わたしは主に望みをかける

2021年5月30日 オンライン礼拝

(順序)

招詞:詩編119103104、讃詠:546、交読文:ヨハネの手紙一4:7~12

讃美歌:7、聖書朗読:下記を参照、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、

讃美歌:354、信仰告白:使徒信条、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣 

 

わたしは主に望みをかける イザ8123a、マタイ102628  2021.5.30

 

イザヤ書8章に書いてあることは、これだけでは何がなんだかわからないと思うので、歴史的背景からお話しいたします。

これは先月に学んだ7章と連続しています。イスラエル民族は南北2つの国に分裂していて北をイスラエル、南をユダと言いました。この時の北の国イスラエルのもう一つの名前がエフライムです。紀元前735年にシリア・エフライム戦争というのが起きます。シリアがイスラエル、別名エフライムと手を組んで、ユダに攻め寄せてきたのです。

ユダの王アハズはこの時、二つの国に攻められてうろたえてしまい、北方の大国アッシリアに助けを求めて、この難局を乗り越えようとしました。シリアとイスラエルの敵がアッシリアだったので、敵の敵を味方にすれば生きのびることが出来ると計算したのです。…この時、預言者イザヤはアハズ王のもとに出向いて、「それはいけない、ただ神様だけに頼りなさい」と迫ったのですが、王は聞き入れません。神様なんか頼りにならない、強い国になびけば安心だと考えたのです。こうしてアッシリアに助けを求めると、アッシリアの王はその願いを聞いて、すぐに軍隊を出動させ、紀元前732年にシリア、別名アラムを滅ぼし、王のレツィンを殺しました。そして次にイスラエル、別名エフライムに攻め寄せて、首都のサマリアを3年間包囲したのち、この国も滅ぼしてしまいました。それが紀元前722年になります。

こうしてユダの国にとって、二つの国シリアとイスラエルが滅びたことで当面の危機は回避できました。アッシリアに頼ったのはいっけん正しかったように見えました。しかし、それは甘かったのです。ユダの国は今度は、アッシリアに多額の貢ぎ物を納めなければならなくなりました。アハズ王はさらに、エルサレムの神殿の扉を閉じて、かわりにあらゆる街角に祭壇を築いてアッシリアの神々を拝むようにしたので、本当の信仰はすたれてしまいました(歴代誌下2824)。…つまりユダの国はシリアとイスラエルの脅威から解放されたかわりに、もう一つの巨大な敵を引き入れることになってしまったのです。もうアッシリアには頭が上がりません。それどころかアッシリアの神々を礼拝することにさえなってしまったのです。

 

 こうしたことを見た上で、神様がイザヤに言われたことから見てゆきましょう。このことが起こったのは、少し時代が前になります、シリア・エフライム戦争の直後、735年から733年にかけてだと思われます。8章1節、「主はわたしに言われた。『大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい』と。そのためにわたしは祭司のウリヤとエベレクヤの子ゼカルヤを、信頼しうる証人として立てた。」

 続いて「わたしは女預言者に近づいた。彼女が身ごもって男の子を産む、と主はわたしに言われた。『この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名を付けなさい。この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる。』」

 イザヤは神の命令を受けて書類を作りました。その時、2人の証人も呼んで、これを法的に有効なものとしました。そして、そこに書いたことを生まれてくる子どもの名前としました。それが「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」です。子どもの名前は将来を予告していました。赤ちゃんがパパ、ママと言えるようになるのはだいたい1歳から1歳半くらいです。そんな短期間の内に、神様が言われた通りのことが起こったのです。シリアの首都ダマスコとイスラエルの首都サマリアにアッシリアの軍隊が攻め込んだ結果、財宝は略奪され、二つの国は滅ぼされてしまったのです。ユダの国にとって、それは一安心だったかもしれませんが、でも、それでおしまいにはなりませんでした。

神様は6節で言われます。「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み」、シロアの水とはエルサレムに流れている水道水のことです。水道水と言っても今のように蛇口をひねればすぐに出て来るというものではなく、地上を流れる水路だったと思いますが、これを拒みというのはたとえです、ユダの国が神様から頂く恵みを拒んでいるということをたとえたのです。その結果はどうなるのか、7節、「それゆえ、見よ、主は大河の激流を、彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。」。アッシリアにはチグリス川とユーフラテス川という大河が流れていますが、神様はその水の流れをもってエルサレムを襲われると言われるのです。

