悲しむ人々の慰め

    悲しむ人々の慰め     創世記211420、マタイ5:4    2000.7.4

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119110、讃詠:546、交読文:詩編43:3~5、讃美歌:Ⅱ―161、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:85、説教、祈り、讃美歌:500、信仰告白:使徒信条、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 イエス・キリストによる山上の説教での二番目の言葉は何ともわかりにくいものです。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」。いったい、どうしてこんなことが言えるのでしょうか。

 もしも私でも皆さんでも、何か悲しい出来事のあった家を訪ねてゆくとします。そこで、悲しみの涙に暮れている人に向かって「おめでとうございます、悲しむ人々は幸いです」、なんてことを言ったとします、どんなことが起こるでしょうか。もちろん、そんな非常識なことは出来ません。当たり前のことです。

 「悲しむ人々は、幸いである」、こんな言葉を口に出せる人は、いません。おそらく、これは人間には不可能な言葉です。誰にも語れない言葉です。しかし、ただおひとかた、イエス・キリストだけが語ることが出来ました。イエス様が神と等しいお方だから語ることが出来た言葉なのです。これは、ただ神の言葉として取りつぐ以外にない、そう言ってさしつかえないだろうと思います。

 

そこで、まず、この言葉を受け取る人間の側から考えてみましょう。初めて、これを聞いた人々は唖然となってしまったかもしれません。私たちも同じです。誰も、悲しんでいるよりは笑っている方が良いに決まっているからです。…自分の人生が成功したのか、失敗だったのか、その基準をどこに置くかといいますと、一人ひとり違ってはいますが、多くの人が願っているのが、生き甲斐のある仕事につく、そこそこ偉くなる、お金持ちになる、理想の相手と結婚する、明るい家庭をつくる、といったことではないでしょうか。で、そういったことが願いどおりに進んで行けばめでたしめでたしですが、簡単なことではないので、悩み苦しみが生じるのは確かです。

幸せいっぱいな人はいいとして、常に後ろ向き、自分ほど不幸な人間はいない、いつも悪いことばかり起こっていると思っている人がいたら、すでにご存じかもしれませんが、「人間万事塞翁が馬」という、聞いて損のないお話をしましょう。昔の中国で、塞というとりでの近くに翁、老人が住んでいました。ある時、この老人が飼っていた馬が逃げてしまったので、みんな同情しましたが、老人は「これは幸運が訪れる印だよ」と言います。はたしてその言葉通り、逃げた馬は立派な馬を連れて帰ってきました。そこでみんなが祝福すると、老人は「これは不運の兆しだ」と言うのです。実際、しばらくすると彼の息子がその馬から落ちて、足の骨を折ってしまったのです。みんながまた同情すると、老人は「これは幸運の前触れだ」と。息子はその怪我のおかげで、戦争に行かずにすんだのでした。

禍福は糾える縄の如しとも言います。悪いことが続いていても良いことが起こることがあるし、良いことが続いていても悪いことが起こることがあるものです。

 

それでは、イエス様の言葉の中身を深めてみましょう。人がある程度の年齢になるとわかることでしょうが、悲しみにはそれ自体に価値があり、他の何ものをもってしても代えることの出来ない大きな役割があるのです。悲しみを体験するまで、人生には何か欠けたものがあります。生まれてからずっと悲しい出来事に遭遇することがなく、万事幸運に恵まれて成長し、大人になり、中年になり、熟年になった、という人がもしもいるとするなら、それは人間性の上で相当に問題のある人かもしれません。

人生には悲しみだけが教えることの出来るものがあります。悲しみの時、人は、自分にとって何が大切で何がそうでないことかの区別を見出だします。たとえば、つらい状態にあるとき、人は本当の友とそうでない人を見分けることが出来るようになるのです。

誰もがうらやむ幸せが落とし穴になることはよくあることです。仲の良い兄弟が、宝くじに当たったとたん、分け前をめぐって争い、裁判沙汰になってしまったとします。たとえ裁判に勝って大金を手に入れても、兄弟を失ってしまったらなんになりましょう。

 反対に、その時には失望落胆して「自分ほど不幸な人間はない」と思うほどであっても、後から振り返ってみて、それは自分にとって最善のことだったと気がつくことは少なくありません。テストで悪い点を取ったり、職場で失敗して上司に怒られたりすると、それはたいへん辛い体験ですが、これをきっかけに自分の能力を冷静に見つめることが出来たり、あるいは発奮して努力した結果、それから先の人生がうまくゆくようになることもあるのです。

