拝堂にはお酒を飲むのはまだ早いという人がいて、なんで大人はあんなものが好きなのかと思っているかもしれませんね。大人の真似をして、無理にお酒を飲む必要はありませんが、大人の中には、お酒なしには生きていけない人がたくさんいることは覚えておいて下さい。

 酒を飲むといっとき楽しくなりますが、飲みすぎが習慣化すると大変なことになります。私が小学生の頃、日曜学校の先生で子どもに慕われていた青年男性が、その後42歳という若さで死んでしまいました、奥さんと3人の子どもを残して。死因は酒の飲みすぎから来た病気でした。仕事がうまく行かなかったのでしょう。酒をあびるほど飲むので、家族も友人も教会の牧師もずっと酒をやめなさいと忠告していたのですが、その訴えは届きませんでした。葬儀のあった日、あの人は人生に負けて死んだのだという憤りの声が聞こえてきました。

 酒に酔いしれて身を持ち崩す人は昔からたくさんいます。酒を飲まなければどうしようもないというところに立たされた結果でしょうが、その被害は膨大なもので、そうした現実の中から禁酒運動がうまれ、キリスト教の諸教派の中には「酒を飲んではいけない」と説くところが多いです。

Boys be ambitious「少年よ、大志を抱け」の言葉で知られるクラーク先生も、札幌農学校で学生たちが酒を飲んでどんちゃん騒ぎをしているのを見て心を痛め、「私は今夜からきっぱりと酒をやめます。諸君もどうかやめると誓ってほしい」と言って、はるばるアメリカから持ってきたワインを捨ててしまったということです。明治時代以降、日本で、プロテスタントのキリスト者を中心に禁酒が呼びかけられてきたことは大きな意味を持っています。

 聖書にはエフェソ書のこの箇所以外にも酒を戒めているところは多いです。たとえば第一コリント書6章10節、「泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません」のように。重大な悪徳と並べて酒におぼれることが入っているのです。

 ならば、キリスト者は絶対に酒を飲んではいけないのかということになりますが、その答えも聖書から探してみましょう。一つ確かなことは、イエス・キリストは酒を飲まれたということです。イエス様が行った最初の奇跡は、結婚式の場で水をぶどう酒に変えることでした。最後の晩餐にもぶどう酒が用意されました。

 よく教会の外の人がキリスト教に入ったら窮屈で、酒を飲めなくなると思って躊躇することがあります。しかしそれは聖書を知らないためで、イエス様は厳格な禁欲主義を勧めてはおられません。そこがファリサイ派と違うところです。マタイ福音書1119節を見ると、イエス様が反対派から「大食漢で大酒飲みだ」と非難されています。これは明らかに言いすぎですが、イエス様がお酒をたしなんでおられたことは間違いありません。ですから少量のお酒は良いけれども、酔いしれるほどであってはいけないというのが妥当なところで、酒を飲めない人に酒を強要するのはもちろん、酒を一律に禁止するのも正しくありません。

 聖書はむしろ別の解決法を示しています。その鍵となるのが、あなたを満たしているのは何なのかという問いです。あなたを満たしているのは何なのか、酒なのか、お金もうけなのか、それともゲームなのか。…もしもあなたを満たしているのが素晴らしいものなら、酒のとりこになって、身を持ち崩すようなことはないのです。