「激流はどの川床も満たし、至るところで堤防を越え、ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す」。激流が洪水となってエルサレムばかりでなくユダの全土を襲う、そのためユダの人々は首まで水につかってしまう。これももちろんたとえです。ユダの国にとって、自分たちを守ってくれるはずのアッシリアが今度は押し寄せてきて、飲み込んでしまうということです。

 神様が言われたことはやがて事実となりました。732年にシリアが滅び、722年にイスラエル、別名エフライムが滅びたあともユダの国は何とか持ちこたえていました。しかしアッシリアの脅威は次第に強まっていきます。701年、アッシリアの軍隊はエルサレムに攻め寄せ、この都を包囲し、陥落させる寸前にまで追い込んでしまうのです。

 さて、こんな大昔のことを私たちはどうして学ぶ必要があるのでしょうか。…それは今の時代でも、同じことが起こっているからです。

アハズ王をリーダーとするユダの国は2つの国が攻めてきた時、神様の助けを乞うこともしません。アッシリアという超大国に頼ればいいんだということでそうしたのです。アッシリアはユダの願いを聞き入れて軍隊を出し、2つの国を滅ぼしましたが、それだけで終わらず、今度はアッシリアによって自分の国も危うくなってしまいました。

これは今の時代を映しているようです。日本は今、世界でいちばん強い国はアメリカだからと、アメリカに頼っているように見えます。アメリカにはよほどのことがない限りさからいません。それが本当に良いことなのかどうか。…ただし、これは日本がアメリカと手を切れということではありません。アメリカが尊敬すべき国だからそのあとについていくというなら筋が通っていますが、もしもアメリカが超大国だからという理由で従うということだったら、日本の先行きが思いやられます。むろんアメリカの素晴らしいところはどんどん吸収してゆくべきです。…子どもの世界にたとえるなら、ガキ大将にくっついていけば良いと言うのではなく、何が正しいのかということが第一にならなければなりません。日本の国のこれからを導くのも聖書の言葉なのです。

 

8節の「ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。」に続いている言葉を見て下さい。「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」激流の話が急に広げた翼に変わっていてとまどうのですが、これがアッシリアの力のことだとすると、アッシリアの力がユダの国を覆い尽くすということになります。

しかしながら、そのことはユダの国が破局を迎えるということではありません。9節と10節で、諸国の民に対して言われていることは、その企てが最終的には失敗するということです。「戦略を練るがよい。だが、挫折する。決定するがよい。だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。」

ユダの国は神様のもとに来ようとはせず、超大国に頼って生き延びようとし、そのためにさらに大きな災いを招くようなことになってしまったのですが、それでも神様はこの国と人々を守ろうとされました。

 そのことは、のちにアハズ王のあとを継いだヒゼキヤ王の時代に起こります。イザヤがこの預言をしていた時にはまだ起こっていないことだったと思いますが、それはこういうことです。イザヤ書の36章から38章にかけて書いてあることをまとめますと、紀元前701年、アッシリアが攻めてきて、ユダのすべて城壁のある町々を攻め取りました。この国は絶体絶命の状態になってしまったのです。その時、ヒゼキヤ王は祈ります。「わたしたちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください。」すると神はイザヤにこう言わせました。「主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。…わたしはこの都を守り抜いて救う。」(イザヤ373335)…するとどうなったか、イザヤ書3736節、「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。」こうしてユダの国は危ういところで救われるのです。アッシリアの兵士十八万五千人が死んだ原因は、今では伝染病ではないかと考えられていますが、その本質は神がユダの人々と共におられたということです。神が我らと共におられる、ここに何度も出て来るインマヌエルということがその言葉通り実現していたのです。

 もちろんそのことは、神様が、ご自分に背いて力の強い者にしっぽを振っている人でも助けて下さるということではありません。この時は助けて下さるとしても警告が与えられています。神様はイザヤに、この民の行く道を行かないようにと戒められます。この民の行く道とは、アハズ王がしていたこと、神様に逆らい、力の強い者になびくということですね。

