幸いに生きる道

幸いに生きる道   出エジプト記232a、マタイ4:235:12  2021.6.6      

 

(順序)

招詞:詩編119105、讃詠:546、交読文:ヨハネの手紙一4:7~12

讃美歌:83、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:79、説教、祈り、

讃美歌:525、信仰告白:使徒信条、主の祈り、頌栄:540、祝福と派遣

 

 

これから「幸い」ということについて、イエス・キリストの教えを聞きましょう。

イエス様は「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、ガリラヤの地で伝道を始められました。どこの村にも会堂があったので、そこに出かけて、教え、福音を宣べ伝え、そればかりでなく人々のありとあらゆる病気や患いをいやされたのです。そのため、またたくまに評判が広がって、大勢の群衆が遠くから近くから集まってきました。イエス様はこの人々を見て、山に登られました。腰を下ろされると弟子たちが近くに寄ってきたので、口を開いて、教えられました。

マタイによる福音書の5章から7章までに書いてある、主イエスのこの教えは、山上の説教と言われています。昔は山上の垂訓と呼ばれていました。垂訓という言葉ではいかにも古めかしく、上からこうしなさい、ああしなさい、と教訓を垂れているように思えます。そうではないことを示すために説教となったのでしょう。もちろんお説教ではありません。

教会で行っている説教は、良い知らせを伝えるものです。喜ばしい神の救いのわざを伝えるものです。この山上の説教の最初の部分も、だから「幸い」を説くみ言葉で始まっています。イエス様は良い知らせを持ってきて下さいました。だから牧師はイエス様のスポークスマンとして、良い知らせを皆さんの手もとにお届けしたいのです。

 

皆さんは山上の説教を読んで、主イエスがお話しされている情景が目の前に広がってゆくような思いがしませんか。ガリラヤ湖のほとりに私は立ったことがありますが、なだらかな坂に主が登ってゆかれたという小道が今も残っていて、その跡をたどってゆくとすぐに丘と言ってもいいような小山が見えてきます。ここで主は大勢の群衆を前に口を開き、明るく、力強い声があたり一帯に響きわたったのでしょう。

山上の説教は「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉で始まっています。原文をその順序の通り翻訳すると「幸いである、霊において貧しい人たちは」となります。幸いという言葉で始まっているのです。ですから、4節以降も「幸いである、悲しむ人々は」、「幸いである、柔和な人たちは」というようになります。

主イエスはしかし、ここで、心の貧しい人々や悲しんでいる人々がやがて幸せになるのだと言っているのではありません。あるいはまた、お前たちは幸せなんだぞ、と無理に信じこませようとしているのでもありません。ここのところのニュアンスを聞きとって下さい。主は心から祝福の言葉を述べておられるのです。おめでとう!あなたは何と幸せな人でしょう!それは心が貧しいから、悲しんでいるから、柔和だから……。主イエスが幸いであると言ったどの項目も、実社会の中ではなかなか評価されにくいことばかりですが、にもかかわらず、そのことが祝福されているのです。

ここに幸いと訳された言葉は、かつてギリシャ人たちが神々の世界の中に夢見た、悲しみや苦しみのない至福の状態を示す言葉だったということです。人は誰しも、この世に生まれて幸福を願わない者はありません。古代ギリシャの人々は、悩みというものがなく、遊んで暮らせて、死ということを考える必要のない神々の世界を夢見ていたのです。…このことは、人生が悩みに満ち、苦しく、死によってすべてが失われてしまうことの裏返しにほかなりません。主イエスはそのような意味を持った言葉を用いつつ、ギリシャ神話とは全然ちがって、まことに悩み多い普通の人間の人生に祝福を与えておられます。このことは私たちが心に留めておきたいところです。

主イエスが山上の説教をお語りになった相手は、5章1節だけを見ますと「弟子たちが近くに寄って来た」と書いてあるので、弟子たちだけのようにも見えますが、7章の最後、28節で「群衆はその教えに非常に驚いた」とありますから、やはり群衆だったのです。これは民衆とも大衆とも、あるいは人民とも言いかえることが出来るでしょう。その場にいたのは、ごく普通の人たちであったでしょう。この人々に向かって主は「あなたがたは幸いなのだ。なぜなら心が貧しいから、悲しんでいるから、柔和だから…」と宣言されました。…そこで、これを読んでいる現代のわれわれとしても嬉しく思うのではないでしょうか。

