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暗闇を照らす大きな光

                                                                                                            

                                                                                                         イザヤ書8章18節~9章1節、マタイによる福音書4章12~17節  2021.5.2

                                                                                                                                                                         

 イエス・キリストはおよそ30歳の時、ユダヤの国で宣教を始められ、およそ3年半ほどの間、歴史上前にも後にもない空前絶後の働きをなされました。悪魔の3度にわたる誘惑を打ち破った時から、その公生涯が開始されたのです。マタイ福音書4章12節以下にこう書かれています。

 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」

 イエス様のご生涯を一つひとつ出来事が起こった順番に並べるのはなかなか難しいです。四つの福音書が書いてあることを分解して、パズルのように組み合わせていかなければならないからです。ヨハネ福音書には、ヨハネが逮捕される前、ヨハネの弟子たちがヨハネに「あなたが証しされたあの人が洗礼を授けています」と報告するところがあります(ヨハネ326)。イエス様が洗礼を授けていたと書いてあり(ヨハネ3:22)、その段階ですでに宣教は始まっていたことになりそうですが、ヨハネが捕らえられたニュースを聞いて、ガリラヤに向かわれたのです。

 聖書の巻末についている地図をご覧ください。「6.新約時代のパレスチナ」の地図にガリラヤがありますね。イエス様はユダヤのどこかの場所からガリラヤに向かい、ガリラヤ湖の北に面しているカファルナウムに住まわれたのです。また「4・統一王国時代」という地図を見ればゼブルンとナフタリが出て来て、この二つはガリラヤと重なっています。

 ヨハネはいうまでもなくバプテスマのヨハネです。らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としながら、まことに厳しい言葉で人々に罪の悔い改めを訴え、洗礼を施していました。この人がどうして捕らえられたのか、それは君主に対し、はっきりものを言ったからです。

 ユダヤの国は、イエス様ご降誕の時に君臨していた有名なヘロデ大王が紀元4年に死んだ後、3人の息子たちに分割統治されました。その一人、ヘロデ・アンティパスという人がガリラヤと、ヨルダン川の東にあるペレアを治めていたのですが、とんでもない人物で、妻がいるにもかかわらず、母親の違う兄の妻を奪ってしまい、もとの妻は追い出してしまったのです。このことを、バプテスマのヨハネは激しく非難し、そのために捕らえられてしまいました。マルコ福音書6章17節にこう書かれています。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。」

 バプテスマのヨハネは信仰者として当然のことを言っただけだったのですが、捕らえられて、このあとついに牢獄から出ることが出来ず、殺されてしまいます。この世の権力者が、自分に語りかけられた神の声を力でもって無理やり、ねじ伏せてしまったのですが、こうしたことはやがてイエス様の身の上にもふりかかることになります。

 さて、12節には「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と書いてあり、これだけ見ると、イエス様が、ヨハネがつかまった、危ないということでガリラヤに逃げていったかのように受け取る人もいるかと思えますが、そんな単純なことではありません。イエス様は、いきなり都エルサレムに乗り込んで、華々しくデビューすることではなく、まず田舎から始めようということだったのかもしれません。またガリラヤの地は、君主のヘロデ・アンティパスから見れば、それこそ自分の本拠地だったのです。そうすると、ガリラヤに逃げていったというのはおかしなことになります。イエス様は逃げたのではなく、まさに敵のただ中に乗り込まれたのです。

 

 救い主イエス・キリストの先駆けとして登場したバプテスマのヨハネが捕らえられ、その働きが終わりを告げたまさにその時こそ、イエス様の働きが精力的に開始されなければならない時でありました。神の人ヨハネの活動を問答無用に封じてしまうヘロデ王家の本拠地ほど、神のみ言葉を必要とするところはありません。それが、この時、イエス様をガリラヤに行かせた理由なのだと考えられます。

 13節から読みます。「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。』」

 皆さんご存じのように、聖書には旧約聖書と新約聖書があり、旧約聖書に書かれたことが新約聖書で実現していると言って良いのですが、ここがその典型です。マタイ福音書4章15節、16節で引用されている言葉はイザヤ書の8章23節と9章1節の言葉です。イザヤ書で預言された言葉がここで実現したのだということで、マタイ福音書に引用されているのです。

 イザヤが「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川のかなた」と呼んだところは、すべて「異邦人のガリラヤ」と名づけることのできる地方で、その中心にあった町がカファルナウムでした。…なぜ「異邦人のガリラヤ」と言われたのでしょう。異邦人とは良い言葉ではなく、ユダヤ人が外国人を上から目線で見て言う言葉です。…日本では昔、ヨーロッパ人を南蛮人、南の野蛮人と言ったのですが、それとよく似ています。

 ガリラヤは昔からイスラエルの民が住んでいたところですが、外国と国境を接していたために。しばしば外国からの侵略を受けました。特に紀元前9世紀には、アッシリアという国に攻めこまれ、多くの民が異国に連れてゆかれ、逆に多くの外国の人々が送り込まれてきました。その結果、ガリラヤは、イスラエルの民すなわちユダヤ人と異邦人がまじりあい、その意味で「異邦人のガリラヤ」になってしまったのです。…今の日本では、ほとんどの人が日本語を話し、同じ色の肌をしていますが、かりにどこかの県に大量の外国人が移住してきて、日本人と外国人が混じりあってしまったら、あそこはおれたちとは違うと言う人が出るでしょう、そんな感じです。純粋なユダヤ人は、ガリラヤなんて、と思っていたのです。…ただ、そのことだけがガリラヤの人々を闇の中を歩む民、暗闇に住む民にしてしまったのではありません。

