本当のやさしさとは?

  本当のやさしさとは?  創世記261525、マタイ55  2021.7.11

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119111、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:23、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:399、説教、祈り、讃美歌:520、信仰告白:使徒信条、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

今、私たちは、山上の説教冒頭の、さいわいについての教えを一節ずつ学んでいます。これは丁寧すぎるやり方のように思われるかもしれませんが、しかし、どの一節一節も非常に深い内容をもっていて、本来なら二、三回を使って取り上げるべきところを一回ずつですませているのが実情です。私たちは、ほとんどいつも、聖書の持っている富のほんの一部分だけを知るのにすぎません。

 またマタイ福音書を全部読んで解き明かしてゆこうとすることにも理由があります。説教者が聖書の箇所をあっちからもこっちからも自由に選んでいった場合、どんなに注意していたとしても、この部分は良いけど、ここは都合が悪いから取り上げないでおこう、ということになりかねません。聖書の言葉に耳の痛いものがあったとしても、神の言葉として受けとるほかないのです。

 今日取り上げるマタイ福音書5章5節は、教会の中でも外でも、誤解されることの多い言葉かもしれません。柔和ということの本当の意味がはっきりしていないからです。

「柔和な人々は、幸いである」。ここで国語辞典を開いて柔和という言葉を引いてみたら、「やさしく、おだやかなさま。とげとげしい所のない、ものやわらかな態度・様子」と書いてありました。それでは、そのような意味で柔和な人たちというのは今日どのように評価されるでしょうか。もちろん人により、場所により、いろいろあるでしょうが、一般的には、必ずしも高い評価を得てはいないように思われます。‥人間強いところがないと軽く見られてしまうからです。…ただし、柔和のちょうど正反対である、粗野な、怒りっぽい人が高い評価を得ているとも言えません。

昔、何かのテレビコマーシャルで、「たくましくなければ生きてゆけない。やさしくなければ生きる資格がない」というのがありました。うまいことを言うなあと思います。人間、たくましさとやさしさと両方が大切なのです。やさしいばかりでたくましさに欠け、人からひどいことを言われても何も言い返せない人は、社会の中でなかなか重んじられないと思います。

以前、高樹のぶ子という人の小説を読んでいたら、「弱い人間のやさしさほどいやらしいものはない」と書いてあるのを見て、私はギクリとなってしまいました。小説家というのはこんな言い方が好きなのかもしれませんが。これは人を傷つける言葉ですが、当たっている所もあります。…キリスト教を含む、いろいろな宗教の信者の中でも、それに当てはまる人がときどきいるのです。

たとえばある宗教団体の集まりに初めての人が来たとします。その時に信者がにやにや、病的な笑いをもって迎えると、そんな時、迎えられた方は鳥肌が立ちそうで、もう二度と行くもんかとなってしまうでしょう。幸い、私は日本キリスト教会でこういうことを経験したことはありません。日本キリスト教会では、新来会者が、教会の敷居が高いとか、逆にあまり関わってくれるなと言うことがあって、改善すべきところがあるものの、信者の側からは自然な笑顔と自然な対応が多く、鳥肌が立つような迎え方はないので安心しています。

教会には多くの、悩みをかかえた人が来ると言っても、弱々しい人が互いに傷をなめあうようなところであっては良くないのです。もちろん互いに悩みを打ち明け合うということがあって良いのですが、弱い人が自分の弱さを正当化するために教会があるのではなく、弱い人がキリストによって強くされるために教会があるのです。この点をしっかりしておかないと、外部から、キリスト教は弱いというイメージを持たれることになってしまいます。

私はきのう、説教の準備中、こうしたことを踏まえて、乱暴な人に柔和になりなさいと言うことは必要だけれども、穏やかな人にこれ以上柔和になりなさいと言う必要はないじゃないかと思いました。…子育ての時にも言うじゃありませんか。強い子はやさしく育てなさい、やさしい子は強く育てなさいと。しかし、聖書は非常な深さと広がりをもった書物です。主イエスが勧める柔和という言葉自体にも深いふかい意味があって、もともとやさしい人もこれをしっかり学んでいかなければなりません。

 

柔和という言葉の意味を正しくとらえるためには、聖書のもともとの言葉の意味を探ってゆかなければなりませんが、これがなかなか大変です。

聖書で柔和と翻訳された言葉は、軟弱ということではありません。大人しすぎることを言うのでもありません。もちろん怒りっぽいことでもありません。怒りっぽい人は自分の衝動をなかなか抑えられない人なのです。

柔和な人は自分の本能とか衝動を抑制出来る人でなくてはなりません。また謙虚なところがなくてはなりません。だから柔和な人が幸いであるというのは、 自分の無知と弱さと欠乏を知っている謙虚な人は幸いである、ということでもあるのです。

このことを神に対する態度と人に対する態度とに分けてみましょう。

神に対することに関して言えば、これは神に対し、完全に信頼し、完全に服従し、完全に自分を委ねることの出来る人のことです。主イエスの母マリアは受胎告知がなされた時、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。主イエスは、十字架におかかりになる前に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。このような、自分にとって不利で、もうこんなこと耐えられないとしか言えない状況にあっても、あくまでも神に従うということがなければ柔和とは言えません。

人に対する態度に関して言えば、それは自分の感情を支配出来ること、すなわち怒るべきでない時には怒らないことです。しかし怒るべき時には怒るべきでしょう。イスラエル民族の偉大な指導者モーセについて、民数記12章3節を口語訳聖書で読むと「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と書いてあります。新共同訳では謙遜という言葉になっていましたが。私たちは聖書を読んで、モーセほど力強い指導者はいないと思っています。モーセが偶像礼拝に対して、激しく怒り、たたかったこと有名です。しかし、彼はいつも怒ってばかりいたのではありません。彼は柔和であったと記されています。その姿を見てみたいとは思いませんか。