「主のおっしゃりたかったことは、平凡な人々の持つ美徳だったのではないか。ここに9回、幸いという言葉があるけど私も普通の人たちの内の一人だし、ここにある項目の全部とはいかなくてもどれかには当てはまるだろう。だから私も幸いなのだ。祝福されているのだ。ここにイエス様の、人間に対する信頼が表明されている。人間て素晴らしい」。…山上の説教について、もしもこのように考えてしまうと、落とし穴に落ちてしまうことでしょう。

 

話は飛びますが、15世紀から16世紀にかけて、オランダ人でボッシュという画家が活躍しました。不思議な絵を描く人で超現実主義の元祖と言われていますが、この人に「十字架を担うキリスト」という作品があります。恐ろしい絵でもあります。大勢の群衆に囲まれて主イエスが立っています。主は静かな表情をしていますが、その周りを取り囲む群衆を見ると、一人一人の顔がまるで悪魔です。「お前もこの中にいるんだよ」と言われているようです。人間のありのままの姿を表現することで、この絵はまさに地獄を表現したのです。

救い主、イエス様のご受難を自分に結びつけて考えられない人には、この絵のこわさが十分に理解できないかもしれません。「自分はこんなことをする人間ではない。イエス様を十字架につけたりなんてしない」と思っているなら安泰です。しかし、主を囲んで「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んでいるのが群衆であり、そして自分自身も群衆の一人であることを思えば、取りすました私たちの化けの皮もはがされるのではないでしょうか。…あなたは見ていたのか、主が十字架に上げられるのを。…私たちに良心があるなら、主イエスを十字架につけた群衆の中に自分がいることがわかるのです。

主イエスの山上の説教を聞いていた群衆は、一方で、飼う者のない羊のように弱り果て倒れている哀れな存在でしたが、一方、それがどんなに自分本位であさましい存在だったかということは事実が示しています。

主イエスはこの山を降りたあとも、おびただしい群衆に取り囲まれ、悩みを聞き、虐げられた人々の心を慰め、病を治されました。しかし、主のもとに殺到し、後を追いつづけ、そのあわれみを受けた群衆が最後にどうなったか、この人を十字架につけろと叫んだのです。…主イエスが人間がどんなにあさましい存在か知らなかったはずはありません。そうすると主は、ご自分を殺すことになる人たちに向かって、あなたがたは幸いである、と言ったことにならないでしょうか。この事実にふたをしめることは出来ません。こちらに、主に最後まで従って、幸いだと言われた人々がいて、あちらに主を十字架にかけた極悪な人々がいるというように、区別することはとうてい出来ないのです。まことに悲しいことですが、これほどまで豊かな幸いを語って下さった口を封じるために、群衆は祭司らの扇動に乗って、主の十字架刑を求めたのです。この時、弟子たちも、主を捨てて逃げてしまいました。この方のもとに幸いはないと、逃げてしまったのです。

このように見てゆきますと、私たちが初めに山上の説教に対し思い描いていた明るいイメージが音をたてて崩れてしまうようです。ここを読んだ時、私たちは主イエスの、人間への熱い信頼のメッセージに心おどる気持ちになっていたかもしれません。九つの幸いの項目を見て、自分はここに当てはまるなどとほくそえんでいたかもしれません。そのような信仰が全くまちがっているわけではありませんが、(皆さんは日曜学校の生徒ではありません)、信仰は成長しつづけなければなりません。そうしないと、主イエスに出会った人々と同じことになってしまうのです。

十字架にかけられた主イエスが、ご自分を死に追いやることになった群衆に向かって、その現実にもかかわらず、心からの祝福を告げられた、これが山上の説教でありまして、その根底にはぬぐいきれない人間の罪があるのです。

 

