貧しい人々の幸い

       貧しい人々の幸い  イザヤ611、マタイ5:3   2021.6.13

 

(順序)

招詞:詩編119107、讃詠:546、交読文:ヨハネの手紙一4:7~12

讃美歌:80、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:161、説教、祈り、

讃美歌:507、信仰告白:使徒信条、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣

 

 

イエス・キリストは山上の説教の初めに、九つの幸いをあげて祝福の言葉とされました。その第一がマタイ福音書の5章3節で「心の貧しい人々は、幸いである」です。これは原文では順序が逆、「幸いである」が前に来ているので「幸いである、心の貧しい人々は」ともなります。文語訳では「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」となっていました。

主イエスのメッセージは、これを直接聞いた人々にとって、全く予想もつかないものでありました。誰もが普通の人間で、祝福など縁遠いことと思っていただろう人たちがいきなり祝福されたからです。みんな、大変に驚いたことでしょう。…普通、教祖様のメッセージというものは、こうこうしなさい、そうすれば幸せになりますよ、というものではないでしょうか。善い行いをしたら、それが何倍にもなって返って来ます、と言うように。…ところが、主イエスのなさることは違うのです。始めに神の恵みが告知されます。こうしなさい、と言うことはそれからあとの話です。

山上の説教は貧しさの祝福を語ることから始まります。しかし私たち平凡な人間は思います。貧しいことが何で幸いなのだ、と。主イエスはそうした人間の気持ちを知りつつあえてそう語るのです。主がここで、このような人は幸いであると語られた貧しさ、それはいったい何であるかというところから問い直したいと思います。

 

イエス・キリストの生涯を記録したものが4つの福音書ですが、この山上の説教の記事はルカによる福音書にも出てきます。同じ出来事を別々の人が書いたわけですが、マタイとルカではずいぶん違っています。マタイ福音書では5章、6章、7章と3つの章にわたって説教がなされていますが、これに対し、ルカ福音書では、山上の説教に相当する話が6章、11章、さらにほかの箇所にも出て来るのです。ルカ福音書の中のあちこちに山上の説教がちりばめられているということです。

これは、イエス様のいろいろなお話をどのように編集するかと言うことで、違いが出て来たのだと考えられます。マタイ福音書の方を見てみると、ここで皆さん、ちょっと、イエス様のお話を聞く群衆のひとりになったと想像してみて下さい。5章から7章までにあるたくさんのお話をただ1回の説教の中で聞いたとします。頭の中で消化できるでしょうか。おそらく、無理でしょう。そこから、作者のマタイが、イエス様がいろいろな所でなさったお話をここで一つにまとめて書いたという可能性が大きくなっているのです。

さらにマタイ福音書とルカ福音書では、そこに収録されたイエス様の言葉が必ずしも同じではありません。…マタイの5章3節は、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」、これがルカの6章20節では、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」となります。

この違いがわかりますか。特に前半の言葉です。マタイが「心の貧しい人々は」となっているのに対し、ルカの方はただ「貧しい人々は」とだけなっているのです。「心の貧しい人々は、幸いである」と「貧しい人々は、幸いである」、この違いは重大です。

ただ一つの主イエスの言葉がどうして二通りに記録されているのでしょうか。…そこである人は、イエス様は「貧しい人々は、幸いである」とだけ言った、文字通り貧乏ということが問題になっていて、これにマタイが、本来なかった言葉をつけ加えた、と考えました。……また別のある人は、イエス様は「心の貧しい人々は、幸いである」と言われた、イエス様は人間の内面に関わることを教えて下さったのであって、ルカは省略しすぎだと言うのです。