 こうしてみると、私たちが歩む人生の道において、幸せも不幸もたくさんあるわけですから、幸せだけいらっしゃいらっしゃいと言っておいて、不幸に対して「あっちいけ」と言うわけにはいきません。「福は内、鬼は外」というような単純なことではなく、それぞれの体験をどう受けとめ、そのあとのことにどう生かすかが大切なことになるのです。

 

もっとも、この世の中全体を見て、私たちが普通に考える幸せの量と不幸せの量のどちらが多いかと計ってみたら、不幸せの方が多いことは確かでしょう。ひとりひとり、人によって受け取り方が違うとはいえ、終わりのない苦しみに打ちひしがれ、悲しみの中にいる人はたくさんいます。…その悲しみの中で、私はこんなに苦労しているのに、あの人は努力しなくてもあれほど恵まれていて、というようなものは、心持ちひとつである程度しずめることが出来るでしょう。いちいち自分と他の人を比べることはないのです。…しかし、そういう心がけだけではどうにも解決できない深い悲しみがあります。…人間関係がどれほど難しいか、心や体の病気がどれほど苦しいことか、言うまでもありません。仕事がうまくゆかなくなると生活が出来なくなります。現に今のコロナ危機の中で、感染して重篤な状態になったり、過酷な労働を強いられたり、収入が減ってどうやって食べていったらいいのかという人がいるわけです。

外に現れた形はいろいろでも、苦しみに遭遇し深い悲しみにある人を、人は見ようとしないことが多いです。見捨ててしまうことがあります。残念ですがそれが実情です。しかし、これに対し、主イエスが「悲しんでいる人々は幸いである」と言われた、このことが示しているのは、神は悲しんでいる人々に目を留め、愛しておられるということにほかなりません。主イエスは、何より、悲しむ人々を祝福されたのです。その人たちは慰められる、と約束されたのです。…だから誰もが主の言葉を信じ、気を取り直して一歩前に踏み出すことが出来ますように。もしも絶望したままだと、さらに泥沼にはまってゆくしかありません。

 

 人は悲しみの中にある時、しばしば神を呼び求めます。人が宗教に関心を持ち、信仰に近づくきっかけとなる動機にいくつかのことがありますが、その中で大きな比重を占めるのが苦しみからのいやしです。病気や挫折、愛する者を失った経験など、辛くて自分ではどうしようもない時に、人は人間を超えた存在を求めることが多いのです。たとえば特に混迷する現代社会の中にあって、仕事上のトラブルなどで精神状態が不安定になるケースは後をたちません。自分は社会の中では取りかえのきく歯車ぐらいにしか評価されていないかもしれない、だけどこちらの世界ではちがうだろうと、そこで神を仰ぎ、自分の居場所を求めてゆこうとすることがあるのです。悲しむ人々など世間の常識からは何の価値もない、わずらわしいだけの存在のように見えてしまうことが多いのですが、そこに救いの手がさしのべられているのです。

 悲しみの中にある人が教会に集まる。牧師も教会員もその人のために祈り、何かしてあげたいと手を結ぶ、その中で、その人を中心にみんな神様からの慰めにあずかってゆく、これは教会の大切な役割です。…しかしながら、苦しみにある人にとって神様が単なる現実逃避の場所になってしまうなら、それは必ずしも望ましいことではありません。そうなると、マルクスが「宗教はアヘンである」と言った通りのことになってしまいそうです。こうした点を聖書はどう言っているでしょうか。マタイ福音書1128節、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、主イエスの言葉です。疲れた、重荷を負う人々に、神は休むところを与えようとされているのは本当です。神がおられるところに本当の休息があります。ここで十分に休養をとるのが良いでしょう……。しかし、人はいつまでも休んでいられるものではありません。主イエスは続けて「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言っておられます。十分に休息をとったら、再び立ちあがって、それぞれが自分の課題に立ち向かってゆくのです。恐れずに、勇気をもって、それが神のみこころにちがいありません。

 