12節、「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。」同盟という言葉は新改訳聖書では謀反と訳されていました。英語の辞書では陰謀、本来の意味を突きとめるのがたいへん難しいのですが、たぶん正しくない目的のために手を組むということでしょう。神様は「強固な□□同盟」ということで安心してはいけないと言われたのだと思います。この場合はユダの国がアッシリアと手を結んだことを言います。相手が人であっても、会社であっても、国家であっても、手を結ぼうとする時には正しい目的がなければなりません。ただ強い者になびいていくだけでは、この時のユダのようにしっぺ返しを食らうことが多いのです。

では、ユダの国にそうさせたのは何であったのか、それは恐れでありました。シリアとイスラエルが攻めてくる、ユダ一国だけでは持ちこたえられない、そうだ大国アッシリアの前にひざまずいて助けてもらおう、このことが第一となって、神様の前に来ることがどこかへ行ってしまったわけですね。

 ですから神様は命じられます。13節、「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主、御前におののくべき方は主。」

 私たちも、いつも、神を恐れるのか、人を恐れるのかという選択を迫られます。神様に従わなければいけないことがわかっていても、人間の力の方がこわくなって、そちらに従ってしまうことがよくあります。…日本の国という大きな単位で考えても、この国は強いから、この国についていけば安心だということばかり思って、神様の前でどうすることが正しいかというところまで、なかなか思いが行きません。

しかし、イエス・キリストは何と言われたでしょうか。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ1028)さらに、こうも言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ1625

 本当に恐れるべき方を恐れる人に、主なる神は聖所になって下さいます。聖所とは主が共におられる場所で、そこに行けば安心です。そのところ以外に信仰者にとって拠り所となる場所はありませんが、このことは主なる神を信じない人にとっては反対の意味を持つことになります。14節の訳「主は聖所にとっては、つまずきの石」は日本語としてはおかしな文章です。ここを他の訳を参考に考えてみると、信仰者にとっての聖所が信じない人にとってはそうではなく、つまずきの石だということです。イスラエルの両王国、イスラエルとユダにとっては前に立ちふさがっている妨げの岩、エルサレムの住民にとっては自分をつかまえる罠になってしまうのです。

 それがどういう結果になったかというのは19節以降に書いてあります。「人々は必ずあなたたちに言う。ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか。」

 本当の神様から逃げよう逃げようとしている人が行き着いたところ、その最悪の結果は、死んだ人の霊を呼び出してその声を聞こうとすることでした。皆さんはそんなことを信じられますか。聖書から神様の言葉を聞こうとするのではなく、死んだ人にお伺いを立て、そのことで自分と自分の国が何をしたらよいのか教えてもらおうとしたのです。もちろん、こんなことで未来を開くことは出来ません。

 本当の神様に立ち戻ろうとせず、滅びに向かってゆく人ばかり多い中で、しかしイザヤは人間の別の生き方を示しています。それが主を待ち望むということです。17節、「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。」

 イザヤが生きているのは神様がみ顔を隠しているような時代だったと思います。シリアとイスラエルが攻めてきたこと、それがやっと終わったと思ったら今度はアッシリアが押し寄せてきます。そうした国家的危機の中でユダの国は国王から一般の庶民まで望みを失って右往左往しています。神様がおられるならどうしてこんなことが、神様はどこかに隠れているんじゃないかと言うしかないような時代です。けれどもイザヤはその中で主を待ち望むと言ったのです。この方に望みをかけると言ったのです。これが本当の信仰です。

 いま私たちの国は、いくつもの超大国の力の前に翻弄されているように見えます。コロナ危機も深刻です。主なる神様はどこかに隠れておられるのではないか、としか思えないようなことも起こっているかもしれません。しかし人間の側から神様が見えなくても、神様の方は人間を見ておられます。きっと思いがけない時に、現れて下さるでしょう。だから神様を待ち望むのです。望みをかけるのです。

主なる神様を待ち望んで歩む私たちの日々が、祝福されるものでありますように。

 

(祈り)

救いの源である父なる神様。コロナ禍の中、教会に来て礼拝することが出来なくても、神様が私たちをそれぞれの場で守り、導いておられることを思い、感謝いたします。

私たちがいま置かれているのは、外国の軍隊に取り囲まれたユダの国ほどひどい状態ではないとしても、やはり不安でいっぱいの時代です。その中で落ち込んだり、投げやりになったり、また怒りちらすのではなく、神様を待ち望む生き方を教えて下さい。神様から日々新しい力をいただき、走っても弱ることなく、歩いても疲れない、そんな人生を歩ませて下さい。

 

主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。