結局、この問題の解決は出来ないままになっています。解決出来る見通しもないのではないかと思いますが、ともかく二通りの主イエスの言葉が聖書に載っているという事実は重いものがあります。……ルカ福音書の「貧しい人々は、幸いである」という言葉の意味は深いのです。しかしマタイ福音書の「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉の意味もまた深いのです。一方だけを良しとして他方を切り捨てることも出来ません。また、両方が複雑に関係しているようです。…今日はおもにマタイ福音書から考えていますが、「心の貧しい人々」と言う時、金銭的な意味での貧しさが忘れられているわけでは決してありません。「心の貧しい人々」と言っても、財産は関係ない、心の持ちようだけが問題なんだ、という結論を出すことも出来ません。…逆にルカ福音書の言葉についても、心のことはどうでも良いと決めつけることは出来ないのです。

 

主イエスが、貧しい人々であれ、心の貧しい人々であれ、その人たちが幸いであると言われたことは、誰でもすぐわかるように、人間の常識とはかけ離れています。誰だって、貧しいよりは豊かであることを願っているのです。しかし、神様が示して下さるビジョンは違います。

「心」がついてない「貧しい人々」の方から考えてゆきますと、イエス様は「金持ちが天の国に入るのは難しい」と教えられましたが、このような意味において貧しい人は幸いなのです。貧乏はその人が天国に入ることを助けこそすれ、それを妨げることは少ないのです。しかし、物質的に貧しければそれで良いというのでもありません。ここに「心の貧しさ」を問う必要が出てきます。

さて、ここまで来て恐縮ですが、「心の貧しさ」という訳が本当に正しいかどうかを検討しなければなりません。聖書から離れて、私たちがふつう「心の貧しさ」ということでイメージするのは、心が狭い人とか、つまらない人ということになるのではないでしょうか。「あなたは心が貧しい」と言われたとします。それで喜ぶ人はいませんね。心の貧しさには明らかにマイナスイメージがあります。だから、「心の貧しい人々は、幸いである」と言われても、ふつう、わけがわからないのです。

実は、マタイ福音書で「心」と訳されている言葉を、原文にあたって辞書で引くと「霊」ということになります。聖霊とか幽霊の霊です。そのため、ここを「霊の中で貧しい人たちは幸いである」と訳している聖書もあって(回復訳)、私はそちらの訳の方が、誤解を招かないので良いと考えています。

日本語には霊魂という言葉があります。心と霊と魂、この違いはたいへん難しくて今日はお話し出来ませんが、心のもっとも深いところ、人が神様と触れ合うところ、そこが霊です。ですから霊の中で貧しい人たちとは、心の奥底において貧しい人々ということです。では、イエス様は、なぜそのような人々が幸いであると言われたのでしょうか。

ここで、霊の中で豊かな人というのを想定してみましょう。それは、神様の前で満ち足りた人です。満足しきっている人です。…実は、そういう人はお金持ちにも貧乏な人にもいるのです、お金持ちの方が多いと思いますが。お金持ちの場合、財産がたくさんあってほくほくしているので、神様のことなど必要ないと思ってしまうことが多いのです。…貧乏な人の場合は、毎日どうやって生きていくかで汲々となっていて、神様のことを考えるひまがないという人がいます。気の毒ですし、何とかしてあげなくてはならないのはもちろんですが、その人が神様を仰ぐことがなければこの状態から抜け出ることは出来ません。

霊の中で貧しい人というのは、お金持ちであっても貧乏な人であっても、「神様の前で、貧しさの中に生きる人」のことです。自分の心の中の深いところには何もない、無一文です。ではどうすれば豊かになるのかというと、自分には何もないので神様から頂くのです。ですから、霊の中で貧しい人とは、のどがからからになった人が必死に水を求めるように、神様の恵みを必死に乞い求める人なのです。

 

これまで、多くの教会で、「心の貧しさ」すなわち「霊の中での貧しさ」というのが謙遜の意味で理解されていたことが多かったと思います。自分がたとえ良いものを持っていても、へりくだって自分を貧しい者だと考えるような心を言っていると、主はそのようにつつましく生きる人のことを幸いだと言われたとするのです。…しかし、イエス様の真意はそういうことでありません。