 神が悲しみの中にあった人にどう対峙されたか、聖書からいくつかの箇所をあげてみましょう。

創世記に出て来るハガルはこの社会の不平等の犠牲者です。主人アブラハムの側女として子作りの道具とされ、子どもが出来ると今度は女主人のサラにいじめられ、そのあげく子どもと一緒に追放された彼女の目に、神の姿は見えなかったに違いありません。しかし、神の御使いはハガルに呼びかけました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた」。彼女が目を開けると井戸がありました。泣いていた時には見えなかった井戸です。絶望していた時には全く見えなかった希望です。しかし心を神に向けたときに見えてくるものがあります。だから人間はどん底から立ち直ることが出来るのです。誰も自分のことを褒めてくれなくても、自分は勝ったんだとわかります。この時、アブラハムとサラは、自分たちが追放した女奴隷とその子がまさか喜びの笑い声を立てているとは想像も出来なかったでありましょう。

イエス・キリストにおいても、神のなさりようが現れている話がいくつもあります。…主イエスがべタニア村に着いた時、ラザロは死んで四日もたっていました。イエス様はラザロの姉妹が泣き、一緒にいる人たちも泣いている時、涙を流されました。イエス様ご自身が涙を流して、人々の涙を受けとめられたのです。…悲しむがよい。その涙を神のみまえに注ぐがよい。そのように涙を流しうる者は幸いだ。そのような涙をもって訴えることの出来る神がいることがすでに幸いとは言えぬのか。主が語られるのはそのようなことでなかったでしょうか。…そのあと起きたことは、聖書に書いてある通りです。イエス様はラザロを墓から呼び戻し、復活させて下さいました。

 

この世界をおおう悲しみにはさまざまなものがあり、戦争の悲しみのように深刻で悲惨なものがある一方、他の人から見れば小さなことで悲しむこともありますが、どれも当人にとっては重大なことです。このさまざまな悲しみのいずれもが、私たち人間の弱さ、みじめさ、根源的には罪から生まれます。悲しみがあるのは、つまるところそれを生む罪があるからです。人間が神から離れるところに罪が発生し、主イエスは罪とたたかうことにその尊い生涯を捧げられました。人間の罪の身がわりとなって十字架にかけられたイエス様は人々のどんな苦悩をも知っておられます。十字架への道を歩まれたがゆえに、この方が通り抜けることのなかった苦しみはもはやありません。

そして主イエスは、ただ苦しみの中へ入り込んでゆかれただけではありません。苦しみに打ち勝ち、慰めを得た最初の人におなりになったのです。あらゆる人間の苦しみをご自分の中に受けとめて下さっただけでなく、それを喜びのあふれる泉へと変えて下さいました。主イエスは死からよみがえられたからです。…ここで確かになったことがあります。主イエスはあらゆる悲しみと苦しみを通られた方というだけではなく、罪と死を克服されたことで、真実の慰めとこの上ない喜びをご自身に体験された方でもあるのです。だからイエス様が「悲しむ人々は、幸いである」と言われるとき、それは気休めでもなく、空手形でもありません。悲しみはもはや悲しみではありません。「その人たちは慰められる」のです。

 悲しみのために心を閉ざしてしまっている人に対し、主はよびかけていることでしょう。「いつまで嘆いているのか。私を見なさい、自分の罪を悔い改めなさい。そして強くなりなさい」。神を信じる者は、主イエスを仰いで再び立ち上がることが出来ます。「そうだったのか、よし、じゃあ、もう一度」。…パウロも言っています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」(Ⅱコリ7:10)。死に勝利された主によって、悲しみは喜びへと変えられます。このことを覚え、神を賛美いたします。

 

(祈り)

 聖なる神様、私たちはあなたに感謝いたします。あなたのみことばが真実であることを。あなたの約束が必ず実現することを教えられたからです。

みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。あなたの時が来ます。そして、真実の慰めもその時、完全に世界をおおうのです。だから、今どんなに悲しんでいる人も、希望に向かって歩んでいくことが出来ます。

神様、悲しむ人々、その中に私たち自身もいます、どうかかえりみて下さい。休息を与え、再び立ち上がらせて下さい。また神様の慰めにあった私たちが、今度はみことばをたずさえて、さらに苦しい状況の中にある人々のところに行くことが出来ますように、知恵と力と思いを与えて下さい。

 

この祈りをとうとき主イエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン。