愛によって歩みなさい。

                                                                           箴言21~8、エフェソ51

 

 新型コロナウィルス変異株による感染が広島でも急拡大する中、長束教会は今日から日曜日の礼拝を二部制とし、出席者を分散して安全をはかろうとしていたのですが、事態は予想を超える展開となり、緊急事態宣言も出て、とうとう再び礼拝を中止するという苦渋の決断をせざるをえなくなりました。神様と、礼拝を心の糧としていた皆さまにお詫び申し上げます。

 

 先週、5月12日の祈り会で民数記10章の終わりの部分を読んだのですが、そこでは、出エジプトの旅を率いるモーセが義兄にあたるホバブという、その土地の地理に詳しい人に、荒れ野を旅する時の道案内を依頼していますが、そこで問題になったことがありました。…というのは荒れ野を進むイスラエルの民を、主なる神は雲の柱、火の柱でもって導かれていたはずです。神様の確かな導きがあるのに、なぜわざわざ道案内を頼む必要があるのでしょう。しかもホバブという人は、イスラエルの民からすると異邦人で、違う神々を信仰していた可能性があります。しかしこの人は、モーセの頼みを聞き入れ、道案内を務めることになりました。

 この話から教えられたことがあります。私たちにも神様の確かな導きがあります。ただそのことは、だからといって精神論一点張り、やみくもに前に進んで良いということではないのです。神の御導きの下、必要があれば、未信者の人の助けを借りることもあるでしょう。昨年、コロナ禍が起こって以来、韓国のいくつかの教会でクラスターが発生しています。日本でもついこの前、愛知県のある教会がイースターでの食事会からクラスターを起こしてしまいました。…信仰があるからといって、神様が信者をいつも守って下さるわけではありません。しかし、信仰はコロナと闘う力を与えてくれます。…広島長束教会がゆるぎない信仰に立ちつつ、科学的知見を決して無視せず、この難局にあたって最善の道を選び取って行けますように。

 

 それではエフェソ書に入ります。今日の礼拝説教のテーマは「愛によって歩みなさい。」ですが、愛という言葉は、この世の中でもまた教会でもありふれた、安っぽい言葉になってしまったかもしれません。今日この礼拝で、この言葉に新たな命を吹き込むことが出来ますようにと願います。

 パウロは獄中からエフェソの教会の信徒たちに送ったこの手紙で、古い生き方を捨て、新しい生き方を受け入れるよう説いており、今日のお話もその中に入ります。まず、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」というところから見てまいりましょう。

 実は、「神に倣う者となりなさい」というのは、聖書全体を見てもここにしかないたいへん珍しい表現です。…パウロは別なところで「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(Ⅰコリント111)と言ったことがあります。「キリストに倣う」という言い方はよく知られており、「キリストにならいて」という本を書いた人もいるのですが、…「神に倣う」ということを耳にすることは滅多にありません。

 神と言いますと、イエス・キリストも聖霊も、父なる神と共に三位一体の神となるのでこれが何を指すのかということになりそうですが、ここではあまり難しいことを考えず、三つにして一つの神で良いでしょう。問題は、神に倣うとはいったい何なのかということです。

 さて、この議論に入る前に、「神」について、確認しておきましょう。日本では英語のGodを翻訳する時に「神」という語を当てましたが、これはもともと神道で使っている言葉だったので、そのため混乱が起きています。…神道の神というのはご存じのようにたいへん人間くさいんですね。八百万の神と言うようにどこにでもいるような神々です。これに対しキリスト教の神は、唯一で、宇宙と人間のすべてを創造し、導いておられる神です。そのため、神道の人から言わせると、キリスト教が神という言葉を使ったために、神々のイメージが混乱をきたしてしまった、逆にキリスト教の側から言うと、全能の神が神道の神々のイメージに引っ張られて、人間くさい神様になってしまったかもしれないということになるのです。

 「神」という訳語が適当かどうか、もっとふさわしい訳語がないのかとも思いますが、今さら変えることは困難なので、キリスト教の神は唯一であり、全知全能であって、神道のような普通の人間にちょっと毛が生えたような神様でないことはおさえておきましょう。