謙遜な心、これも美しい心ではありましょうが、それがここで語られているとは言えません。それ以上のことです。本当の意味における欠乏です。…というのは、本当の神様を信じてなくても謙遜な人はいます。中には、本心を隠して謙遜に見えるよう、ふるまっている人もいます。それでは、まだまだ足りないのです。自分には何もない、神様にすがらなくては生きていけない、そういう人こそ幸いであるとイエス様は教えておられたのでした。

そんな人がいったいどこにいるのでしょう。それを聖書の中から探してみましょう。ルカ福音書の18章9節を開いて下さい。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる人は低くされ、へりくだる者は高められる」。

ここにマタイ福音書5章3節のもっとも良い説明が与えられています。ファリサイ派の人は霊の中で豊かな人の典型です。品行方正で、非の打ちどころがない人でした。しかし、この人は神様によって退けられました。かえって霊の中で貧しい人、胸を打って自分が罪人(つみびと)であることを告白した徴税人を神様は受け入れられたのです。

聖書にこの話があることは、よく考えると大変なことだと思うのです。こんな話ない方が良かったという人がいるかもしれません。ある人はこう思っているかもしれません。「こんな話を聞くのは不愉快です。冗談じゃない。私はファリサイ派の人に同情します。私だって立派な社会人です。世間の人々の評判は良いし、しっかりした家庭も持っています。教会の礼拝にはもう何年も休まずに来ているし、一生けんめい教会のために尽くしてもいます。神様はこんな私よりあの徴税人のような情けない人の方が良いと言われるのですか」。これに対し、神様はきっとこう答えると思うのです。「そうじゃない。私はあなたが努力していることを見ていないわけではない。いや、とても頼もしく思っているんだよ。でも、あなたには一つだけ足りないことがある。それは私が私がと言うことだ」。

神は謙遜な人を喜ばれます。しかし誰かが自分には謙遜という徳があるから神様に受け入れられる、なんて思ったが最後、神様は遠ざかってゆくでしょう。霊の中で貧しいとは、一人一人が口に出さなくても心の中で誇りに思っているものをすべて取り去ったときに見えてくるものです。むろん、これは、ほかの人の前で、自分はどうしようもない人間だと卑屈になることではありません。ここで問題になっているのは、神様の前での心のありようです。神様の前での心のありようです。心の中で、霊の中で貧しい人ほど、神様のあわれみによって満たさなければ自分は永久にひからびた人間のままであるということがわかっているので、これを乞い求めるのです。

私は信じています。もし誰かが真実な思いで神様を愛し、また、ただ一人でも良い、悩んでいる人のかたわらに立つことが出来たならば、それは自分自身の持つ豊かさの故ではなく、神様の前での自分の貧しさを知ったからです。イエス・キリストはもともと天で豊かであったのに、貧しい人々のただ中に降りて来られ、ご自分が持っておられる富のすべてを差し出して、神様の前で貧しい人々を富ませ、豊かにして下さいました。

私たちがみんな、神様の前で豊かな人でなく、貧しい人であることを知ることが出来たことを感謝します。神様は私たちの欠けた所をもって、私たちと結びついて下さいました。だから私たちは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」というイエス様の約束にひたすら立ち続けることが出来るのです。

 

(祈り)

恵み深い天の父なる神様。主イエスの言葉はまるで鋭い刃物のようです。どうかそのみことばをもって、私たちの心を覆っている鎧をはがして下さい。自分が持っている健康やお金、能力や社会的地位などを頼みとする心を叩き直して下さい。神様からいただいたものを、自分が獲得したもののように思う、傲慢な心を砕いて下さい。そうして、あなたが下さる良いものだけを追い求め、感謝をもって受けとってゆく者として下さい。イエス様は豊かであったのに、私たちのために貧しくなられました。そのために十字架にまでかかって下さいました。私たちがイエス様によって神様の前で富む者となるためです。どうかイエス様の豊かさにあずかるために、私たちが神様の前で、自分がいかに貧しい者であるかを示して下さいますように。 

主イエスの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。