光の子として歩みなさい。

光の子として歩みなさい  詩編479、エフェソ5614  2021..20

 

招詞:詩編119108、讃詠:546、交読文:Ⅰヨハネ4712、讃美歌:10

聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:276、説教、祈り、讃美歌:326、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣

 

(説教)

今日はエフェソの信徒への手紙の5章6節から14節までの言葉に耳を傾けたいと思います。エフェソの信徒への手紙は、1章から3章までが教理が中心で、信仰の根本を理論的に語ってきました。それが4章以降になると、いわばその応用編で、人間の生き方を具体的に説くものとなっています。たとえば、前に学んだ4章29節には「悪い言葉を一切口にしてはなりません」、5章3節には「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。それよりも、感謝を表しなさい」という言葉がありました。これらを受けて、本日の箇所である5章6節は「むなしい言葉に惑わされてはなりません」ということから始まっているのです。

ほかの人の悪い噂、下品な冗談といったむなしい言葉が教会の外の社会の中にはもちろん、教会の中にも飛び交っていることがあります。人間の心にそういうものを喜ぶ思いがあるから、言葉に出てきて、人を傷つけるのです。私たちがその当事者となって、人にだまされたり、逆に人をだましたりすることもあります。そのようなことはイエス・キリストを信じる私たちにふさわしいことではありません。

そこでパウロは、信仰者の原点に目を向けさせるのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」パウロはここで暗闇と光を比べることで、私たちの口から出る言葉にとどまらず、行い、さらに人間の生き方へと話を進めていますが、これが書かれた二千年前と今では、時代や状況がずいぶん違っているので、そこからお話しいたします。

 

今の時代、私たちは良くも悪くも暗闇を体験することが少なくなってしまいました。夜、家の外を歩いても煌々と灯りがついていて、光があふれていることは安全面ではたいへん良いことなのですが、そのかわり星が見えなくなってしまったり、あかりを囲んで語り合うといったことがなくなり、こういうことは現代人の精神生活に大きな影響を与えているに違いありません。

古代人が持っていた暗闇への恐れは、現代人にはなかなか想像できないほど大きなものだったでしょう。昔の人は暗闇に超自然的なものを感じて恐れました。魔女を恐れたり、何かのたたりを怖がったりということがあったのですが、そういうことは科学知識の普及によって少なくなりました。非合理的なものを恐れなくなったことについてはもちろん良いことが多いのですが、しかし、それで心の暗闇まで消えてしまうことはありません。

今の時代、たとえ無信仰で、ふだん神様のことなんか何も考えていないという人が大勢いますが、でも、暗闇が自分の前に姿をのぞかせていることに全然気づかないことはないでしょう。どんな人の人生にも、そういう瞬間が時にはあるはずです。…私の例をあげると、ある時、自分がよく知っている人が自殺してしまい、しかもそのことをまわりの人が「ああそうですか」という感じて、すぐに片づけてしまったことに恐れを感じました。また、報道で、犯罪事件の残酷な真相を知った時に恐れを感じることがありました。両方とも、暗闇に直面した思いになったのですがそればかりでありません。……自分の人生に限りがあるのだということ、また自分の心の中をのぞいてみた時、外の人には見せられないきたない思いばかりで自分がまさに暗闇の中にいるということ、自分が暗闇そのものだと気づくことがありました。皆さんはいかがでしょうか。

もっともこんなことを言うと、お前はどうしようもない人間でとりわけ矯正が必要だからそんなことを言うのだ、という反論がかえってくるかもしれません。でも、自分はこれまで良心に恥じない生活を送ってきたと言える人であっても、まるで服の一部が破れて穴があき、それが広がっていくように、暗闇にのみこまれることはあるのです。

私が経験した思いなどまだまだ底が浅いものです。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という悲痛な告白をしていますし(ロマ7:24)、宗教改革者マルティン・ルターも若い頃、パウロにまさるとも劣らない激しい心のたたかいをしています。パウロにしてもルターにしても、あれほどの偉い人であってもです。

自分が実は暗闇の中にいて、自分が暗闇だと気づくことは、他の人の前でなんでもかんでも私が悪うございましたと言って頭を下げることではありません。神様を仰いで、神様の前で自分が何の価値のない人だと気づくことです。そのところから、すべてが始まるのです。

でも、誰もがそのことに気づいているわけではありません。そこでパウロは、

エフェソの教会に宛てた手紙の中で、こう説いているのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

以前には暗闇でしたが、今は光となっています、パウロはなぜこんなことを教えたのでしょうか。ここで暗闇に対して光が掲げられています。誰でもわかるように、光は素晴らしいものです。そして暗闇より光が良いことは当然ですが、ここで注目したいことは、あなたがたは光となっているということです。…パウロがもしも、あなたがたは暗闇の中にいて、暗闇そのものなのだから、そこから抜けだして光となりなさいと言ったとしたら、私たちはしぶしぶながらも理解できます。そのことがいくら困難なことだとしても、光に向かって努力しなさいというのは、パウロ先生なら言いそうなことだと思うからです。しかし、ここでは、あなたがたは今、光となっています、と言われているのです。あなたがたは今、光となっています、信じられないような言い方だと思いませんか。 

皆さんがかりに「あなた、輝いていますね」と言われたとしたら、「そうでしょう、そうでしょう」と答える人もいるかもしれませんが。おそらく大部分の人は「とんでもありません」と言うでしょう。パウロはそんな面はゆいことを言っているのです。

もっともあなたがたは、光となっている」と言われても、昔からそうだったのではありません。昔は暗闇だったのです。それが今、光となっている、その理由はただ一つ、「主に結ばれて」ということにほかなりません。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」、主とはもちろんイエス・キリストです。