 ただし、そうなりますと、「神に倣う者になりなさい」ということが、それこそ人々に対して絶対的な権力をふるう者になるのかということにもなりかねません。実際、昔から、聖職者がまるで神の代理人のようになって権力を行使するという例がいくつもありましたが、そこで間違ってはいけないのです。

パウロはここでまず、「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と書いています。そして、それが、2節にある「あなたがたも愛によって歩みなさい」に結びついていることがわかります。…「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」ということの結果が「愛によって歩みなさい」、そう見てゆくと全体の構造が見えてくるでしょう。

神に倣うことは、ここでは人々の上に立って絶対的な権力をふるうことではないのです。それでは神様のどの部分に倣うということなのか、となりますが、それが「愛によって歩む」ということでありまして、パウロはこのことを強調しているのです。

「愛によって歩みなさい」、もっともこれは、神様のあふれる愛の中を甘やかされた子どものように歩むということではありません。そういう勘違いをするたまにいます。神様から愛をいただくことばかり求める、依存心の強い人ですが、しかし「受けるよりは与える方が幸い」なのです(使徒2035)。パウロはここで、「キリストがわたしたちを愛して」、「御自分を、…献げてくださったように」と教えます。愛によって歩むとは、キリストの十字架によって示された神の愛によって歩むことなのです。

 パウロは「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」と書きます。ここには古代人の考え方が反映されています。旧約時代、神殿でいけにえの動物を焼くと神はその香ばしい香りをかいで喜ぶと考えられていたようですが(出2915)、いくら焼肉がおいしくて貴重だとしても、神が焼肉の匂いを嗅いで喜ぶというのはちょっと考えにくく、むしろ、これを献げてくれた人々のご自分に寄せる思いを喜ばれたということでしょう。同様に、十字架上で死なれたキリストについて香りのよい供え物となったというのも、たとえでありまして、神はその香りを嗅いでというより、このようにして神の愛をまっとうされたキリストを、私たちの想像もできない悲しみと共に喜ばれたということにほかなりません。

 そもそも、キリストが愛してくれた「わたしたち」とはいったい何様であったでしょう。「御自分を」、「わたしたちのために神に献げてくださった」ほど価値ある、「神の子供」だったでしょうか。…そんなことは金輪際ないわけですね。…エフェソ教会の人々にしても、また私たちにしても、初めから神の子供だったのではありません。神を知らない者たち、知ろうともしない者たち、神に反逆している者たちだったのです。それにもかかわらず、キリストがとうとい命をかけて御自分をささげて下さったことで、「神に愛されている子供」になったのですから、誰もが、自分がどこから来たかを思い、キリストが差し出して下さった愛にふさわしい者となるべきで、…その鍵となるのが感謝ということです。

 

 「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」

 パウロにこう言われているということは、エフェソの教会にこういうことが蔓延していたということでしょう。でも、私たちに関係ないことではありません。

こんな人がいませんか。「この人はいい人で、この家庭は円満で」、…そんな話は大嫌い。そのかわり好きなのは、人のうわさ話やマスコミなどで流すゴシップのたぐい、特に当事者が隠していたいこと、表立っては話せないことです。他人の不幸を聞いて喜ぶということもよくありますね。…だいたい良い話ならあまり広がらないで消えてしまうのに、悪い話だとあっという間に拡散してしまう、そこに人間の弱さと罪があります。

 パウロがここで列挙した言葉における罪を見るにつけ、こういうことを言いたがるというのは、それを喜ぶ思いがあるからだということがわかります。だから本当はこれを行うことはもちろん、口にしなければ良いということでもなく、そういう思いを心の中に置いてもいけないのです。