 イザヤ書8章21節以降はこう書いています。「この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、今、苦悩の中にいる人々には逃れるすべがない。」人々の苦しみが集中的に現れたのがガリラヤの地だったのですが、その時、人々はどうしていたか、それが19節の「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか」という言葉にあります。

口寄せと霊媒はほぼ同じ意味で、死んだ人の霊を呼び出し、お伺いを立て、それを生きている人に取り次ぐという人のことです。苦しみと悩みのために打ちひしがれ、どうにも出来なくなった人たちが死者に頼るのです。死んだ人は生きている人をはるかに超える力を持っていると、だからその言葉を聞こうとするのです。…その時、20節は書いています、「教えと証しの書についてはなおさらのこと、『このような言葉にまじないの力はない』」、死者の言葉は聞くけれど、聖書の言葉は聞かないのです。

皆さん、苦しみ、悩みの時に神様のもとに来ようとせず、死んだ人の言葉を求めることをどう思いますか。それが本当の解決になりますか。…最近見たNHKの大河ドラマに、何かの問題で悩みに悩んだ人たちが先祖の霊を呼び出してもらう話がありました。女性が、死者の霊が乗り移ったと言って語り出すのですが、その時、若き日の渋沢栄一が、ご先祖様が生きていた時の年号は何だったかと尋ねた、すると女性は答えられない、…こうしていんちきがばれてしまうのです。…苦しみ、悩みの時に、こんな不確かなことに頼って、大事な決断をする、それは苦しみをなくすどころか、ますます増やしていくことにしかなりません。ガリラヤの人々はそういう状況のまま何百年も過ごしてきたのですが、解決策はどこにあるのでしょうか。

科学が進歩することで迷信は淘汰されると言う人がいますが、しかし、科学がこれだけ進んだ21世紀になっても迷信はなくならず、日本には口寄せも霊媒もまだ残っています。迷信は科学ではなく、本当の神様を信仰することによってはじめて克服されるのです。

 

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」、暗闇の世界、死の陰の地に住んでいる人が上を見上げた時、まばゆいばかりの大きな光が輝いた、これは何のことでしょう、そうです、まさにイエス・キリストがおいでになったことで起こったのです。

 イエス様が来られてカファルナウムの町に住まわれたことは、当時、人々から大きな注目を浴びるということはなかったでしょう。君主のヘロデ・アンティパスも、何も気にしていなかったはずです。しかし、その時、いっけん地味なことに見えながら、実はまことに大きなことが始まりました。イエス様が「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝えることを始められたのです。

 ここで「宣べ伝える」という言葉は、父なる神から権威を与えられた者がメッセージを伝えるという意味の言葉です。イエス様は神と等しいお方でありますから、この場合、最高の権威をもってみ言葉を語ってゆかれたことになります。

 「悔い改めよ」と言われますが、何を悔い改めよというのか、皆さんおわかりですね。罪を悔い改めるのです。神様に背く、それが罪です。ガリラヤの人々は聖書の言葉を重んじることをせず、そのかわり死者の言葉に頼りました。そのことで果てることのない苦しみから逃れようとしたのですが、出来なかった、ならば心の向きを本当の神様に向けて、罪を悔い改め、それまでの古い自分を一切投げ捨ててしまいなさいということなんですね。

 もう一つ、「天の国は近づいた」ですが、ここで言う天の国とは、死んでから行くところではありません。これは神の国のことです。神の支配と言いかえても良いでしょう。…悔い改めるのは、天の国が近づいているからです。…神様の支配なさる世界がもう、すぐそこまで来ている。神様の働きが、今この世において始まる、実はもう始まっている、私が来たことによって始まっている、だから罪を悔い改めなさい、イエス様はそう教えられたのです。

 

 イエス・キリストはまさに光です。イエス様はヨハネ福音書8章12節でこう言われています。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」広島長束教会の今年の主題聖句にもなっている言葉です。

 皆さんの中には、もしかしたらイエス様が光であるということがまだピンと来ていない人もあるかもしれません。しかし光があって初めて闇の正体が見えてきます。世の暗闇を暗闇とも思わず生きている人は、光に照らされて初めて、自分が暗闇の中にいることを知って衝撃を受けますが、そこから抜け出す道がイエス様によって示されているのです。

ガリラヤの人々に与えられた同じ言葉が私たちに与えられています。光であるイエス様を信じる人は暗闇から光の世界に飛び立ちます。このことを信じて行うことの出来る幸せを感謝いたします。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父であり、私たちの父でもある神様。

私たちにこざかしい知恵ではなく、本当の知恵を与えて下さい。他人を押しのけ、自分だけ良くなろうとする知恵ではなく、暗闇を照らす光、イエス様を見ることのできる知恵を与えて下さい。自分の心の向きを神様に向かって変えることが出来ますように。自分でも気づいていない自分のみじめな状態を悟らせ、闇の世界から光の世界に飛び込んでゆく勇気を与えて下さい。

神様、コロナ禍が広島でもどんどん深刻化していく中、人々の健康と生活を守って下さい。そして教会の礼拝をお守り下さい。また礼拝が出来なくなって、みことばを聞くことの飢饉が広がることがないよう、心からお願いいたします。

とうとき主の御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。