主イエスはヨハネ福音書8章12節で言われています、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と。イエス様は光であられます。世に対する光であられます。このことはイエス様ご自身の証言ばかりでなく、父なる神様が証しされ、すべてのキリスト教信者が認めていることです。

 紀元325年、キリスト教信仰の根本についての論争に決着をつけるために会議が開かれました。そこで最終的に採択されたのがニカイア信条という文書です。私たちの教会は「日本キリスト教会信仰の告白」を持っていて、これを唱えていますが、日本キリスト教会憲法に、日本キリスト教会信仰の告白はニカイア信条で言い表された信仰の告白を継承しているとはっきり明記されています。そのニカイア信条の中でイエス様についてこう言われているのです。「主は神のひとり子、すべての世に先立って父から生まれ、光からの光、まことの神からのまことの神」。

ヨハネの手紙一の1章5節には「神は光である」と書いてあり、父なる神様ご自身が光であることは間違いありませんが、神のひとり子であるイエス様も光、まさに光からの光なのです。

光は暗闇とは何ら関わりがありません。ろうそくの光や電灯の光を見てもわかるように、光と暗闇が混じりあってその中間の色になるということは絶対にありません。どんなに暗い部屋でも、光が灯ったら暗闇を照らし、暗闇を払いのけます。同じようにイエス様という光も、暗闇を照らし、明るみのもとにさらします。石をひっくり返すと、そこにいた暗闇を好きな虫がクモの子を散らすように逃げてゆくことがありますが、そのようにイエス様という光が輝いた時、暗闇の世界はたいへんなことになります。だいたい、イエス様という光に照らされないと、人は自分が暗闇の中にいることにも気がつきません。その中で満足しきっている人もいて、その人はたいへんに危ういところにいるのですが、イエス様という光に照らされるとどうなるでしょう。仰天してどこまでも暗闇へと逃げてしまう人がいます。しかし皆さんは光の中に留まることを選ばれました。これはたいへん幸いなことでした。

人間にはもともと光は備わっていません。自分から輝くことは出来ないのですが、それがイエス様のもとに来ることが出来たのは、光からの光であるイエス様に照らされて、イエス様と結ばれたからです。だから光なのです。ただ、いくらなんでもイエス様と同じ光ではありませんから光の子と言っているのでしょう。かりに神様があなたは光の子でないと証言されるなら、あなたは悪魔の子であるしかありません、それくらい聖書の言葉は重いのです。

第2コリント書4章6節は言っています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に働いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

父なる神様はかつて歴史の初めに、闇の中から光を輝かせることで、天地創造のみわざを開始されました。光は暗闇の中で輝き、暗闇は光に勝つことが出来ませんでした。その光をさらに輝かせるために、光からの光であられるイエス様がこの世界に来られました。その光のもとに世界は照らされ、闇は払いのけられ、私たちもその恩恵にあずかり、もったいなくも光の子と呼ばれることになったのですから、これからもずっとその道を歩んでゆきましょう。もう二度と暗闇の世界に戻っていってはなりません。

 

さて今日の聖句の中で5章14節で引用されている言葉を考えてみましょう。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」、これは出典がはっきりしません、旧約聖書をはじめとしていろいろなところから持ってきたものだと考えられています。

眠りについている者とはすでに死んだ者ではありません。生きてはいてもそれは名ばかりで、神様の前では死んだも同然な人を言っています。実際に、そういう人がたくさんいるのです。

多くの人たちにとって、人生がばら色だったのは小さな子どもの頃まででしかないかもしれません。ある時、小学生が2歳か3歳の子どもを見て、しみじみと「今がいちばん良い時だわね」と言っているのを見ました。妙に実感がこもっていました。今や中学生も高校生も大きな悩みをかかえています。若い人にとっても生きづらい時代です。そして年を取った人は、やがて訪れる人生の終わりをみすえて心が揺り動かないでいることは困難です。

けれどもイエス・キリストは光からの光、まことの神からのまことの神であられたにもかかわらず、私たちと同じ人間となられ、同じ喜び、同じ悲しみを共にされました。そうしてついに十字架の死を体験され、勝利の内に復活されたことは、この方に結ばれたすべての人にとって、汲んでも尽くせない意味を持っています。イエス様が光であり、私たちが光の子であるということは、私たちの人生も、死も、その先のこともすべて光の一部であるということにほかなりません。いま私たちが生きていて、どんなに悩みや苦しみをかかえていても、それは滅びに向かっての歩みではなく希望に向かっての歩みです。主イエスの前で精一杯生きた人は死においても、父なる神様から「よくがんばりました」と祝福されるにちがいありません。光の子である私たちみんなが光の子として歩んで行く、そのことを信じて、願っています。

 

(祈り)

いつくしみ深き父なる神様。私たちは誰も光が尊いことを知っています。しかしながら、しばしば光を見失い、暗闇に引っ張りこまれそうになり、時には暗闇の側に立って光をあざ笑う人に加わってしまうことさえあります。そんな私たちをどうか神様の側、光の側に引き戻して下さい。

神様、私たちが実を結ばない暗闇の業を光の業と勘違いしてしまうことがありませんように。激しく移り変わる世の中で、いっとき流行ったものもすたれて、やがて下火になってゆきます。そんなはかないものに心をとらわれず、十字架の死に至るまで人間たちと共に歩まれたイエス様から輝き出る光の内に、私たちを生かす神様の愛があり、救いがあり、希望があるのだということを悟らせて下さい。

 

とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。