 18節は「むしろ、霊に満たされ」なさいと勧めています。ここで霊というのは、悪霊でも幽霊でもなく聖霊です。御霊、神の霊、キリストの霊とも言います。お金でも酒でも、その他身を滅ぼす何ものでもなく、聖霊に満たされることが主イエスが皆さんに求めておられることなのです。もっとも聖霊に満たされると言っても見当がつかないかもしれません。その具体的な現れが「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌」うことです。…詩編と賛歌と霊的な歌というのは違いがはっきりしませんが、要するに神を賛美する歌、讃美歌です。讃美歌によって語り合い、主イエスに向かって心から賛美の歌を歌うということですから、ここで礼拝が想定されていることは確かです。ここには、酒を飲んで騒ぐことがつまらなく思えてしまうような、もっと素晴らしいことがあるのです。…ただ、このことを礼拝だけに限定する必要はありません。…私たちは礼拝以外のふだんの生活の中で、讃美歌を歌い、イエス様をたたえることがどれほどあるでしょう。これには讃美歌をもっと親しみやすくするという課題もあるのですが、私たちが流行歌を口ずさむように讃美歌を口ずさむにしたいものです。

 さて「霊に満たされ」ということを、他の教会の中には私たちから見てかなり極端に考える人がいます。「酒に酔いしれるのは拒否する、でも聖霊に酔いしれることを求めてゆきたい」という人たちがいるのです。聖霊を受け取って、気持ちを高揚させ、ついには熱狂的な状態になることこそ信仰だと考えているのですが、皆さんはどう思われますか。…パウロは、人生のいわば憂さ晴らしのために酒に逃げこみ、酒に酔いしれることを戒めたのです。聖霊に酔いしれることもやはり逃げだと考えられます。信仰は基本的に酔っぱらうこととは違います。いつイエス様が現れても良いように、寝ぼけることなく、常に目を覚ましているべきです。

 信仰によって、酔いしれるほどの酒を必要としなくなったなら、私たちの中にすでに聖霊が入り込んでいると思います。聖霊が指し示すのはイエス・キリストであり、この方は私たちにとってどんな時にも希望であり続けます。

 

 最後に、皆さんの中に、「主に向かって心からほめ歌いなさい」とか「父である神に感謝しなさい」と書いてあるのを見て、違和感を覚えた方がおられたかもしれません。人間の自然な思いとして、感謝しなさいと命令されて感謝できるものでしょうか。しかし、そう命じられている以上、そうすべきです。実際、信仰の世界では神様から命じられたことをすることが喜びになるということが起こります。

 もしも「感謝すべきことがあれば感謝するけど、そういうことが何もないので感謝できません」という人がいれば、こう答えましょう。詩編に入っている150の詩はどれも私たちのお祈りの模範です。時々は開いて、声に出して読んでみて下さい。そこからわかるのは、ここには神様への感謝の言葉があふれていますが、それと共に苦しみの叫びもたくさん入っています。苦しみの中から神様への賛美とか感謝の言葉が紡ぎ出されていることが多いです。…おそらく、何事もうまく行って喜んでいる人の神様への感謝の声より、困難をかかえながら神様に感謝を捧げる人の声を、神様は喜ばれ、祝福されるはずです。そうして、その困難の中で力強く生きるための支えを下さるに違いありません。

死によって死に打ち勝たれたイエス様によって、私たちはすでに救いの御手の中に置かれています。このイエス様を礼拝しつつ、光の子として、聖書の言葉に養われ、聖霊によって満たされた歩みを続けてまいりましょう。

 

(祈り)

 天の父なる神様。いま御前に集う私たちの中に、社会的に高い立場にある者は少なく、財産のある者も少なく、健康に恵まれない者もいます。みなそれぞれに罪との闘いの中におりますが、誰もが光の子として神様の導きのもとにあることを感謝いたします。

 私たちは、私たちを神様のもとから引き離そうとするあらゆる力に囲まれています。酒がそのような作用を果たすことがありますが、自分の楽しみを無理に抑えつけてやめさせるということではなく、これとは比較にならない、聖霊が私たちを満たすという恵みによって、眼前に新しい道が開かれて行くことを心から願います。

 私たちが信仰を喜びとし、人生の楽しみとすることで、どんな嵐が襲って来ようが倒れないしなやかな心と体をつくって下さい。いま礼拝している全国の教会を強め、感染症をはじめとして、次から次に起こる困難とたたかう力をこの国の上に養って下さいますように。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。