主イエスご自身はどうであったでしょうか。主はおっしゃられました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ112829)。主イエスはまことにやさしいお方であります。主は重荷を負った魂を愛し、たとえその人が誰からも見はなされてしまったときでも、本当の慰めと励ましを下さる方です。だから、私たちが人生の旅の中でどんな逆境にあっても、主イエスのもとに来るなら、その逆境から立ち上がることが出来るのです。

主イエスは十字架にかけられるという、ご自分が不当きわまる扱いを受けている時に、「父よ、彼らをお赦しください。ご自分が何をしているのか知らないのです」と、ご自分をそのような目にあわせた人々の罪のゆるしを祈られました。この態度を、罪に対する屈服ととってはなりません。主イエスは一方で、怒るべきところではお怒りになっています。…例えばファリサイ派の人たちが、主イエスを訴える口実を得んものと、安息日に手のきかなくなった人を主イエスのもとに連れてきて、主がその人を治すかどうか見ていたとき、「主は怒って人々を見回した」と書いてあります(マルコ3:5)。このようなことがいくつかあります。

神のみこころに反することがある時に、それに手を貸すのはもちろんだめですが、そういう現実を見て見ぬふりをしたまま柔和に生きるというのは考えられません。神の真実を信じて神を信頼し、神に従ってゆく。だから、神のみこころにそぐわない現実に対し、闘うべき時は闘い、立ち上がるべき時は立ち上がる、こうしたことがないと主イエスが言われる柔和ということは生まれて来ないでしょう。

 

この、柔和な人々に対して、約束がなされています。「地を受け継ぐ」ということです。地とはもちろん私たちが生きている世界、道路が縦横無尽に走っている場所、ビルが並んでいる都市、森林とか、人間になくてはならない糧を供給する田畑などもみなそうです。

5章3節では心の貧しい人々に対し、天の国はその人たちのものであると言われていますが、今度は柔和な人は地を受け継ぐのだというのです。主イエスはいったい何を言っておられるんだろう、と思っている方もおられるでしょう。天の国はあなたがたのものであると言われると、そこが捕らえどころがないためにああそうかと納得してしまう、しかし地というと、私たちが現に生活している世界だけにかえって信じられなくなりそうです。それだけ神の言葉に信頼していないからです。

内村鑑三先生はここで、柔和なる者が世に勝つ極意がある、という意味のことを書いておられました。「柔和なる者は自分が争わずして、人に譲った地を神から賜る」。どうしてこんなことが言えるのかと言うと、いわゆる弱肉強食なるものはキリストの法則ではない、剣をもって立つ国はすべて剣にて滅びる、アッシリアにしろローマ帝国にしろかつての大帝国は今はどこにあるか、神は平和を愛する方であるからその造りたまいしうるわしき地を戦いを好む国に与えたまわない、平和はついに全地を覆う、その地は柔和な人々に与えられる、と言うのです。

「アラビアのロレンス」という映画をご覧になった方がおられると思いますが、その中で、ある人が他の人の井戸の水を許可なく飲んだために射殺されてしまうシーンがあります。水の少ない地域にはそれだけ厳しい掟があるのですが、創世記にあるイサクの話はこのような風土を想像しながら読み取っていかなければなりません。井戸をめぐってイサクと隣の羊飼いの間で争いが起きると、イサクはこの井戸を譲って、別の場所で井戸を掘リ当てました。そこでも争いがおこると、また別の場所に行って井戸を掘り当てました。そこでも争いがおこりますが、その次の井戸ではもう争いは生じませんでした。

力に頼り、武器を取って戦うことは地を受け継ぐ方法ではありません。一時的に勝利することは出来ても、最後には獲得した地を明け渡さなければなりません。そこには神が喜ばれる真実がないからです。かえって柔和であることこそ地を受け継ぐ道であるのです。

ですから柔和というのは、私たちのもって生まれた性格に帰すべき問題ではありません。信仰か不信仰かの問題なのです。柔和な人に地が与えられる、このことを信じることが出来るかどうかは、結局、イエス・キリストにおいて示された神の愛に一切の望みをかけるかどうかということにほかなりません。

この世ではまだまだ力ずくの生き方がまかり通っています。そういう人たちに張りあって生きることが出来ず、つらい思いをしている人が教会の中にも外にもたくさんいます。しかし、キリストは柔和であることによって世に勝つ道を示して下さいました。このことを信じることが出来ないで、最初から腰が引けている人は信仰の戦いを勝ち抜くことは出来ません。

柔和な人々が神によって勝つことを信じるのです。柔和なるお方、イエス・キリストは私たちが生きる地を、世界を、本当に神のものとするために、いつの日か再び来られます。その時の主の最後の勝利を信じるからこそ、私たちは柔和であることを追い求めることが出来るのです。

 

(祈り)

 

恵み深い天の父なる神様。私たちが、イエス様に祝福された柔和な人々となることが出来るように、どうか神様の知恵と力と思いを授けて下さい。…ある人はつまらないことでもすぐに腹を立て、他人をねたみ、身近な人にもつらく当たってしまいます。ある人はその反対に、やさしいけれども気が弱く、他人に軽く見られたり、騙されたりしがちです。聖書に書いてあるように、私たちすべてが善によって悪に勝つことが出来ますように。神の正しさから来る柔和ということに生きたいと思います。あなたの力を信じきれていない、不信仰な者をどうか忍耐をもってお導きください。とうとき主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。