 エフェソの教会には当時、異端思想が入り込んでいたようです。それは人間は二つの部分、すなわち肉体と霊から成り立っているということに基づき、霊のみが重要で、肉体は重要ではないとするものです。肉体はやがて人間の死と共に消えてしまう、しかし霊はそうではなく、死後も神のもとで生き続ける。だから体が犯した罪、つまりみだらなこと等は体が犯した罪ではあっても、霊が犯した罪ではないので全く問題ないというものです。…そんなことは大したことではない、人間の霊が救われればそれで良いのだ、という考え方だったのです。…こういう考え方に対してパウロは厳しく反対しました。肉体も霊も神が共に創造されたものです。またイエス・キリストは単なる霊的な存在ではありません。肉体をまとってこの世界においでになったわけですから、われわれは霊だけでなく体も大切にしなければなりません。復活の時には、体もよみがえります。

 今日、これと同じような異端思想は出る幕がないと思いますが、サタンはあらゆる手段を取って人間を堕落させようとしますから、私たちも警戒を怠ってはなりません。

一方、このことと共に注意したいことは、信仰者がこれはしてはいけない、口にしてはいけないと思うあまり、非常に窮屈な性格になってしまうことがないのかということです。…人間の中にはもともとみだらなことやいろいろな汚れ、貪欲なことが満ちており、それが自然といえます。これを無理に抑えようと、たとえばうわさ話や下品な冗談をしゃべりたくなったらこれはいかんと強制的に口にチャックするとします。そうすることで罪を犯すことはなかったとしても、ストレスがたまるし、非常に疲れるもので、そういうことが度重なると人は堅苦しい性格になっていきます。未信者の人なら、キリスト教に入ると、あれはだめ、これはだめとなることが増えて、不自由なものだと思ってしまうでしょう。

しかし、パウロはこうした危険をも予知していたと思います。自分の良くない思いを無理に抑えつけるより別な方法があると教えているからです。それが感謝ということです。イエス・キリストが自分にして下さった、十字架の死を引き受けることでご自分を信じる人の救い主になって下さったことを思い、それをそのまま口に出すことはなくても、思いと言葉と態度で表わすのです。…信仰がたしかなものであれば、自分を無理に抑えつける必要はなく、努力しなくても自然に出来るものです。

コロサイ書4章6節は、信者の口から出る言葉についてこう言っています。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」。下品な冗談なんか言わなくても、その場を明るくすることを言うことが出来ます。それも苦しい努力の結果ではありません。信者なら自然に会得できるものなのです。

 私たち信仰者は堅苦しい、四角四面の人間でいる必要はありません。たとえ目の前にどんな困難がふさがっていたとしても、キリストに現わされた神の愛を受けて喜びの中にいるのが本当です。…かりにそうでなかったとしたら、それは何の理由によるのでしょう。パウロは「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者」を指して偶像礼拝者と言います。そこには神が人間に贈り物として下さった男女の関係をよごしてしまう人がいます。お金を礼拝している人がいます。また自分の腹を神としている人がいます。すべて神ではないものを神にまつりあげている人たちだから、偶像礼拝者なのです。

 そのような世界から逃れ、本当の自由に生きる者となりましょう。それは案外難しいものではありません。無理して、けんめいな努力の末に獲得するものではなく、神から恵みとしていただくものです。ですから「あなたがたは、神に倣う者となりなさい」は愛によって歩むということでありまして、私たちはこれを、神がキリストの十字架を通して与えて下さった恵みとして受け取ってまいりましょう。私たちにとって信仰生活が、自分のやりたいことを無理に抑えた不完全燃焼のようなものでなく、感謝の思いによって深められてゆくものでありますように。

 

(祈り)

 天の父なる神様。緊急事態宣言が出されたとはいえ、広島長束教会が何より大切な礼拝を中止してしまったことは悔やんでも悔やみきれないことです。どうか、この罪を赦して下さいますように。

 長束教会に関わる人たちすべてが、礼拝がなくても信仰から離れることがないように、それぞれの場所でお守り下さい。一人ひとりの命と健康を支え、礼拝の再開に備えさせて下さい。

 神様、全国の教会をこのコロナ禍の中で支えて下さい。そして、それぞれの教会のたたかいが、コロナを克服するための大きな力となることを願います。

 

 主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。