罪ということを教会ではいつも言います。それが繰り返されると、もういい加減にしてほしいと思う人も出てくるかもしれません。けれども教会でこの言葉を言わなくなることは絶対にありません。「どうして自分が罪人なんだ」と思っている人に対して「それでも私たちは罪人なのだ」と言い続けるところが教会の教会たるゆえんです。

罪について一つの例を申しあげます。日本の国がかつて戦争中にアジア各国などに対して行った罪悪を告発する動きがあります。しかし一方、この問題を直視せず、ごまかしたり開き直る人がまだまだ多いのが現実です。あの戦争で2000万のアジア人が殺されたと聞いても「ああそんなものか」と思う、従軍慰安婦のことが問題になると「こんなことは日本だけにあったのではない」と自己弁護します。これまでわかった事実だけでも、これが人間のすることかと思わせられますが、言い訳を試みる人たちはこれ以上恐ろしい事実が判明したとしても、やはり自分の心の中で折り合いをつけてしまうのでしょうか。その先に何があるのでしょう。

2000年前、主イエスの最期の場面に立ち合った群衆も、このように自己正当化をはかったのでしょうか。「十字架につけろ」と叫んだ人々は、イエス様の無残なお姿を見て拍手喝采したのでしょうか。…私は、ルカ福音書の2348節に、主が息を引き取られたとき、「群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」と書いてあるのを見つけて、本当に嬉しくなりました。主が群衆に向けて語った「あなたがたは幸いである」という言葉はまだ失われてはいなかったのです。主の十字架を見上げることによって、重大な罪を犯した群衆も胸を打たれたのです。

このような人間の罪の現実を、誰よりもよく知って、誰よりも怒っておられる主イエスが、ご自分の言葉に耳を傾けるすべての人に向かって、あなたがたは幸いなのだ、と言われます。ここで主が幸いだと呼んでおられる人、そこにあるのは心の貧しさであり、悲しみであり、柔和であり、義に飢え渇くことです。損をしても憐れみに生きることであり、汚れの間で清く生きることであり、平和を実現することです。迫害されても生きていくことです。悪口をあびることです。これらすべて、この世の常識で幸いと言われることをひっくり返しています。やはり何と言っても、若く、お金があって、好きなことが出来ることが幸いだと私たちは思っているのです。清く正しく生きていっても何の得があるのか思っているのです。自分は世渡りが下手でうだつが上がらない、何て不幸な人間なんだ、と思っているのです。しかしそこで主は、いや、そうではない、あなたはそこで幸いを得ているのだ、と言われるのです。

貧しさや悲しみなどの中でどうして幸いなのか、と言う人にはこう答えましょう。キリストを知る前は、貧しさや悲しみに陥ると落ちこんでしまいます。しかし、キリストを知った後、主が苦しみを幸いに変えて下さっていることに気がつくのだと。それは天の国がその人のものだからです。慰められるからです。地を受け継ぐからです。満たされるようになるからです……。

主イエスが群衆に出会って、これを神の民へと変えて下さった、その幸いがいま私たちに与えられています。神がともにいまし、神の支えの中に自分の人生がゆだねられていることは何と幸いなことでしょうか。幸いに生きる道は今すでに切り開かれ、私たちはその道を歩き始めているのです。

 

(祈り)

天の父なる神様。神様は今日、私たちをあなたの愛に気づかせるために、山上の説教について語って下さいました。私たち一人ひとりが幸いな者とされている、そこにはイエス様の命をかけた取りなしがあったことを覚えて、心から感謝いたします。

私たちはふだん、神様に従うことが大切だとは知っていながら、いつもそこからそれていってしまいます。イエス様のことを上にまつりあげておいて、実際には何とも思わなくなることがあるかもしれません。それでいて、この世の幸せだけは受け取ろうとするのです。イエス様をもう一度十字架につけてしまうようなことをするのです。そんな私たちをどうかあわれんで下さい。

神様、今日ここで明らかにされた、イエス様が下さる幸いが、コロナ禍の中にあっても、多くの人の中に伝わってゆきますように。主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。